人嫌いとは人のことが嫌いなのではなく人にまったく興味がないってことなのさ。
2019年。リチャード・リンクレイター監督。ケイト・ブランシェット、ビリー・クラダップ、エマ・ネルソン。
家族旅行で行くはずだった南極にママがひとりで行く話。
どうもありがとう。
近所のはなまるうどんで温玉ぶっかけ(冷)とナスの天ぷら食べた。
嘘だと思うでしょう?
食べたんですよねえ。
懺悔せねばなりません。俺は今まで、うどんのことを低く見積もっていました。安いわりに腹持ちするよね、という理由だけで鍋に入れるような矮小な存在だと思っていました。小麦粉を紐状にしただけのだらしない物体だと思ってました。食べれるパーカーの紐、ぐらいの評価でしたわ。
違ったんですなあ。うどんがこんなにも美味しかったなんてね。はじめて知ったよ。この感動はツイッターでもツイッターしました。
初めてはなまるうどん行った。セルフやねんな。水もらう方法わからんかったからお姉さんに聞いたら教えてくれた。
優しさ、はなまる!
そのあとお姉さん、調理場で銀のオボン全部ひっくり返してた。ものすごい音した。
賑わい、はなまる!
5分後、今度はお箸ひっくり返してた。
ちゃめっけ、はなまる!
午後7:07 · 2024年3月16日
爾来、たまに思うのです。
「はなまるでうどんしたいな」
過日。お休みの午後に、神の啓示か、突発的に「うどんしよ」と思い立ち、はなまるうどんにビュウウウウ!
風の子となりてビュウウウウ!
「俺は五車星のひとり、風のヒューイ!」とかなんとか言ったかどうかは覚えてないが、とにかく店にすっ飛んでいき、温玉ぶっかけ(冷)とナスの天ぷらをもりもり食べるに至る。
美味(びみ)ってんね!
クリスティーナ・美味アンだわー。
パワアが漲るわー。この漲りに漲ったパワアをどうしよかな。一気に放出してピンボールみたいに世界中に反射させて高スコア狙おかな。パワア勿体ないし、やめとこ。
無料トッピングの天かす・ごま・七味・すりおろし生姜・醤油にはノータッチを貫く。これが俺の流儀。出されたものをそのまま頂く。これが俺のstyle。変にカスタムして自我をださない。格好つけて拘りをださない。It's My Life。客は客らしく、大人しく飯にありつく。提供されたものをありがたく頂く。命に感謝。小麦に感謝。生えてくれてありがとうと唱える。箸でうどんを持ちあげて「イネ科コムギ属の誇りです」って伝える。あと作ってくれたお店の人にも当然感謝。朝ちゃんと起きて出勤してくれてありがとう。うどん茹でてくれてありがとう。冷水でしめてくれてありがとう。
泣きそうになりながら讃岐うどんを俺、味わいます。興奮してたけど、少ししたら落ち着いた。
店内には、へちゃむくれの男子高校生3名と、欧米人の観光の男性1名がいた。それと俺の横っちょには日本人女性が1名。
横の女性は、アイポンとよばれる多機能魔術装置を眼前に置いて、わけのわからないアニメを見ながらうどんを啜っていた。たまにむせていた。「ごっほ」とむせたあとに小声で「なんで」と呟いてた。アニメ見もって啜るからそんなことになるのとちがうかな?
男子高校生3名は少し離れた席で、期末テストがどうのみたいな話で盛り上がりながら、めいめいがうどんを啜っていた。ズビズバ、パパパヤって感じだった。ええやん。なんて可愛らしい青春の子たちだろ。うどん食うたら100点とれるわ。俺は君たちの期末を応援しています。期末アンバサダーです。うどん食うて100点とったったらええねん。
そんな中、欧米の男性の観光客だけが粛々とうどんを食べており、箸で持ちあげた一本のうどんを、まるで忍者を見るみたいな目で観察し、蛇のようなすばしこさでチュッと啜り「ウマイー!」みたいな反応をした。「お宝ー!」みたいな顔もしていた。
…お宝?
