シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ブルーピリオド

持論という名の誰かの理論。受け売りの受け売り。の又貸しの又貸し。個性なんてもう古いのかもわからんです。~令和不適合者が東京藝大前から緊急独占直撃ルポSP~


2024年。萩原健太郎監督。眞栄田郷敦、高橋文哉、板垣李光人、桜田ひより。

薄ぼんやりと生きてきた高校生が急に筆もって東京藝大をめざす中身。


こないだアレルギー性結膜炎になった。
深夜、映画評を書いていたら、やおら右目がゴロゴロして、ゴミでも入ったかなと思い、目薬をチュッてしたが依然としてゴロゴロはゴロゴロ、Like a Rolling Stoneって感じでゴロゴロはやまず、「まだLike a Rolling Stoneだな」と思い、洗面所でセルフ掌アイボンみたいにして目を洗ったが、依然としてゴロゴロはゴロゴロ。執筆をやめて読みかけのマンガを開いて「創刊ゴロゴロコミック」なんてやってみたものの何ら効果/効能はない。もちろんボブ・ディランの「Like a Rolling Stone」も口ずさんでみたが意味なかった。
1時間後。
こんだ右目が霞んできて、すわ! 洗面所で鏡を見たら、眼球の周りに謎のにゅるにゅるが付着していた。
「きめェ!」
叫んだ俺、指先でにゅるにゅるを取るとゴロゴロはおさまったが、30分後、またぞろ右目がゴロゴロして、鏡を見たらば眼球付近ににゅるにゅるリボーン。
「きゃああああああ」
その夜は100均のガーゼをアイマスクに貼りつけ、睡眠中にも湧き出るにゅるにゅるが枕や布団に付着せぬよう、苦心惨憺スリープ俺。気色悪い話で申し訳ないが、翌日起きたら、睡眠中に湧き出たにゅるにゅるが固まっており、さながら瞼が接着剤で開かない様相と相成り、これを湯で溶かしてようやく開眼。ハロー世界。
しかし眼球は真っ赤に充血し、まるでゾンビに噛まれてこのあと死ぬ脇役みたいな相貌の俺、そんな俺に鏡前の俺は「ジョージ・A・ロメロかおまえ」と、さすがふかづめ、何か言わないと気が済まない。
そんな毎日が3日続き、もう辛抱シャマラン、つって眼科に行った。
「私にかかれば一目瞭然よ。目だけにね」
「あー、えっと…、面目躍如ですね」
「よろしい。あなたの目がどんな目に?」
「目からにゅるにゅるがいっぱい出るの」
「そんな目に?」
「ええ。勝ち目はありますか?」
「勝ち目? どういうこと?」
「え?目に掛けた言葉でやり取りするっていう大会なのでは…」
「ふざけてるンですか。目に余りますよ」
「目に掛けた!」
「今回は目をつむりましょう。それでは2種類の点眼液を処方しますので、朝にテンテン、夜にガンガンしてください」
「そしたらエキエキすると」
「どういうこと?」
「すみませんでした」
「大目に見ます」
まあ多少の脚色はあれど概ねこのようなやり取りのあと、そこの院長、たしか荻野目洋子といったかな? が処方してくれた点眼液をゲットして、朝にテンテン、夜にガンガンしたところ、立ち所ににゅるにゅるはおさまり、ゴロゴロもLike a Rolling Stoneもしなくなった。
そんなstoryでした。あい。

そんなわけで本日は『ブルーピリオド』です。



◆コツ男、筆を持つ◆

 美大が舞台のマンガといえば羽海野チカの『ハチミツとクローバー』が有名だけんど、おれは知らねえ。個人的には矢沢あいの『ご近所物語』なんだよに~。
気合い~みせて~やろう~じゃない~
背中~見せちゃ~女がすーたーる~♪
ゆうて。
世間的には『NANA-ナナ-』で知られる矢沢あいだけど、クフクフクフ、隠れ最高傑作は『ご近所』なんだよに~。世代もあるけどに。異論もあるだろに。
『ご近所』のなにが驚きって、キャラクターの髪型や服装が毎話毎巻コロコロ変わる斬新さと、主線の太い(付けペンではなく製図ペンの重ね描き?)カートゥーン調の絵柄や、マンガ技法も革新的でしたな、三段組の無視、ノドがないなど、もともとマンガ表現のレンジって少年/青年漫画より少女漫画の方が遥かに広いけど、そのアドバンテージを自らの作家性に落とし込み、咀嚼し、昇華させた、さう、紛れもないアート。戦友のさくらももこが様式のポンポコリンだとしたら、矢沢あいは革命のタッタタラリラ。
言うてるおれはピーヒャラピーヒャラ。

