シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー

映画俳優による“監督ごっこ”にせんどブチ切れてきた私がハリウッド女優オリヴィア・ワイルドの初監督作をみた  ~現したのは頭角か、馬脚か、はたまたお尻かSP~

2019年。オリヴィア・ワイルド監督。ケイトリン・デヴァー、ビーニー・フェルドスタイン。

高校卒業間近、優等生の2人組が卒業パーティーに参加するんだって。


うん、やろやろ。
ブログをやってると、たびたび他のブロガーに記事を引用して頂く(=リンクを張って頂く)ことがある。
そういう時は「IDコール」といって、「あんたの記事がよそ様で引用されたで。見に行き~」といったお知らせが届くようになってるのだが…
先日、某音楽サイトで『ハードロックとヘヴィメタルの違いについて講釈を垂れる』の記事が取り上げられたというので読みに行ったら「ユニークな記事だが極端すぎる」とか「たしかに、と膝を打つ部分もあるが極端すぎる」など、しきりに極端性ばっかり取り上げてえ!!
ディスっとるやないか!!!
あの記事は「ハードロックとヘヴィメタルの違いを分かりやすくするためにあえて極端な物言いで説明する」ってとこまでが1つのパッケージっていうか、極限まで単純化するとこんな暴論になるよ~というある種の思考実験っていうか、そこもぜんぶ含めてのジョーク記事、みたいなパロディ精神で書いたものだからさ。
真面目に読むなよ。

またある時は、わけわからんブロガーからIDコールされたので記事を見に行ったら、どこにも私のリンクが貼られてなくて不思議におもった。
これなに。手品…?
混乱して、しばらく自部屋でくるくるしたが、キムチ鍋をつくって理性を取り戻すことに成功した。うれしかった。
余談だけど、キムチ鍋に白菜とキムチを両方入れる派にとっては、食べてる最中に「これ白菜? キムチ? どっち?」ってなることあるよな。そのあと「まあ、表裏一体か」ってところに落ち着くんだけど。

~今日の一句~
「目にゴミが…」っていう涙の言い訳
たぶんもっとええのあるよな

そんなわけで本日は『ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー』です。
よろしゅうに~。



◆「オーケー。大体わかったわ」◆

 “消費さるべき映画”としては『ブックスマート』はやや惜しい。そう思わせてくれるほどには聡明な映画だった。
卒業を間近に控えたガリ勉JK2人組が卒業パーティに参加する…というだけの筋なのだが、これが思わぬ旅へと発展し、感動的なドラマを紡ぎ出すというのだ!
おカタい彼女たちが、バカで賑わう卒業パーティに繰り出した動機は“勉強漬けの3年間を取り戻すため”だった。やっとの思いでイェール大学に合格したものの、それまで遊び惚けていた周囲のクラスメイトたちも名門大学に進学すると知った二人は無常を味わった。
「まじめにコツコツ勉強に打ち込んできた3年間は何だったの!」
ならばと卒業式前日。リア充で犇めくパーティに参加して、軽佻浮薄、酒池肉林、放蕩無頼を極めようではないか。3年分の青春を一夜で取り戻すんじゃいいいい。
いま始まる! ブックスマート(学識はあるが常識がない奴ら)による恋の火遊びと青春の夜遊び!
人生の悦びは教科書には載ってないんじゃ!

ビーニー・フェルドスタイン。

 主演の2人組を演じたのは『ショート・ターム』(13年) ケイトリン・デヴァー『レディ・バード』(17年) ビーニー・フェルドスタイン(兄はジョナ・ヒル)。
そして監督がオリヴィア・ワイルドだ。
O・ワイルドといえば『トロン: レガシー』(10年) での準主役で注目を浴び、その年の「ベストおかっぱ賞」を総なめにして以降、2010年代は多くの作品で端役を飾った女優として人々の記憶に微かに居座り続けていたが、そんなオリヴィアが「ええい埒あかん。ままよ! 監督業じゃあ」とばかりに急にメガホンを握りしめたのが本作。
…埒ってなんなんだ。

当方、映画俳優による“監督ごっこ”には否定的で、当ブログでも過去にデンゼル・ワシントンエドワード・ノートンエリザベス・バンクスらを悪鬼の形相で叩き斬って来たが、とはいえ別に「役者が映画を撮るな」と言っているのではない。
下手なヤツが映画を撮るな。
それだけの話だ。映画俳優は撮られるプロであって撮るプロではないから多くの場合“ごっこ遊び”の域を出ないわけであって、べつに撮るプロでなくとも生まれながらの嗅覚を持った“ごっこの遊びのプロ”は存在する。その頂点がオーソン・ウェルズでありイーストウッドなんだろ?
いい映画を撮ってくれりゃあ何だっていいんだよ。俺がムカついてるのは、その器も能力もないのに「わて役者。30年やった。いろんな現場知ってる。だから自分にも撮れる」という役者サイドの思い上がりだ。ふざけ散らせ。腐れドル箱スターが。駒が将棋を指そうとすな。
だが将棋を指せる駒なら当然将棋を指す資格がある。いいか。これは不可能性についての話だ。