俺は、なんてすてきな観光の欧米のお兄さんなんだろと思い、この観光客に心のなかで表彰状を授与した。授与式アンバサダーでもあるからね。心のなかで観光客は「ありがたいー!」と言っていたと思う。「お宝ー!」みたいな顔もしていたと思う。
お宝?
外国人が考え、そして発表する、最もポピュラーな日本食といえば寿司とラーメン。
だがそれは間違いだ。そんな発表をしてもムダだ。外国人が考える寿司なんて、いわばスッシ。ラーメンは、いわばラルメンだ。似て非なるもの。パラレルワールドの別の産物である。日本に対する幻想。ミラージュ。いわばジャパージュ。欧米人がアニメや映画で見知った“欧米圏から見た日本食のイメージ”。そう、イメージにすぎないよ。
そのイメージの世界において、蕎麦やうどんや素麺は存在しない。そも、多くの欧米人は蕎麦もうどんも素麺の存在も知らず、ジャパニーズヌードルといえば、もっぱらラーメン、否、ラルメン一択なのである。ラルメンというのは、欧米人が考えるパラレルワールドの日本、通称ジャパージュに存在するラーメンのことね。
だからジャパージュにおいては、蕎麦の紛い物であるソッヴァや、うどんの紛い物であるウドゥンや、素麺の紛い物であるスーメンしか存在しない。
にも関わらず、この観光客は、いっさいの予備知識なし、先入観なし、バイアスなし、つまりジャパージュの霧の中ではなく、いま僕たちがいる真実の日本、いわばトゥルーポンにおいて、初めて本物の讃岐うどんと対峙し、驚嘆し、戦慄し、多分ほんのちょっとだけ小便もちびり、箸で持ちあげた一本のうどんをまるで忍者見るみたいな目で観察し、蛇のようなすばしこさでチュッと啜って「ウマイー!」と言ってのけたあ!!!
すばらしいことだ。端倪すべからざることだ。
第一、日本に来てうどんを食べる、という行為自体がイカすよね。なんてセンスに満ちたスケジュールだというんだ。多くの観光客はラーメンなのに。回転寿司なのに。回転寿司食うて「これが本物の寿司かああああ!」つって喜んでるのに。べつに本物ちゃうよ。ほんで、何皿か食うたあと普通にコーラ飲みながらアイス食ってるのに。
祖国でやれよ沙汰なのに。
回転寿司にきてコーラとアイス楽しんでるやん。祖国でやりーな。別にええけど。
わざわざ京都まできてマクド食うたりスタバ飲んでるアメリカ人っぽい観光客に対していつも思うよね。別にええけど。すきずきやし。でも祖国でやれよ。そっちがオリジンやろ。原作者やろ。
こないだサイゼリヤ行ったときも、あれはイタリアの女性だったのかな、ピザ食べてた。
祖国でやれよ。わざわざ日本のファミレスで薄っす薄いピザ食べて。もしかしたらイタリアじゃなくて別の国の人だったかもしれないけどね。…いや、だとしたら他国でやれよ。他国でピザ食べたらよろしやん。
別にええけどね。すきずきやし。口やかましいこと言ってごめんね。こんなこと言ってる俺も、きっと海外とか旅行したら、ホテルで溝口健二の映画とか観ると思う。想像するだに楽しそうだもん。「あえて海外で観ることで日本映画というものを客観的ちゅうか相対的に見つめ直せそうな気がする」とかなんとか言うて。ほんで思われるんやろな。「祖国でやれよ」ゆうて。清掃のおばちゃんに。「そっちがオリジンやろ」言われて。傷ついて泣いて。
なんしか、あの時、はなまるうどんにいた欧米の観光のお兄ちゃんのことをすてきだと俺は思った。
あんた、最高にクールだよ。コシのある男だよ。ジャパージュの幻想に惑わされることなく、その霧をはらい、うどんを食べちゃうなんてサ。常人には真似できないスケジューリングを、あなたはしました。すげえ予定、立てました。食生活、はなまるだよ。ありがとうな。祖国に来てくれてありがと。今度は俺がそっちに行くから。どこか知らんけど。そっちの祖国に。こっちの国家、来てくれてありがと。
そして期末テストの3人組。君たちが幸せそうにうどん食うてたのが、いい、と思った。期末がんばれ。きっとがんばれ。選択問題はだいたい②やから。迷ったら上から2つめ選んだらええから。あの子らの頭上に希望が降り注ぎますように。
きらめけ、十代!
