究極の映画評とは「おもしろかった」しからずんば「つまらなかった」なのである。
2023年。八鍬新之介監督。アニメーション作品。
嗚呼、すてきなトットちゃん!
やるでぇ。あつまり~。
さて。今夜わたしがお邪魔したのは、烏丸駅から徒歩3分のビルの底に埋まっている「隠れ酒場ともしび」である。隠れ家的な雰囲気をまとった秘密の居酒屋だが、店の前のスピーカーからは90年代歌謡曲が絶えず大音量で流れているので隠れきれていない。
店に入ると若い店員さんが活気よく迎えてくれた。
「らしゃせええええええ」
「一名様ですかああああああ」
「ありがとうございまああああす」
「わおおおおおおおお」
「お好きな席どぞおおおおおお」
「どぅううううううううう」
元気もりもりやんか。「らしゃせええええ」ゆうて。「どぅうううう」ゆうて。どこが隠れ酒場なんだと。「ともしび」どころかLEDライトやないか。
滾るような活力…、ウィーね!
コの字カウンターの隅っちょに座った私、煙草を喫みながらメニウを閲し、店内をひらひらしていた浮遊的店員をつかまえ、生ビールとつぶ貝ワサビを頼むと、浮遊的店員ったら「喜んでえ!」と言って大喜びし、再び店内をひらひらと浮遊して厨房の中に入っていった。アゲハ蝶みたいな奴だな、と私は思った。
喜びとしてのイエロー、憂いを帯びたブルーに、世の果てに似ている漆黒の羽かおまえ。
お食事を待つあいだは、尻ポッケに入れていた文庫本をひらげて読む。町田康の『ギケイキ』。なんたる刺激。まるで言葉のアルコールだ。
しばらくすると、コの字カウンターの真ん中に立っていた調理担当の調理メンが「上から失礼します!」と言って生ビールとつぶ貝ワサビを私に呉れた。「下からサンキュ」と言って此れを受けとった私、さっそく飲んだビールが美味かったので、調理メンに「美味しいね。エビスかしら?」と訊ねて「サントリーです」と即答される。
つぶ貝ワサビもビールのあてにうってつけであった。ワサビがつぶ貝に纏わりついているのか、はたまたつぶ貝がワサビに纏わりついているのか。俺にはわかんねえ。ただわかることは、ツンとくるワサビの辛さと、デレるようなつぶ貝の甘みが、見事なツンデレ青春ラブコメの一挙放送に成功したということだけである。
ひとり、つぶ貝の噛み応えをぷちぷち楽しんでいると、隣りの席に外国人観光客のアベックが座った。よう来たな京都に。ありがとうな。楽しんでったりーな。
日本語オンリーのメニウが読めないアベックは店内をひらひら浮遊していたアゲハ蝶を捕まえ、料理の説明を求めた。俺は英語には暗いので、なにを言ってるのかぜんぜんわからない。したところアゲハ蝶、さっき注文を取ったからもう友達と思ったのか、不意に俺の方を見て「なんつってるかわかります?」と大学生みたいなノリで訊いてきたので「わかるかあ」と即答すると「あっ、すみません!」つって、こんだ調理メンに向かって「調理メン、英語わかります?」つったら、さすが調理メンだよねえ、「おっけおっけ。じゃあ俺がそっち対応するから、アゲハ蝶、3卓さんの串焼いて」つって、アベックの対応を請け負った。アゲハ蝶は「喜びとしてのイエロー!」と返事して、調理メンと役割を交代した。
なに言うてんねん、と俺は思った。
次に注文したのは、本マグロ造り、豚エビ大葉巻き、ほんで「龍力」という純米吟醸を冷酒で。
「ドラゴンパワーください」
「ドラゴンパワー」
「龍力のことです」
「ああ、だからドラゴンパワー! お兄さん、ドラゴンボール好きなんですか?」
「いや別に」
「飲み方どうされますか?」
「冷酒で」
「喜んでええええ!!!」
この、まったく噛み合わない会話もふくめて居酒屋の醍醐味である。ぜんぶ俺のせいだけどね。でも居酒屋で飲む時ぐらい、素の自分を出させてよ。
配膳された本マグロ造りは、ちゃんとつまも付いていたし、甘く、なめらかで絶品であった。
話は変わるが、よく芸能人がテレビの食レポなんかで「口に入れた瞬間、溶けてなくなった!」なんて誇大表現をするが、そのワードを聞くたびに俺なんかは、それはそれで問題やろ、と思ってしまう。口に入れた瞬間に溶けてなくなる料理は、もう料理というより幻やろ。蜃気楼やろ。問題やろ。「柔らかすぎて歯ぁいらん!」も同じ。それはそれで問題やろ。歯はいるやろ。咀嚼を必要としないほど柔らかいて。離乳食以下やろ。それはそれで問題やろ、って。
そして豚エビ大葉巻き。これが本日のチャンピョンであった。料理自体も美味しいのだが、皿に添えられた特別な塩が強化パーツすぎた。ダウンロードコンテンツすぎた。盛り塩にしたら最強の魔除けになるんちゃうかってぐらい、とびきり美味しい。日本酒ともよく合う。塩だけでイケんちゃうけ、ってぐらい、とびっきりのマリアージュ。
食べ終わったころ、まだ日本酒が残っていたので、最後にアサリの唐揚げを頂く。ただのアサリを雑に揚げただけのなんてことのない料理だったが、先ほどの豚エビ大葉巻きの皿についていたDLCコンテンツの「魔除け塩」につけて食べてみたところ、ウマ、ま…、うままー!
