今度の相棒はお馬さん。ジャッキー・チェン映画人生の生きながらにして見る走馬灯 ~思えば映画のはじまりもクロノフォトグラフィーの『動く馬』でしたSP~
2023年。ラリー・ヤン監督。ジャッキー・チェン、グオ・チーリン、お馬さん。
ジャッキーとチートゥは馬が合う。チートゥは馬で、竹馬の友だ。そんなジャッキーとチートゥが生き馬の目を抜く映画界で一花咲かそうとするが、竜馬の躓き、頑固者のジャッキーったら娘の忠告も馬耳東風で、次第に馬脚を露す。そしてついに娘から言われます。「馬鹿」と。
ミスタータクシッ、タクシッ、タクシッ
相当ズクシッ、ズクシッ、ズクシッ
追いつけないスピードで
ねえ着いてこれるのーん?
ミスタータクシッ、タクシッ、タクシッ
相当ズクシッ、ズクシッ、ズクシッ
ひかり輝くけど触れられないの
まさにスーパーソニック
ヘイパートニック!
ああ~、へた打った~。まだや思て少女時代の「MR.TAXI」歌とてた~。
更新ペースあげてこ♪
過日。深夜にラーメン屋でイライラしながらラーメンを食べていた。こんな物静かで心優しい俺がどうしてイライラしていたのかというと、隣りの席のおっさんがラーメンにはほとんど手を付けずにウトウトしていたからだ。
疲れとんのか酔うとんのか、おっさんはよほど眠かったようで、うつらうつらしてはガクッとなって目を覚まし「ういー」と啼き、またうつらうつらしてはガクッとなって目を覚まし「ういー」と啼く。しかも「ういー」のあとに腕をボリボリ掻く。腹も随意に掻く。たまに「あいー」とも啼く。
「あいー」やあれへんがな。何しに来てん、この子。ラーメン食うか、家帰って寝るか、どっちかにせえよ。
ほんで余計腹立ったのは、ラーメンのみならずジョッキビールと白米(大盛り)と唐揚げ(3個)を頼んでおり、あまつさえ手付かずのまま卓上で冷めてしまっていることです。
飲めや食えやの欲張りコース頼んどいてなに微睡んどんねん。
そして俺のイライラが頂点に達したのは、おっさんが「ういー」言いながら、少しずつ俺の肩にしなだれかかってきた時である。落とした割箸が俺の足元に転がってきたり、広げた足が俺の足に当たりそうになったこともイライラをブーストさせた。
「すみません。席、変えてもらっていいですか」
そう店員に告げた俺は、自分のラーメンと水の入ったコップを持って席を立った。したところ、俺の声でハッと目を覚ましたおっさん、やおら不機嫌な顔になり「なんや。俺の横やとイヤや言うんか」と難癖をつけてきたので、めちゃくちゃイライラしていたから俺、いざとなったら店員さんが助けてくれるだろうと踏み、反射的に―…
「逆や。あんたの横がイヤなんじゃなくて、俺の横にあんたが居ることがイヤやねん」
そう切り返すと、おっさん、ちょっと考えて「あぁ…」と弱気に啼いて押し黙ったので、どうにか事なきを得て席を移動したのだが、そのあと残りのラーメンを啜りながら俺、「どういうことやろ?」と考えた。
我ながら自分の発言の意味がわからなすぎて「どういうことやろ?」って自分で考えてん☆
「あんたの横がイヤなんじゃなくて、俺の横にあんたが居ることがイヤやねん」?
結局、意味いっしょ…。自分で言ったことなのに何回考えても自分でわからない。しかも開口一番「逆や」とも言ってるしな。
…逆?