なにかの金字塔『ご近所物語』。

なんの話をしているんだっけ。
あ、そうか美大美大。美大をめざす『ブルーピリオド』を観たよ。
趣味も生き甲斐もなく日々漫然と過ごし、なんとなく不良グループとつるむものの、付き合いのためだけに制服に忍ばせた煙草はほとんど減らず。んでもって頭脳明晰なのはコツを掴むのが早いから。よって人間関係も良好。成績が学年4位にも関わらず不良グループからハブられないのも、スクールカースト下位の連中とも円満に付き合えるのも、すべてはコツ
高校2年にして、早くも人生、ゲーム感覚らしい。ただ公式を当てはめていくだけ。そこに意思はなく、血も流れていない。なんて憎たらしいんだ。
そんな主人公がなんとなしに選択授業で「美術」を選んだことに端を発する、めくるめくアートの世界。

主演は眞栄田郷敦
下の読みは「ごうどん」。冗談みたいな名前だ。ゴードン? 『きかんしゃトーマス』にいなかったか。父は千葉真一で、たしか兄が…改まって言う、あ違うか、改まってん言う、あ違う、新田真剣佑なんだって。初めて知ったナリ。
同じ絵の世界で鎬を削る共演者に、高橋文哉板垣李光人桜田ひより中島セナ秋谷郁甫など。
……ひとりも知らんわ。
また、彼らを導く大人勢に、江口のりこ石田ひかり薬師丸ひろ子など。
あ~ん、知ってる~!

ちゅこって本作、『ルックバック』(24年) よりは冷静に見れたけど『ルックバック』よりも“痛み”を感じた作品だったので、まあ、遥けき古傷を切開して血を流しながら書かざるをえないあたりが辛いところではあるよなー。



◆青春ごっことは一線を画したドロドロでぺとぺとの地平◆

 何をおいても眞栄田郷敦演じる主人公ね。
こんな奴、まずいねえよ。
高校2年で絵に目覚めて、そこから1年半で絵の勉強をして、あまつさえ東京藝大めざす奴なんていねえ。
でも「こんな奴いねえ」を説得的に像化していくプロセスをこそドラマタイズした物語自体が、まるで無地のキャンバスに筆を重ねて絵を仕上げる行為であるかのようなぁ!
コツを掴むのが早い、というキャラクター設定が本作の生命線。
勉強も人付き合いもコツを掴んでそつなくこなしてきた主人公は、だから絵に興味を持ち始めたとき「もし絵の技術が“才能”だけでなく“努力”によって後天的に身に付くものだとすれば?」という仮説を立て、それを検証するかのように美術の世界へのめり込んでいく。
実際えらいもんで、絵に対して“好き”とか“楽しい”みたいな感情がいっさい描かれないんだよね、この作品。
周囲のキャラクターも「絵画が好きだからぁ!」みたいなチャン・ドンゴンのチャミスルのCMじみた情熱は持っていない。まったくのドライ。このへんは原作漫画がどうなのかは知らんが、おれにとっては凍えるほどにリアル。

正味の話、好きで絵を描いてる奴なんかほとんどいないからね。

はじめは好きが高じて絵の道に進むが、本格的に学ぶべく写生を何百枚と重ね、描きたくもない静物画や石膏デッサンと向き合い、そこで画力の低さを思い知らされ、学問じゃないからどこを直せば正しい絵になるのかもわからず、暗中模索でクロッキー帳を埋め続ける日々。画材代もバカにならないし、どこへ行くにもデカくて邪魔なカルトンを持ち運び、あいた時間はカッターナイフで鉛筆を削る。そして折れる。いつしか削ってるのは鉛筆でなく心。折れるのも心。
それでも描き続けるのは“それ”しかないから。
絵の道をひた走ってる奴らは青春の幽閉者ですよ。誰が好きこのんでそんな所に幽閉されますか。
だもんで本作。青春ごっことは一線を画したドロドロでぺとぺとの執念をモチーフとしながらも、うまく商業映画としての体裁を整えた非常に見やすい作品でありましたよ。おもしろかった。



 おれが見ていて心地よかったのは、個性的だが“芸術とかやってる人はえてして変人が多い”という絶好のケレン味に飛びつくことなく丁寧に造形されたキャラクター達がまったくもってキャラクターアンサンブルを奏でていないところ。
わかりますか。毎度ながらワンセンテンスの情報量が多くてごめんな。