その点、オリヴィア・ワイルドの今度のチャレンジはなかなかに興味深い。
冒頭20分では優等生さながら“お勉強した映像作法”のタペストリーゆえに「監督オリヴィア・ワイルド」は見えてこない。
つまらん。また“これ”か。
ばえる画面作りや、エモい編集のリズム、A24的な映像の肌理に色彩感覚…といった“トレンド映画の理論”が、まさに主役2人組のようにお堅くフィルムを組織している。まるでケビン・コスナーの監督作みたいだ。本で学んだだけの生硬な映画術。故にほとんど隙がない。隙はないが作家性もない。
ま、見てりゃそのうち現すだろ。
頭角か、馬脚か!?

頭角だった~~~~。
馬脚が現れるのかと思いきや…頭角が現れたぁ~~。
物語が加速する中盤から俄然スクリーンが色めき立ち、活きのいいショットの乱打。“連打”じゃなく乱打。
こいつ…すでに考えることをやめてやがるのか…?
オリヴィア・ワイルドさんは考えることを止められました!?
初監督作でこの域か。教科書通りに作った冒頭20分で「オーケー。大体わかったわ」ってか? それ以降は、あくまで正道から外れぬ範囲でうまく“感覚化”させながら映画を撮っている。頭で撮るでも勘で撮るでもない。最初に蓄えた知識に依拠した皮膚感覚で後半部を撮っている。物語のボルテージが高まるほどに、画面と編集は心地よい呼吸をつくり、色彩と音楽が有機的に絡み合う。
たった一本の映画を通して、撮り手がドクンドクンと成長していくさまを感じた。久っさしぶりの感覚だな。参ったな、こりゃあ。
主役2人だけでなく監督自身の成長物語でもあるってか!
よっしゃ。オリヴィア・ワイルドはん。
もっといっぱい映画撮り。
この女は撮れば撮るほど強くなるタイプと見た。今すぐ女優業やめて監督一本でいってくれ。
ジョディ・フォスター殺せるぞ、これ。

『トロン: レガシー』のワイルドさん。

◆カスはカス◆

 前章では抗しがたい興奮から「オリヴィア・ワイルド讃」とも呼ぶべき一方的パッションを打ち出してしまったが、ポカリスエットを二口飲んで冷静になったところで中身の話をしていく。中身の話せな。
ガリ勉コンビ、ビーニーとケイトリンの目的はただ一つ。リア充筆頭の生徒会副会長メイソン・グッディングが主催する卒業前夜パーティに飛入り参加してハメを外すことだ。
ハメを外す。実はこれは建前で、真の狙いは別にあった。生徒会長でもあるビーニーは副会長のメイソンに密心を抱いていたのだ。これまで2人の間に交流はない。なにしろメイソンはスクールカーストの最上位に君臨するべく副会長の役職に就いてるだけのハイパーリア充だからである。だがビーニーは、そんなメイソンに惚れてしまった己が不明を恥じながらも、毎晩ホットな妄想に股間を火照らせている!

 一方のケイトリンは、相棒のビーニーにだけ自身がレズビアンであることをカミングアウトしており、現在は学年きってのスケーターガール、ヴィクトリア・ルエスガに片思い中。ヴィクトリアはソバカス&眼鏡っ子という、お世辞にもカースト上位とは思えぬ地味なナリだが、その天下一品のスパーキングスマイルと竹を割ったような性格で広く親しまれている人気者。性的指向は不明だが「私と同じだといいな」という願いを星にかけて、今宵もホットな妄想に股間を火照らせるケイトリン!
そんな2人が卒業式前日の夕方、股間股間と息巻いてメイソンのパーティに向かおうとしたが、よく考えたらメイソン家の住所知らねーという話になって右往左往。メイソンらのSNSをヒントに住所の特定を試みるも、行き着いた先は別の生徒が主催するパーティ。
かくして深夜のカリフォルニア州サンフェルナンド・バレーを舞台にしたプチロードムービーが始まるのであった…。