ほんでアニメ見ながらむせてた女性。見んな。閉じろ。スマホ。「なんで」やあるか。だまれ。ながら食いすな。感謝せえ。小麦に感謝。小麦を植えてくれたところから感謝。その植えてくれた人が誕生したところから感謝できれば尚よし。
起源、大事にしてこ。
うどん、大事に啜ってこ。
そんなわけで本日は『バーナデット ママは行方不明』です。豊かな心をもって、小鳥が肩に止まってくれるような人間になりたい!
でも糞は付けられたくない。
◆南極旅行はイン寄りのポッシブル◆
これねえ、劇場で見損ねちゃったのよ、アテクシ。リチャード・リンクレイターの最新作だというのによォ!
リンクレイターといえば、一組のカップルの人生を映画内時間と実時間を同期させて描いた『ビフォア・サンライズ 恋人までの距離』(95年) に始まるビフォア三部作、実写とアニメを融合した『ウェイキング・ライフ』(01年) および『スキャナー・ダークリー』(06年) 、ハードロックを主眼に据えた王道コメディ『スクール・オブ・ロック』(03年) 、また近年では主演の子役が青年に成長していくまでを12年間に渡って断続的に撮影した、時間的な意味での超大作『6才のボクが、大人になるまで。』(14年) など、メジャー映画を手堅く撮る一方で、前代未聞の撮影形式や映像技術を駆使する、実験精神が服着て歩いてるような知的生命体である。
この男のテーマは“時間と人生”。
人生化された悠久の時間、あるいは時間化された有限の人生を描く…という意味では、どこか歴史小説家じみたところがあるでやんすね。
『ビフォア』三部作。
そんなリンクレイターの最新作『バーナデット ママは行方不明』は、ケイト・ブランシェットを主演に迎えた家族の物語だ。
バーナデット演じるケイト・ブランシェットはかつて天才建築家として一世風靡しながらも夢破れ、現在はマイクロソフト社で謎のテレパシー装置を開発せしめた夫ビリー・クラダップと、寄宿舎のある進学校への内定が決まった賢娘エマ・ネルソンとともに半ば隠遁に近い日々を送っていた。いつも気怠そうなアンニュイママだった。
ある日、エマが内定のご褒美に南極旅行に行きたいなどと突拍子もないことをほざき出す。ケイトとビリーは思いとどまらせようとしたが、口達者なエマとの弁論に敗れたうえ、なりゆきブーストも掛かって結局行くことになった。
その日からママの調子がおかしくなる。
多くの天才がそうであるように彼女もまた極度の人嫌いで、人間関係においてすぐにトラブルを起こしてしまう。数日前には、同じ学校に子どもを通わせている隣家の主婦クリステン・ウィグから「迷惑なのよ!」とケチをつけられたので、自宅の庭のブラックベリーを伐採したが、そのせいで大雨の夜に地盤が緩んだ庭が土砂崩れを起こしてクリステン宅を破壊してしまった。身の回りの世話やスケジュール管理などはマンジェラという名の仮想秘書にメールで一任している。
そんな彼女に南極旅行など、イン寄りのポッシブル。つまり不可能。南極に行くにはクルーズツアーを利用せねばならない。だが旅の道連れは何百人ものアカの他人。むり。
だが娘のことは愛してる。だから南極には行く。気は乗らないが行く。娘を悲しませないためにこそ私は南極に行く。
行くぞ、ウォー!