なかでもお気に入りのキャラは高橋文哉が演じた女装男子。F100号のキャンバスを担いで廊下を跳ねる初登場シーンの印象的なスローモーのことを「初恋ショット」と呼ばせてくださいよ。それ以降、絶えず主役を差し置いてスクリーンを独占していた。単に眞栄田ゴードンよりも役者としての求心力を持っていたのだろう。
ゴードンに対してはつっけんどんな態度をとりながらも、彼の美術活動を間接的に手助けする『まどマギ』の暁美ほむらのような存在。かわいいモノ好きで、自分が着用する服を作るなど縫製の才があるにも関わらず東京藝大ではデザイン科ではなく(もっといえば服飾科がない東京藝大を受験しながら)日本画科を志望しているあたりが何かを妥協しているようでまたリアル。
印象的なシーンとしては、街角で派手に失恋したあとゴードンに誘われ渋々ついて行った水族館と、入水自殺未遂のあとの小田原の旅館でゴードンと共にセルフヌードデッサンをするショットが決して互いに“向かい合わない”構図におさまっている点。ゴードンとはどれだけ仲を深めても根本的に志向性を異にする月と太陽のような関係性が感じ取れた。



次に、ゴードンが美術の道に進む契機を作ったといっていい、1つ先輩で一足先にムサビ(武蔵野美術大学)に行っちゃった油画専攻の桜田ひより。
彼女は良くも悪くもメンター(物語を牽引する主人公にとってのモチベーション、すなわち主人公を教示する指導者)としての役割を担った説話的推進力であり、興収いかんによっては続編製作もありうる本作(第1作目と仮定する)においては“勇者が旅立ちを決意するきっかけとなったゲーム冒頭で死ぬ聖母的存在”に過ぎないが、こういうキャラが見せ場を作るのって大体3作目とかなのよねえ。
てなこって、残念ながら本作ではただのフック。この扱いはマンガ的に過ぎたな。映画とあらばもう少しアレンジがほしかった(アレンジしたらしたで原作厨が怒るだろうけどね。でも昨今の日本映画の課題は“いかに原作厨を無視して映画に向き合うか”だ。『映画は映画。漫画ではない』。この一言がいえない映画が多すぎる)。



そしてゴードンが東京美術学院(絵の予備校)で出会った天才少年・板垣李光人。
高慢ちきのチキチキボーイで、ゴードンの絵を「ただの模倣。自分の絵がない」と見抜きながらも、実は繊細で臆病。誰よりもゴードンの“お行儀のいい模倣力”を危険視している、まあそういう意味では本当の天才。
原作のキャラデザは知らんが、とにかく顔がいい。この板垣李光人くんっていう子はアイドルなのかな? 違うかも。熱烈なファンがいたら申し訳ないけど、なんとなく2番手顔というか、ドンズバで“ベジータ適性”があるよね。
クリリンみたいな狂言回しとはまた異なる、自らの魅力を放散すると同時に主人公の魅力をも説明するプレゼンターとしての説話装置(作者の心理としては、こういうキャラをひとり生み出せるとそのキャラを描けば描くほど描いてない主人公も描いたことになるので一石二鳥)。



いみじくもこの天才がゴードンの絵を「ただの模倣」と看破したのがミソで。
持ち前の吸収力でめきめき画力をあげていくゴードンは、その絵描きとしての下地が
“頭でお勉強したロジック”なので模写だけはやたら上手い。有名画家と見分けがつかない絵を描いたりして。
そのぶん独創性がない。
まさに現代病だよな。漫画家しかりミュージシャンしかり、テレビをつけても本を開いても、2010年代以降の有名人ってゴードンみたいな人ばっかりよね。「あの漫画家と絵柄が同じ」。「どこかで聴いたメロディだな」。なんならSNSもそう。一般人もそう。人と話しててもそう。おれもそうかも。

どこかで誰かが言ってたフレーズ。
持論という名の誰かの理論。
受け売りの受け売り。
…の又貸しの又貸し。

なんせ没個性。
でも個性なんてもう古いのかもわからんです。個性を尖らせるより「誰も傷つけない〇〇」を重んじ、「共感」という磁場のもとに同一思想を構成する組織体に与し、乗れる流行には素直に乗る。使えるモノはうまく使う。
まあ、令和とウマが合わないおれにとって、そういった現代的な価値観はカスゴミ以下のマスターヘドロ(ヘドロを極めし世界で最も臭いヘドロ)だし、令和の時代に必要なのはミスチルとギャルだ、という論陣を今後は張っていこうと思っているので、今年もヨロシク。


