シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

映画検閲

映画検閲制度彼是  ~表現表現と騒ぐ前にまずは鋼の肉体を~


2021年。プラノ・ベイリー=ボンド監督。ニアフ・アルガー。

 

映画検閲官が過激な映画を見続けるうち現実と虚構の端境でぐにゃぐにゃになっていく。


最近の子と話をしているとただでさえ話が合わないのに最近の子ときたらヘンな略語を使うので尚のこと話が合わないという話を今からするね。
過日。最近の女と話をしていた。すると最近の女が、何かの話の流れで「スキニーのデニムとか好きなんですよね、私」と言ったので、どうでもいいなと思いながら俺、「タイトなジーンズにねじ込む~」と歌ったら「なんですか」と言うので「なんですかって、BoAの『VALENTI』やん。タイトなジーンズにねじ込む、私という戦うボディ♪」と教えてあげたのに尚もあぜんっ、ぽかんっ。
途端、女、「じぇねぎゃ!」と叫んだ。
「どなしたん。じぇねぎゃ?」
「ジェネギャです。ジェネレーションギャップの意です」
「ほたらジェネレーションギャップて言えよ。略すなそんなもん。なにをジェネギャとか言って!」
「いや、ジェネレーションギャップだと文字数多いじゃないですか」
「ほな『年齢差!』でええがな」
「年齢差だと5文字じゃないですか」
「ジェネギャも5文字やろ」
「タイトにジーンズにねじ込む~♪」
「『VALENTI』に逃げるな」
世知辛いなあ。最近はジェネレーションギャップのことを「ジェネギャ」と言うのねえ。こういう言い方をすること、それ自体にジェネレーションギャップを感じるところであるよなー。
それにつけても「ジェネギャ」って言いづらくない? 発音的に。ジェネレーションギャップでええやろ。なんで略すねん。

BoA「VALENTI」。MVの踊りも平成感あって好き。

最近覚えた略語はまだまだある。
「しごでき」ね。
仕事ができる人のことを省略した言葉らしく、俺の周りの最近の奴らも、よく「自分、しごできですから!」なんつって得意になっているが、その都度、俺はこう返す。
「しごでき」って「仕事ができない人」の略にもなり得るやんけ。
「る」まで言わんと。
「しごできる」ならまだ分かる。
仕事ができる、略して「しごできる」。
でも「しごでき」だと「仕事ができる」だけに限らず「仕事ができない」の略としても解釈可能っていうか、だからこれは略語として詰めが甘く、センスがない。少なくとも「しごでき」という新語を最初に考えた奴はたぶん仕事ができないだろうな。おととい来い。

つい先日も最近の子と話をしており、話題はビデオゲームへと移りまして、その子が「プレ4」と言うや否や「プレ4て」と反射した俺。
そも、プレイステーション4を「プレステ4」と略してるのに、そのプレステ4を更に略して「プレ4」言うてるやん。
二重加工やん。略語の略語やん。スーパーで買うてきた刺身を鍋で煮るだけでは飽き足らず、そのあとフライパンで焼いてるやん。
もうわやくそですやんか。

押しなべて言えることは、最近の略語はセンスに欠けるよね。端的にダサい。
字数は略しても意味まで略しては本末転倒。意味は痩せさせず脂肪だけ落とす。これが略語の心得だ。また、語を発したときの音。語感のフィット感。そして省略の愛嬌。省略でしか出せない愛嬌。プリンセス プリンセスにおける「プリプリ」とかね。
まあ要するに、なんでもかんでも略せばいいってもんじゃないよ、と、そういうことを俺は言いたいねん。
それでは本日のシネ刀です。『映画検閲』について書いたよ。
とりま読んだってったりーな。



◆映画における規制/制限について私が思う二、三の事柄◆

 退屈な夜に『映画検閲』をキメた。
映画に通暁したおれが観たら理解10倍で楽しさ100倍、嬉しさ2倍で見応え5倍だろうなと思ったら、なんのこたあない…そのへんの奴が見るのと等倍だった!!!
つまり早くも総評すると「つまらなかった」の7文字が刻印されるわけです、ここに。この墓碑に。
まったくもって論ずるに値しないダメ作品なので映画とあんま関係ない豆知識と与太話で埋めていこうと思うよ、ここを。


ニアフ・アルガー演じる映画検閲官の主人公が『血塗られた教会』というビデオの検閲中、幼い頃に行方不明になった妹と思しき出演者を発見したことから、そのビデオを手掛かりに妹の捜索に乗り出すといった中身。
一応ホラー映画という扱いになっちゃいるが、厳密には“ホラー映画を題材にした作品”である。
妹を見つけ出すべく『血塗られた教会』の監督にコミットするニアフ女史だが、やがて現実と虚構の端境でぐにゃぐにゃになっていくし、本作の映像や演出自体も物語が進むにつれてぐにゃぐにゃになっていくので、何の気なしに鑑賞した人民は「わけというわけがわからね~」と頭脳に混乱をきたすこと必至、てなこって、少しばかり見方にコツが要るようだ。
ここからは少し映画のお勉強みたいなコーナー、するね。