そう決意した彼女だったが、出発の日が近づくにつれてストレスが漬物石のようにのしかかり、やがて奇行が目立つように。
心配したビリーが精神科医(ジュディ・グリア)に相談したところ「奥さまは鬱病です」。そう言われ消沈するビリーだったが、弱り目に祟り目、ビリーのオフィスにFBIがやってきて「あなたの奥さんが使ってる仮想秘書ですがね、ありゃあロシアの犯罪組織のダミーですよ!」。
個人情報まるごとイかれてた。
懊悩の末、ビリーは妻を呼び出し「南極へは僕とエマだけで行く。その間、キミはしばらく病院で休むといい」と提言した。最後の愛だった。だが彼女はヒステリーを起こす。私を精神病院に縛りつける気か! なにさ! そう言い残して風魔一族の末裔みたいな速さで逃走した。
「速ぇ」とビリーは呟いた。
彼女は一人で、勝手に、南極に行ったのだ。
いま始まる! 一人で勝手に南極に行ったママを追うべく娘とパパが猛追跡。
『バーナデット ママは行方不明』であります!!!
◆人嫌いのおれが見る!とびっきりの人嫌い映画◆
2019年の作品でありながら本国アメリカから丸4年も遅れた2023年にようやく日本公開された不遇の本作に「他者との距離感の難しさやオンライン上での閉塞的な交流など、コロナ禍を経た今だからこそ見る値打ちがあるよねー」などと取ってつけたような惹句を援用する気はさらさらないが、ほぼ同時期に『TAR/ター』(22年) と本作が見れる(見比べられる)というのは日本配給の利するところではあるんだよな。
本作は『TAR/ター』 同様、“天才についての物語”である。もっとも、あちらは現役の天才で、こちらは元天才。あちらが強い天才なら、こちらは弱い天才についての物語、ちゅこって、その両方を天才女優のケイト・ブランシェットが演じたわけですから、この2作は姉妹作というか連作として見て頂きたいわけですよね。弊社といたしましては。
天才についての物語ゆえか、本作は少し抽象的で捉えづらい内容である。
なぜおれが前章で割としっかりめに筋を紹介したかというと、それこそシナリオの透明度が高すぎるので、仮にアホが本作を見た場合、その子はアホだから「形而上的すぎてわからないよー」と音を上げるだろうと考慮したからである。まあ、形而上なんて言葉を知ってる時点でアホではないのかもしらんが。
まるで純文学小説のように叙事ではなく抒情で語られているため、まず何をおいてもバーナデットを理解をする必要がある。これが必要条件であり絶対条件だ。
ちなみにアテクシ自身はこの映画がいたく気に入っている!