あまりにウマすぎて、俺の性別は男だけど、この時ばかりは娘になってしまうかと思った。そして「ウマー!」と叫びながら店内を走り回りそうになった。つまり俺は、ウマ娘になる寸前だったってわけ。
日本酒がすいすい進む。あと一口分しかない。しか…。シカ? つまり、これを飲めばシカ息子に戻れるということか。
ウマとシカで、馬鹿。すっかり馬鹿になった頭でお会計を済ませると、アゲハ蝶が店の外まで見送ってくれた。
「そう。じゃあ、お気をつけて、と見送ったのはずっと前で、ここに未だ還らない彼が僕自身だと気づいたのは今更になってだった」みたいな顔してたなー。
そんなわけで本日は『通路がわのタッタくん』です。
あ間違えた。『窓ぎわのトットちゃん』か。ぜんぶ逆になってもうた。アワアワアワ。
つまんね。アワアワアワ。
どうでもいいけど「アワアワアワ」の対義語ってなんなんかな。
「沈殿物沈殿物沈殿物」とかかな。
◆だからいいんだ、徹子◆
この世にはある程度まで鈍感な観客と、ある程度から過敏な観客の目には逆さ絵のように180°異なる見え方、感じ方、捉え方をする映画というのがあーる。
市川崑の『満員電車』(57年) のような、あるいはジョン・ブアマンの『殺しの分け前/ポイント・ブランク』(67年) のような、それでなくとも宮崎駿の『千と千尋の神隠し』(01年) のような、一見キャッチーな風体とは裏腹に紙一重の狂気を帯びた珍妙怪奇な不気味作、『窓ぎわのトットちゃん』。
全部そっち(読者)に投げるが、うまく伝わってくれればいいし、伝わらなければそれはそれで構わん。
久しぶりに“ごっつい映画”と遭遇してしまったわ。
原作は言わずと知れた黒柳徹子の、言わずと知れた講談社戦後最大のベストセラー『窓ぎわのトットちゃん』。1981年の著! 出版当時から黒澤明以外のほとんどの監督から映画化したいとのオファーが殺到したらしく、徹子自身はこの逸話をお気に入りのジョークとして隙あらば披歴しているようだが、決まってそのあとに紡ぐ言葉は「でもぜんぶお断りしたんですョ。特にこれといった山場もない物語ですので、映画化など恐縮の限り」。
ずいぶん謙遜するじゃないか。ええ、徹子?
それから幾星霜。だったらアニメにしたらええのとちがいますか、とのシンエイ動画側の提言に「おもしろそうだわね」と絡繰り人形のごとく首を縦に振った徹子(絡繰り人形なのだろうか?)。その結果できあがった本作は、あまつさえ『火垂るの墓』(88年) を刷新する形で『この世界の片隅に』(16年) がエポックメーキングとなった“第二次大戦下における銃後の日本人を描いたアニメーション作品”に新たなる鍬の一撃を加えた。
なんてすばらしいんだっ。
このジャンルの物語類型は「特にこれといった山場もない」からこそ絡みつくようなリアリティがあることを徹子は忘れている。
だからいいんだ、徹子。だって考えてもごらんよ。銃後の人々の貧窮に山場などあろうはずもなく。口に糊するだけで精一杯のエブリデイ。そんなエブリデイこそが、平和ボケした僕たちの頭に鍬の一撃を加えるんじゃないのか!?