ビーニー(左)とケイトリン(右)。

 とはいえ見所はメイソン家に到着した物語後半部。
ここへ至って先の“感覚化”はピークに達しており、2人の片思いの顛末もさることながら、やはりホームパーティというごく限られた映画的環境の中ですばしこく這う蛇のように、ドラマを、ショットを縫い上げるカメラの天衣無縫。
ことによると監督はジョン・カサヴェテスを観たのかもしれない。それでなくともボグダノヴィッチの『ラスト・ショー』(71年) かルーカスの『アメリカン・グラフィティ』(73年) くらいは予習しただろうよ。それくらいカメラの据え方が的確だっつー話だ。
導線と視線が同化する活用もいい。ケイトリンがヴィクトリアを追ってナイトプールに飛び込むシーンの愚直さを見るがいい。かつてこれほど切ない下半身ショットがあっただろうか。ない。そしてこんなことをする愚直さ。いい。


また、この後半部が胸を打つのは、それまではただ記号でしかなかった同級生…もといDQN生たちに“人としてのパース”が附与されていくさまである。
ビーニーと対立しているカースト上位勢のモリー・ゴードンは、性に奔放なのに秀才であることから「トリプルA」の異名でブイブイいわせていたが、実はそう呼ばれることを嫌がっており、かかる本心をビーニーにだけ打ち明け「名前で呼んで」と言った(トリプルAは“成績優秀”という意味と“路肩でサービスする女”のダブルミーニング)。
つまり「トリプルA」とは美称であると同時に蔑称でもあったのだ。
カースト上位組にも上位組なりの悩みがあったのねぇ。

またメイソンも、いざ付き合ってみればそう悪い奴でもなさそうで、ビーニーと楽しくゲームなんかしながら「あんた最高。今までつるんで来なかったのが勿体ないぜ!」なんつってアッという間に仲よしに。
これまでビーニー側から見た“チャラチャラした馬鹿ども”にも魅力があり苦悩があり、もちろん馬鹿なとこもあるけど、自分とそう大して変わらない人間だから一括りにしちゃいけないねって。
我がことながら最近ひしひしと感じてるわ。
私もビーニーと同じく人を見下す癖があり、たとえば大声で騒ぎながら道を横一列で歩くサラリーマンの酩酊集団を見れば「はい、来世に期待。地球を救えないアルマゲドンメンバー御一行様、そのまま地獄に直行でーす」と思ったり、居酒屋で隣りの席の姉ちゃんに絡み出して勝手に逆上してるおっさん連中を見て「はい、来世に期待。店員さん、保健所に電話して下さい。ワンちゃんネコちゃんの代わりにこいつらを殺処分すればもっと明るいニッポンになりますよ」と言いかけたり、6年前の真夏日に人混みの新京極通りを歩いてるときにバンバン人にぶつかりながらスケボーしてる奴らがこっちに向かってきたので「どけ、ガキ」と言ったらすぐスケボーから降りて「あっ、すいません…」と謝ってきたので、広い心で「謝るぐらいならこんな所でスケボーすな」と難詰するぐらいには心のせまい人間である。

でも、そんな連中にも好い面はあるんだよね。よく言うじゃん、どんな極悪人にも親や友達がいて、彼らから見れば案外やさしかったりお茶目な一面があったり…。

って納得できるかあ!!!
あぶな! この映画に騙されるとこでした!
カスはカスだろ。たとえば人間が18面体のサイコロだとするだろ。そのうちの1面に「動物に優しい」と書かれてても、残り17面が「不義理」、「盗み」、「家焼く」、「街のバアさんど突く」とかだったら?
そりゃカスだろ。

同級生は曲者揃い。

 ただ、とかくこの手の青春映画で一括りにされがちなジョックやクイーンビーの多面性にも光を当てたのは偉いと思うし、ぬくもりがあるわ。
まあ『ブレックファスト・クラブ』(85年) なんだけどさ。やってることは。
少なくとも抒情に傾かない青春映画というのはそれだけで貴重だ。
尤も、ガールズムービー特有の下ネタオリエンテッドなダイアローグは冗長極まるし、全体的なテンションにもついて行けず「これ…何がおもしろいの?」というシーンも多かったが、まあそこは好みの問題だし、文化の問題だし。好き嫌いと良し悪しは別。
 “消費さるべき映画”としては『ブックスマート』はやや惜しい。そう思わせてくれるほどには聡明な映画だった。次作にも期待。

~うれしい追記~
「次作にも期待」で締め括った当記事は4ヶ月前に書かれたものだが、なんと! ちょうど来週、11月11日にオリヴィア・ワイルドの監督2作目『ドント・ウォーリー・ダーリン』(22年) が日本公開されるっていうんだ! 狂気と不思議に満ちたユートピア・スリラーなんだって!!!
なんやそれ。
なんでもかんでもオリジナルのジャンル名作るな。なんじゃ、ユートピア・スリラーて。新鮮な響きで興味ポインツ稼ごうとすな。

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