「いたく気に入っている」なんて、さも他者に対する言い方みたいな珍奇な言い回しではあるが、いまから少しばかり自分語りをさせて頂くので、その気恥ずかしさを払拭する手段としてアテクシはアテクシ自身を客体化するっ。
バーナデットの人物造形をなんら疑問もなくスッと呑み込めたのは、別にアテクシが映画の見方に長けていたからではなく(まあ長けていることには違いないが)、たまたまバーナデットとアテクシの気質が少しく似ているのか、バーナデットに自分自身を重ねやすかったからと違うかな。
まず“人嫌い”というファクターだが、これが妙にリアルで、太宰治の読感をスクリーン越しに追体験するような変な倒錯感覚を味わった。
ちなみに太宰文学の特徴は、広く大衆に向かって書かれた作品にも関わらず、それを読んだやつらは皆一様に「まるで自分に向けて、自分だけのために書かれた文章のやうだ。なぜ太宰は、かうも私の心が判るんだ。この作品を理解できるのは世界で一人だけ。ミー!」という錯覚に陥るほどに心のニッチな機微を照れと自嘲の自意識で素描した点にある。
翻ってバーナデット。凡百の映画で描かれる記号的な“人嫌いキャラ”とはまったく異なり、最低限の社交は心掛ける、ご近所さんとも上っ面ではあるが会話もする、愛想笑いも浮かべるのだけれども、根底にあるのは“無関心”。
大体なぁ~。人嫌い人嫌いと言うけれども、人嫌いというのは人のことが嫌いなのではなく人にまったく興味がないことなのよ。いちいち嫌うほどの感情さえ他人に対して抱かない。ちゅか、抱けない。
おれ自身がそうだから、今はおれベースで話してるし、おれの思う“人嫌い”を勝手に規定してるけど、皆目見当違いだったらごめんねバーナデット。
幼少時分からそうでんねん。人付き合いがめっぽう悪くて、人に対する興味関心が全きゼロでんねん。特に…不遜な言い方だけど、普通の人。思想や感受性、あるいは言語感覚や美的意識、生き方、意見、リアクションなどが至って普通の人、すなわち世間一般の99.9%以上の人に対して、ちょっと自分でも信じられないくらい、相手に対して失礼なぐらい興味が持てない。興味が持てないから、話をしようとか仲よくしたいとも、べつだん思わない。
特別な人が好きだ。ピカッと光るなにかを隠し持ってるような。人があまり使わないような語彙を操ったり、珍しい角度からハッとさせられる感想を口にしたり、変なところに着目する人にはすごく興味がある。あと、なんぞ創作活動をしてる人。表現者。ちょっとズレてる人。そういう人が好き。というより、そういう人しか好きになれない。厳密には“そういう才能”が好きなんだろうな。人嫌いの、才能好きというか。
鑑賞中、いちばん生々しいなと思ったのは、バーナデットが図書館でファンの娘に話しかけられた場面だ。自分がいかにバーナデットの建築から影響を受けたか、どれだけ尊敬してるかといった入魂のメッセージを滔々と述べた娘に対して、どう反応してよいものやら、周章狼狽のバーナデットは「ああ、ああ…」と話をすべて聞き流し、テキトーなところで足早に去ってゆくのだが、ふと思い出したように振り返り、その娘に向かってぎこちない笑顔で手を振ってやるのだ。
もちろんこれはファンサービスなどではなく、その娘に興味がなさすぎたために起こしてしまった塩対応への贖罪、および他者とのコミュニケーションに失敗した自分というか、ファン対応ひとつまともにできない自分というものを否定するためのささやかな抵抗の身振りにほかならないのである。
相手への贖罪と、自分への抵抗。人嫌いの言動のメカニズム、及びそのディテールを斯くも正確に描写した見事な場面。
なんてすてきな映画なんでしょう!