鍬の一撃ってなんなんだ。
おれはいま考えている。フー・ファイターズの『フー・ファイターズ』を聴きながら考えている。いいアルバムだよね。
今回の評って、論点を散らして言葉を尽くして、あーでねこーでねあーでねこーでねと論じた方がよいんだろうか。ゴテゴテと粘土を継ぎ足して強度を補い、高さと厚みを出す粘土職人コネ・コネリオのように。それとも論点も本質も無視して、出てくる言葉を待つが如くに恣意的、指がひとりでにキーボードを弾くが如くに辻井伸行的、あるいは昭和の都会のサラリーマンって千鳥足でデタラメみたいな、思いつくまま気の向くまま僕は君だけを傷つけないみたいなRelaxモードでぺらぺらと語った方がよいのかしら。道でひらった木の枝を不遜に振り回しながら商店街を練り歩く邪悪な少年(Evil Boy)のように。
うぅむ。Evil Boyでいこか。
Evil Boyでいこ。
勘が得ている。
Evil Boyでいこ。
◆徹子の部屋ってある種の人形劇だと思う◆
まず心構えを説こう。
しゃっちょこばって「国民的タレントである黒柳徹子のベストセラーのアニメ化!」なんて考えちまうと、かえってその文脈が雑情報になってしまうし、やがて風化する遠因にもなるだろうし、「でも私、特に好きってワケじゃないしなぁ。徹子んこと」という人たちの“見ない理由”にもなり得てしまうので、黒柳徹子とか『トットちゃん』とか抜きで、いったん忘れてもろて、ただ1本の純粋なアニメ作品としてキャッチして頂きたいわけですよ。この映画のことを。この映画という概念のことを。
そういう心構えで観てみましょうね。
観ますね?
嗚呼、するとどうでしょう。
すてき過ぎたんだな。
すてきな映画を観終えたあとのおれって、大体いつも生まれたてのビーグル犬を見たときみたいに頬を緩ませ「え~、すてきー」と言うのだが、今回ばかりはそうじゃなかったね。区役所の厳しい職員みたいな真顔でハッキリと「すてき過ぎたんだな」って言ったんだよ。
へらへら楽しむにはあまりに重いステキ味。でもステキである以上、きらきらともしている。
まずもって絵がすてき。
一も二もなく絵がすてき。
三四も五もなく絵がすてき。
パステル画のような顔料の風合いを感じさせる淡く温かい色使い。まるで人肌流星群じゃねーか。ほっこりの灯籠流しじゃねーか。
また年齢性別問わず、凡てのキャラクタァがアイラインやチークや口紅を塗したかのようなキャラデザが「きしょい」と一部で謗られてるようだが、きしょいじゃねーよシャバ僧が。ありゃあ、どう見たって児童画のパロディだろ。『小学一年生』とか『よいこ』とか『幼年の友』とか童話絵本シリーズとかよ。古書店とかまんだらけで見たことあるでしょうよ。あの辺のレトロなタッチをあえてやるって意匠ザッツオールだろ。ま、ある意味では本作のキャラデザの「肝」だけどね。そう考えると「キモい」で合うてんのか。
合うてへんわ。
あと影を消してるね。
人物の影。映画にはなく、アニメだけに与えられし光源操作という既得権益をしこたま使ことる。細田守ほど無条件にならない範囲で、トットちゃんやトモエ學園から影を排除している。その意図は、おそらく物語後半の“忍び寄る戦争の影”を直截的に描きたくなかったからだろう。
ここを十分に理解して、制作陣に拍手すべし。喝采を浴びさすべし。ちあきなおみを歌うべし。まるで自分がレコード大賞とったみたいに泣き濡れて「喝采」歌うべし。カラオケ採点で96点あたりを狙うべし。
あのね。愁嘆場で雨が降る。教え子の成長に「それでいいんだよ」とひとり微笑む。そんな手とり足とり全介助の記号演出でスポイルされた現代人のド頭に電気を流すかのように『窓ぎわのトットちゃん』は観る者を攻撃してきますよ。当たり前ですよ。攻撃型ですよ。黒柳徹子は攻撃しますよ。