 で、まさにそんな生き方をしてきた“現代人”たるゴードンに、「おまえは何のために絵を描いてるんだ?」と、言い換えるなら「おまえは何のために生きてるんだ?」と抜き身で突きつけてくるアンチテーゼの提唱者が板垣李光人。
でもひとつ残念なのが、こんな大事なキャラを“単に天才肌のライバル”として一元化して消費してしまったこと。しかもその描き方も中二病すぎて艶消しの極み。しょうもない日本映画でせんど見てきた、括弧つきの「天才キャラ」って感じで。
これって“漫画表現の身の丈”だから漫画ではオッケーなだけで、それをそのまま映画に流用しちゃうとこの上なく薄ら寒くて恥ずかしい描写になるだけですよ、ってことを相変わらず日本の映画人は理解しない。バカな奴らだ。
でも板垣李光人は覚えておこうと思う。
メチャかわいい顔してるし。



◆「ならでは」を「ならず」に変えた◆

 ずいぶん得手勝手に話してしまった。
一応、映画評ブログだから映画評もしておくけど、もう話したいことはぜんぶ話したから、あとは余熱でバーッと炒めるわ。
本作のストーリーテリングに関しては“視点”がおもしろい。主人公のほぼ完全一人称で進行するため、原作厨ちゃんたちが騒ぎがちな「あのキャラの描き込みが!」とか「掘り下げが!」みたいな至ってどうでもいいブー垂れファクター、略してブァクターに対する物語論の防壁を築きえただけでなく、原作に群像要素があるのかどうかは知らんが、主人公の精神性にフォーカスした抒情的な物語を、これは先にも述べたが、うまく商業映画の路線に乗せたと思う。
次にVFX。
少々“やりすぎ”なぐらいが丁度いいのかどうか、その塩梅は令和不適合者のおれには分かりかねるが、フツーに感心したね。バスに乗ってるゴードンが「人との縁」をテーマにした課題作品の着想を得る空想シーンでのVFXで「ああ、漫画を映画にするって“こういう要素を借景する”ってことなのね」って、新たな知見を深めました。ありがとう。これは得したな。もう書き足すことはないと思っていた“おれのマンガ映画論”をさらに一歩先へ押し進めてくれたような、「はうあ!」みたいな経験、さしてもらいました。
映画を損ねずして、漫画ならではの「ならでは」を「ならず」に変えた、原作漫画の新たな映画表現に刮目、とだけ言い添えておく。

あと、撮影や編集に関しては特にこれといった違和も瑕疵もなかったように思う。つまり今の日本映画のレベルからすれば結構な高水準だと思いました。
その他、胸を撃つセリフや、ゴードンと高橋文哉のおしりなどが見所。
まあ、もちろん手心は加えてますよ。そりゃそうよ。言いたいことがないわけじゃないさ。絵を題材した映画である以上、『炎の人ゴッホ』(56年) に見られる油絵のような色彩美や『真珠の耳飾りの少女』(03年) のようなバロック調のレンブラント・ライトなど、本来なら避けては通れない作品群に対してわざと知らんぷりを決め込んだね? とか嫌な角度から論駁しようと思えば、そりゃおれは京都人だからいくらでもできるけど、別にしたいと思わないから、しない。
これは作品の愛想です。
「欠点はあるが別にこき下ろしたいわけじゃないのよね」ちゅて、あえて欠点を伏す。ゆるす。見逃す。情状酌量。おれとて人の子。正月は数の子。端的にバイアスです。数の子です。

ま、とりあえず続編があるなら絶対観ますよ、それは。ゴードンの顔が好きなんですよ、そもそも。髪型もいいよね。ふわふわのパーマネントをして。
ていうか本作のキャラクター、総じて髪型がすごくいいですよ。お忘れだろうか。おれは自称・映画女優の髪型評論家ですよ。なめてもらっちゃコマール海老。
それで言うたら薬師丸ひろ子よ。あのメッシュの入ったガンガン茶髪にこってりメイク。
平成ギャルすぎひん?
よう見たら2000年代中期すぎるやろ。
大好きや。もう薬師丸ひろ子の薬師丸ひろ子性がなにも残っちゃいねえ。
毒師丸せま子やろ。

(C)山口つばさ/講談社 (C)2024映画「ブルーピリオド」製作委員会