申し訳程度のファンサービスをするバーナデット。
いまひとつ。
過去の自分の才能に対する執着≒愛着。
一線を退いた現在のバーナデットは、建築界の若き権威として称賛された20年前の栄光に対してどこかちょっぴり卑屈になっている。
それは違うよ、ふかちゃん。今は今でそれなりにやってるし、娘はバリかわいいし、夫がマイクロソフトだから悠々自適に専業主婦やらせてもうてます。専業、ゆうたかて秘書のマンジェラがあんじょうやってくれよるからな。まあ、たまにYouTubeで過去の私の特集とか見返すけどね。実際、あの頃の才能はマジいかちかったなー。あれをもっぺんせえ言われても絶対むりやわぁ~。
…と、いま急に話の腰を折ったのはバーナデットである。
だが、これもアテクシと重なる。もちろん地位もスケールも全然違うし、アテクシの活動なんて蟻の屁のなかに潜むエサの魂みたいなレヴェルだが、『シネマ一刀両断』を開設するはるか以前から映画評ごっこなんてやり続けて彼是17年経つけれども、えらいもんで今読み返すと“そっち”の方が断然おもしろいのよ。手前味噌ではあるけども、文才横溢? にして思想炸裂? 造語濫用にして失言連発(名言もちょっぴりあるよ)。向かうところコンプラなし。批評の膳にテンプラなし。「あの番組、ゴールデンに上がってからつまんなくなったよね。深夜帯のときの方がおもしろかったのにー」の“深夜帯のとき”なのである。
だから…いや、まあいっか。
要点だけを掻い摘むとバーナデットは太宰治ってことよ。早い話が。早すぎる話が。
ちなみにそんなバーナデット。唯一の友達は娘エマで、送り迎えする車内でシンディ・ローパーの「Time after time」をエマといっしょに本意気で歌ったあと、急にさめざめ泣いてしまうのだが、その理由もなんとなくわかるな。説明はできないけど。頭ではわからないけど精神でわかる。説明できないけど。
この塩梅もまた太宰文学に近く。
◆生きながらにして伝説を見る◆
バーナデットが住む『アダムス・ファミリー』に出てくるような丘の上の屋敷や、リンクレイター作品恒例のシアトルの人懐っこい街並みなどロケーションは概ね好調で、色の取り合わせもいい。寸止めされたキッチュさというか、限界閾値のポップさにおさまったショットが“大人の映画”を担保しているよね~。
劇中では、バーナデットが過去を懐かしんでいたドキュメンタリー映像が劇中劇として流れます。半径20マイル以内で調達した材料だけを使ったモダニズム建築の到達点“20マイルの家”、および内装建設物の“2焦点メガネ”の先進性など、建築とかに興味ある人が観たら普通におもしろいと思うよ。インスピレーションの源泉、学びの鉱脈がここにはある。
以下はちょっとしたネタバレか。
物語はバーナデットを南極へと運び、最終的には新たに建て替えられることになった南極の観測基地を彼女が設計することになるのだが、エンドロールでは実際の建設作業風景が早回しで描かれるのです。
バカじゃねえのか、リンクレイター。
どえらいことしとるやないか。エンドロールに付随したオマケ映像としてはあまりに大規模、あまりにハイコスト、あまりに長期的な撮影をわざわざして。しなくていいのに観測基地をイチから作ってやんの。そんなチョモランマな!
ここがリンクレイター。だからリンクレイターなんだよね。主演の子が青年に成長するまでの12年間を密着撮影した『6才のボクが、大人になるまで。』や、一組のカップルが結ばれたりすれ違ったりする半生を18年間かけて撮り続けた『ビフォア』三部作のように、だから序論で述べた通り、“時間と人生”を描いとるわけである。
人生化された悠久の時間、あるいは時間化された有限の人生。
ほいで、ケイト・ブランシェットですよ。
円熟の極み。
…と言いたいところだが、毎回言ってるような気がするんだよな。
特に『ブルージャスミン』(13年) 以降、10年以上ず~~~~っとキャリアハイが続いてて、映画史130年を振り返ってみてもこれほどの女優はちょっと稀有で。稀有っつーか前代未聞かもね。パッと思い浮かばねーもん(あ、でも日本には結構いるか。田中絹代とか)。
はっきり言うとこう。
生ける伝説とはこのこと。
きっと40年後の人々はケイト・ブランシェットを“古典映画の大女優”としてウットリした目で見るだろう。ちょうど現代に生きるわれわれがマレーネ・ディートリヒやジョーン・クロフォードを神聖視するように。
大昔の人々がディートリヒやクロフォードを毎年見ていたときの感覚は、今のわれわれがケイト・ブランシェットを「ははは。また新作だ。どんだけ出んねん。どら、一丁見たろかいな」ゆうて気軽に見にいく感覚と似ていたのでしょうな。
現在進行形の伝説に立ち会うには、もう今しかないですよ。
あと50年もすれば、みんな…おおかた死んじゃうんだから!!!
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