大体なぁ~~、『徹子の部屋』なんて拷問部屋ですよ。“楽しげな会話の、何気ない質問”という体を装って、実はゲストがいちばん答えづらい事柄に切り込んでいく、切った張ったの大立ち回り。ゲストからすりゃあ、いかに徹子と間合いを取り、やおら斬りかかってきた徹子の真剣をいかに捌くかの危急存亡の大決戦。少しの油断で首が飛ぶ。だって考えてみ。ゲスト全員、顔引き攣ってるでしょ、あの番組。ほんまは怖いけど楽しんでるフリしてますみたいな。「徹子の部屋に出るのが夢でした!」って言う、までが一流タレントの踏み絵だから一応言うみたいな。だって、出るゲスト、出るゲスト、沖縄の呪術人形みたいな顔になってるでしょ。ほんで徹子は絡繰り人形みたいだし。
人形劇なんですよ、あの番組って。
なにか、すごく取り繕ってる感じがする。生きた言葉もなければ、血の通った感じもしない。でも表面的には温かい。それが芸能界。それこそが芸能界なんだろうなって。
芸能の本質とは“いかに人間から遠ざかるか”の営為にほかならず、かく本質がしとどに露呈しているのがこの番組…って、ええのよ。『徹子の部屋』の話はええのよ。
ン~フ~~~~ン?
なんの話だっけ?
ああ、思い出した。愁嘆場で雨が降ったり、教え子の成長に「それでウィーンだよ」とひとり微笑んだりしない作品ってことさ、本作は。
われわれが普段、ドラマや映画やマンガで毒されてる物語演出のコードに逆行し、たとえば愁嘆場の雨を逆手にとった『雨に唄えば』(52年) のごとき煌びやかなミュージカル、肥溜めに落としたサイフを拾うべく柄杓で糞尿を浚うトットちゃんを見つめる小林校長のファジーな眼差し(“見守る”ではなく“見つめる”という、ちょっとヒヤッとした空気感)。時おり挿入される力づよい筆致のファンタジーパート。それでいて“苦しい時こそ楽しい妄想を”…のセオリーを脱臼させる逆『ダンサー・イン・ザ・ダーク』(00年) 。
主題歌を手掛けたあいみょんがお気に入りだと豪語して憚らない“水たまりのジャンプ”にしても、並の作品ならこうはしないでしょうって感じで。詳しくは省くが、ネオレアリズモでありながらネオレアリズモを刺しにいくという、やはり好戦的な性格をもった作品なんです。
詳しくは省いてるから伝わんねーだろうけど。
畢竟、ほとんど理解されないと思うんや、この作品。
現代の日本のユルユルのダラダラのガバガバのポコポコの映像コンテンツのレベルからすれば十分に難解映画。
むしろ海外でこそ普通に評価されるタイプのキタノ映画の系統なんじゃねーの(それこそ本作にもあった異化演出は北野武の援用?)。
でも、それさえ織り込み済み、というか覚悟済みで、種を植えにいった作品であることは間違いない。断言する。「たぶん、ほとんどの観客には伝わらないでしょうが、それならそれでいい。強烈な違和感は用意したから、その違和を種として観客の心に植える作業。この作業に全身全霊を懸けました。あざす」てなもんだろうな、作り手側からすれば。
未見の方は、たぶん見たらわかりますよ。
はっきり言って、おれは読者のことをある程度まではバカと思ってますけど、ある程度からは、とはいえ賢ちゃん達やん、とも思っている。
そういう人たちが本作を見ると「全部はわからないけど、なんか、すげえ種を植えられた、ということだけはわかるー」という、おれの感想と似たような感想を抱くのとちがうかな。抱かねえかもしんねーけど。
この、半分わかった気でいるけどもう半分はわからない感覚って、脂たっぷり期のジブリとかエヴァとか、90年代のアニメ特有のポストモダン的文脈なんだよな。
◆2から生まれる現実の置換装置。されど1に接近す◆
…というような長ぁーい話を「最近なに観たん」と訊いてきた友人にしたところ、友人は目をくりくりさせながら「へえ!」と感嘆していた。ふだんは目をくりくりさせない友人が珍しくくりくりさせながら「へえ」、それもビックリマーク付きで「へえ!」つったので、奴なりに何かを感じ取ってくれたんだなと思い、うれしい心持ちがした。
急にヘンな話をするが、おれはすべてを言葉にはしない。
しませんよ!