映画検閲官の主人公、ニアフ・アルガー。

コツの壱。それは物語の時代背景。
本作の舞台は1980年代のイギリス。
といえば、サッチャー政権下で暴力的または猥褻なVHSが発売禁止措置をとられたり、検閲により一部カットされるビデオ・ナスティ(発禁映画)と呼ばれる有害映画の是非をめぐる議論が巻き起こっていた時代。本作の主人公であるニアフ女史は、いわばビデオ・ナスティを検閲する体制側の人間ということが言えていくわけね。
ビデオ・ナスティとみなされる対象は、いわゆるエクスプロイテーション映画である。
エクスプロイテーション映画というのは、人々の好奇心を掻き立てる、性や暴力やタブーや時事問題といった刺激的なテーマに主眼を置き、その話題性を“利用/搾取(exploit)する”ことを目的に作られた低俗な映画群を指す。

まあ、一口にエクスプロイテーション映画といってもさまざまに細分化される。
主だったところでは、黒人観客を集めるために従来のハリウッド映画の主要人物をすべて黒人に置き換えた「ブラックスプロイテーション映画」だ。『黒いジャガー』(71年) が最も有名だが、タランティーノの『ジャッキー・ブラウン』(97年)『デス・プルーフ in グラインドハウス』(07年) なんかもこの系譜。
そして過激な性描写で客から金を搾取した「セクスプロイテーション映画」。その筆頭であるラス・メイヤーは、おっぱいを真剣に考えるあまりおっぱい映画というフロンティアに到達した。そんなフロンティアに到達してもなんの意味もないのに。
これらはアメリカ市場が中心だったが、一方そのころイタリアでは「世界初!」とか「衝撃映像!」なんて謳いながらも実はヤラセ満載のフェイク・ドキュメンタリーで観客を騙す「モンド映画」が一世風靡。『世界残酷物語』(62年)『食人族』(80年) なんかが有名ね。
そして同じくイタリアの「ジャッロ映画」。フランスの幻想文学や犯罪小説を摂取したイタリア独自のホラー映画の体系で、フランスのグラン・ギニョール趣味にイタリアのオペラを掛け合わせた鮮烈にして劇的な映像体験が呼び物。マリオ・バーヴァの『モデル連続殺人!』(64年) やダリオ・アルジェントの『サスペリア』(77年) がまさにこれ。
で、こうした映画はすべからくエクスプロイテーション映画と呼ばれ、80年代のイギリスではばんばんカットされたり発禁処分を受けるなどしていた、ってわけ。

さて。一般に映画検閲制度といえばアメリカの「ヘイズ・コード」が有名だ。
1934年から1968年まで施行されていた何十項目にも渡る自主規制ガイドライン。暴力、薬物、性行為の描写はだめ。口汚い台詞もだめ。好色的なキスシーンもだめ。男女が同じベッドに入ることもだめ。果ては手術シーンも、国旗を映すのも、トイレを見せることもだめ!
おれは思うわけ。

これほどのだめだめ尽くしで「なお」というべきか「だからこそ」というべきか、数えきれぬ傑作/名作/大家/巨匠を生み出してきたハリウッド・クラシックってやっぱり物凄(ものすご)じゃん、って。

表現活動に対する制約、というものに対して表現者ほど「自由に表現させ~」とぷりぷり怒るのが世の常だが、そんなこと言ってる甘ったれちゃんは表現者ではなく単なるワガママだから今すぐ死ねばいいと思う。
真の表現とは雁字搦めの制約の中でいかに想像力を発射し、体制を出し抜き、制限を超え、不自由の中で自由を生き、大気圏で燃えて塵芥になるかである(運がよければ大気圏を突破して宇宙まで行けるかもしれない)。
そのためにはタフであらねばならない。表現表現と騒ぐ前にまずは鋼の肉体を、だ。
現に、ヘイズ・コードがあったから、ラングもフォードもホークスもワイルダーもカザンもヒューストンも渡米後のヒッチコックも、あの手、この手、どの手、猫の手で新たな映像技法や映画理論を発見/発育/発明/ハットトリックしたのと違うんか!
枠とかルールは“縛る為のもの”ではなく、むしろ“自由の為の限界粋”。
そう解釈した先人たちにとって「ルールで縛るな。自由に表現させ~」は、あまりに幼稚に響いたことだろうよ。しゃらくせえ。