昔は真逆だった。すべて言葉で説明しようとして躍起になって奮起していたが、そんなことはまったくの無意味だと知った。つまるところ、どれだけ意を尽くして説明しようが、それが伝わるかどうかはおれ自身の“説明力”ではなく、相手の“説明され力”に懸かっているのだ。と言ってしかし、伝えるための努力や責任を放棄してるわけではないし、もちろん逆も然りだよ。キミだってそうだろう? 極端な話、バカ相手に10を説いたところで1すら理解しないが、かしこ相手なら1を説くだけで10を理解してくれる。
このリロン。
なれば“1の批評”こそ、合理のうえにも経済のうえにも理に適う。
行きつく先は…究極の映画評とは「おもしろかった」しからずんば「つまらなかった」なのである。
悔しいけどさ。
本当は7文字で済むんだよね!
おのれ!!!
でも、この“1”を理解できる人間はほぼいない。だから人は言葉を継ぎ足す。継ぎ足しても意味ないのに。
批評行為のジレンマがここにある。
その点、本作。
『窓ぎわのトットちゃん』の特異性は“1”への接近を試みたところにあるわけ。ましてやアニメーション作品で。
アニメというのは現実のモチーフを絵に置換する文化的営為です。つまりアニメという手段自体が現実の説明ともいえる。言っちゃあ悪いけど、タダの手段ともいえる。
たとえば映画であれば、ピンク・フロイドの『おせっかい』(71年) のアルバムジャケットみたいな識別不能のわけのわからんショットを撮っても「これは何だろう?」と思うだけ。そう思うだけで済むが、同じことをアニメでやると「これは何だろう?」のあとに「で、結局なんやねん? 教えてくれや。え? 教えろよ」と説明を求められる。求めてしまう。
「なんの絵なんだ。これ。結局よぉ。なんの絵なのよ。これは現実の何なんだ。現実の何をモチーフにした絵なんだ。教えてくれたっていいじゃなああああああい」ってな。
アート集団ヒプノシスが手掛けた『おせっかい』のアルバムジャケット。耳の写真と波紋の写真を重ねて焼いている。
畢竟、アニメーションとは“2から生まれる現実の置換装置”と言えるわな。1を説明するためには2が必要だわな。その2を増幅するのがアニメという名のパワーデバイスと言える罠すぎる。
だからこそおおおおおお俺たちは1に接近せんとするアニメーションに心惹かれてきたんじゃあないのかああああああああ!!?
えっ……!?
別にそうじゃないかもわからね~~。
やばいかもおおおおおおおお。
エホン。もしくはゴホン。
あ、今の「エホン。もしくはゴホン」というのは閑話休題の意味合いを込めた咳払いを擬音化した表現なんだけど、一応『窓ぎわのトットちゃん』ということで「絵本」と「御本」に掛けてみたっていう一寸小粋なテクニツクでありまして、私の文章を注意深く読んで頂ければこうしたギミックが至るところに満載しておりますので探してみるのも乙かもしれないし甲かもしれない。
いっやー、それにしても取り乱したなぁ。
今回の記事は好みが分かれそうだよねー。そもそも映画評として成立してるか? けっこう瀬戸際だよね。『瀬戸際のふっかちゃん』かもね。
そろそろ読者が怒りそうなので、「何が言いたいかというと」っていうあらゆる妄言をなかったことにして話をまとめるのにうってつけのワードで締めるやつをやりたいんだけど、マァ、何が言いたいかというと、まさに今の「エホン。もしくはゴホン」こそが本評の本質だとおれは思ってるって話。
注意深く見れば、なんてことのない表現がギミックだったとわかる。
されど1。
だから「実はこれギミックなんですよ」とは説明されない。「すごいでしょ!?」とも誇示しない。1だから。
ただ、そこにある1。
気付かれないアニメ。
教室の最前列や中央席には、よく目がいく。
目立たないのは「窓ぎわ」。
だから学生は席替えのとき、授業中に当てられにくい窓ぎわを望む。だが、学生たちが「窓ぎわなら存在感を消せる」、「目立たないから当てられにくい」と考えていることを、先生は知っている。
“先生”だけが、知っている。
(C)黒柳徹子/2023映画「窓ぎわのトットちゃん」製作委員会