◆ご馳走さんしたあとにゴボウの酸っぱいのんだけ出されて◆

 暗い部屋でB級スプラッターを延々見続けてはカットすべき箇所を紙にメモランダムするニアフ女史を、映画はべつだん“表現を規制する冷徹なロボット”とも、逆に“映画の健全性を保持するモラルの番人”とも描かない。
このフラットな視点はいい。
そういえば少し前に、戦前の内務省による映画検閲でカットされた“切除フィルム”がYouTubeで公開されて映画ファンが喜んだ、というニウスを見た。
その映画は『都会の呪詛』(1926年) という井出錦之助の作品で、該当の幻のフィルムはわずか15秒間のロマンスシーン。男女が頬を赤らめてチューをするのであるが、アア、慙無き映画統制、互いの口元を一輪花で隠してのチューなので、唇と唇が直接触れあう瞬間は見えないし、演者同士も“チューするフリ”をしているだけの、じつに可愛らしく、無害なことこの上ないキューティー♡シーンなのだが、それでさえ問答無用でカットされてしまうのだから、おお怖。テリブルテリブル。

とはいえ正味ね、これはおれ個人の感覚の問題なのだが、『都会の呪詛』の件のようにウン十年ぶりに幻のカットシーンが見つかって喜ぶみたいな機微は、おれの中にはないわけです。
もともと欠如していたものが今さら見つかったところで、今までわれわれはその欠如バージョンをスタンダードとみなしていたわけで、またその時点においては、そもそも“欠如している”とさえ認識していないため「10年ぶりに欠如していたものが見つかりました! それをここにパチッと嵌めて、ハイ、これが完成形です。本来の在るべき形ですぅ! フゥ~!」なんて言われても「フゥ~!」やあれへんがな、っていうか、今さら言うなよそんなことっていうか、それは“欠如したものを埋めた”のではなく“完全なものに足した”だけじゃねーか、という感覚がおれの怒りの神経経路をビリビリと駆け巡ってやまないんだよねー。
懐石料理をひととおり食べ終えてお腹いっぱい幸せいっぱい、ってタイミングで厨房から料理人がノコノコやって来て「すんまへん、ゴボウの酸っぱいのん、出し忘れてましたわ」ちゅうてゴボウの酸っぱいのんだけ出されたところで「ええよ、もう…」ってなるでしょ。
ご馳走さんしたあとにゴボウの酸っぱいのんだけ出されて!!!
それと同じだよ。
だから早い話が、何かというと映画ファンが有難がって嬉しがって飛びあがるディレクターズ・カット版とかも、おれは好かない。



◆難解な物語とかやるな◆

本作をスムーズに見るための、コツの弐。
物語が進むにつれて現実と妄想があべこべの阿部一二三になったり、どこまでが劇の内でどこからが劇中劇なのかが混濁するような演出が映画後半を覆い尽くしているが、それを見分けるのは実に簡単で、画面アスペクト比を見ればよい。
現実のシーケンスは2.35:1のシネマスコープで撮られているが、ニアフ女史が徐々に精神錯乱するシーンではまるでアハ体験のようにじわじわとピラーボックス(スクリーン左右の黒帯)が付き始め、それが少しずつ画面を圧縮して、最終的には4:3のスタンダードサイズに切り変わる。
つまりニアフ女史が仕事場で検閲していたVHSの規格とシンクロする、というカラクリなわけだ。
その他、現実と虚構の区別は照明使いにも顕著で、ニアフ女史が妄執する『血塗られた教会』の映像技法はジャッロ映画に倣っている。どぎつい原色のライティングと、焚かれたスモーク、ペンキ丸出しのわざとらしい血糊。


ジャッロ的意匠のショット。

本作で長編デビューを飾った監督プラノ・ベイリー=ボンドがやりたかったことは、おそらくクローネンバーグの『ビデオドローム』(83年) やリンチの『ブルーベルベット』(86年) だろう。
なにより『呪われたジェシカ』(71年) という映画と雰囲気がクリソツなんだよね。心身症的なシナリオを曖昧なまま終わらせるリドル・ストーリーや、登場人物が異常に少ないミニマムな世界観。わけても出演者の少なさには驚きで、まともに台詞のあるキャストだけでも10人いるかどうか。そして主舞台の多くが無人の森や建物内で完結しているためエキストラがほぼ1人も出てこない。
ここまで人が少ないと、鑑賞中、ただ単に寂しい。
おれ寂しくなっちったよ。そして「人おらん過ぎやろ」とか「予算どないなっとんねや」なんて余計な考えが働いてしまったの。


そんなわけで『映画検閲』
着眼点はいいが、映画としては技術も体力もなさすぎるし、チャクラとかも閉じてるし、想像力は多少は備わっちゃいるものの使い方を違えており、こんなものは開封した二週間後に冷蔵庫の奥で見つかった塩辛同然だ。
正直、このレベルの作品に対して目くじら立てて瑕疵をあげつらう批評次元に俺はもういないから具体的にどこがダメだったのかとかは書きません。手が疲れる。
俺から言えることは一つか、二つか、三つだけ。
①映画史や画面アスペクトと戯れるといった盤外戦術に酔う前に、まずは撮るべきをしっかり撮れ。
②映画を学べ。
そして③。
虚実入り混じる難解な物語とかやるな。

長編デビュー作にしてはちょっぴり生意気な『映画検閲』。
それを検閲するおれ。
監督「そんな塩辛な」

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