でも結果オーライっていうか、なんとなく論破した感じになってよかった。おっさんが俺以上にアホでよかった。ディベート弱くて助かった。たぶん俺の言い方とか、怒ってる感じとか、そういう諸々の雰囲気込みで惑わされよったんやな。アホやから。よかったあ。紙一重の勝負したあ~。
あのあと、あのおっさんがちゃんと家に帰ってぐっすり眠れますように。祈り。
そんなわけで本日は『ライド・オン』です。こればかりは湿ったノスタルジアで書かせてくださいや。
「おーよしよしよしよし。賢いな、賢いな。おまえはなんていい子なんだろうな。お~~よっしゃよっしゃよっしゃよっしゃ。グッドボーイだな、グッドボーイだな。グッドガールかもしれないな。とてもやさしい瞳をしているな。かわいいお耳をしているな。それでいて弱きを助け強きを挫くファイトをおまえは持っているな。ガッツの子だな。バイタリティの発露だな。正露丸の発売だな」
◆半自伝映画以外の何物でもないんだチェン◆
ジャッキー・チェン初主演から50周年記念として作られた本作。
正直言って、公開当時は「またダマシみたいな映画作ってるやん」と訝っていた。
だってそうでしょう。近年のジャッキー映画ときたら、当ブログでもコテンパンにノしてやりましたが『スキップ・トレース』(16年) や 『ポリス・ストーリー REBORN』(17年) など愚にもつかないポンコツ映画の粗製乱造、まあこうした兆しはついにCGに手を染めた『タキシード』(02年) や『メダリオン』(03年)、あるいは若い相棒に頼りだした『香港国際警察/NEW POLICE STORY』(04年) などで老化による身体能力の低下をごまかし始めたゼロ年代から顕著だったし、おれが決定的に失望したのは台湾の伝説ジャッキー・チェンと中国の武神ジェット・リーの初共演作『ドラゴン・キングダム』(08年) が全編これCG&ワイヤーという肩透かしに「あいやー」言いながらひっくり返った苦いメモリー。爾来、おれが幼少期から憧れたジャッキーはもう死んだものとして、ここから先のジャッキー映画は“老後の享楽”と思おう、と認識を新たにした。
だから「これが人生の集大成!」という本作のキャッチコピーに対しても、まあまあ早口で「もえって」としか思わない。実際『ライジング・ドラゴン』(12年) でアクション引退宣言をした2年後には『ドラゴン・ブレイド』(15年) で「これがドラゴン・ブレイドじゃいいいい」言いながら剣振り回しとったからな。
橋幸夫かおまえ。
だもんで、今度という今度はジャッキーの二枚舌をひっこ抜いてやるぞというつもりで『ライド・オン』を観始めたおれが鑑賞後にどうなったか知りたい?
涙でべちゃべちゃになりました。
流れゆくエンドロールに「ありがとー…、ありがとー…」と、まるで山口百恵の引退コンサートみたいに感謝しているおれが、そこにはいましたねえ。
「たあ、たあ! 木人拳! たあ、たあ!」
物語は、映画撮影所の馬小屋で極貧生活を送っているジャッキーと愛馬チートゥの暮らしを見つめる。毎朝チートゥを連れて観光客相手に撮影所内で商売をしているジャッキーはかつて香港映画界伝説のスタントマンだったが、妻の死と自らの大怪我を機に第一線から退き、現在は亡き親友から譲られたチートゥと質素な暮らしを送りながら糊口を凌いでいた。
そんな折、債務トラブルでチートゥが競売にかけられそうになり、弁護士を雇おうにも1円も持ってないジャッキーは遠縁になっていた法学部に通う一人娘のリウ・ハオツンを頼る。家族よりも仕事を選び、母の葬式にさえ姿を見せなかった父をリウは軽蔑していたが、老体に鞭打って仕事に汗する父の哀れ、なにくそのファイトに次第に心打たれ、また物言わぬチートゥの澄んだ瞳が「あんたの父ちゃん、ヘンコやけど悪い人やないで」と言っているようで、父への恨みは炎天下のガリガリくんみたいに氷解していった。
かと思えば一方、ジャッキーがチートゥにまたがり借金取りから逃げるさまを通行人が撮影、そのハードアクションに満ちたスリリンな動画がSNSでばずったことでジャッキーのもとにスタントの依頼が次々と舞い込むようになる…。
ふむふむ。元人気スタントマンが娘との関係を修復し、最後に映画界で一花咲かせる物語ぃ?
こんなものはほぼドキュメンタリーで、ジャッキー・チェンの実人生に多少の脚色を施してドラマタイズ&部分的に美化した半自伝映画以外の何物でもないんだチェン。
もうまんまじゃないか。『グラン・トリノ』(08年) じゃないか。『その男ヴァン・ダム』(08年) じゃないか。
そんなわけで、ジャッキー・チェン史の一片となった『ライド・オン』それ自体がジャッキー・チェン史を包括した、音楽で言うところのコンピレーションアルバムに当たる本作。それすなわち湿潤のノスタルジアに酔い痴れながら過去を懐かしむための玩具であり、たとえば幼少期にシルバニアファミリーで遊んでこなかった30代女性がシルバニアファミリーの人形をポンと渡されても「ようでけたあるやん。フロック生地で」としか感想しないのと同じで、こりゃもう一見さんごめんなさい、ジャッキー映画に対する思い入れがそのまま評価点と直結してしまうタイプの映画なのよ。
でもまあ、おれには通用しないがな。
おれは個人的な思い入れと客観的な出来栄えをドライに分けるアサヒスーパードライだ。「ジャッキー映画の総決算! 100億点!」みたいな馬鹿なツイートをする幸せな映画好きではないから一見さんは安心されたい。
…まあジャッキー映画の一見さんはそもそも読まないか、こんな記事。
◆透明化された顔◆
近年のジャッキー映画に対するえも言われぬ不満を、どうにか言語化してえも言おうとしてみるが、早い話が「老齢なのに頑張ってアクションしてくれてる!」だとか「老いてなお挑戦するジャッキーのアクション魂に感謝」といった言説にそこはかとなく漂う…ご苦労様感?
きっしょいわ~。
「そんなになってでもファンのためにエンターテインしてくれてありがとう」
「本当にご苦労様です」
「マジ勇気もらいました」
「愛と感動をありがとう」
ファンはそう言うけどさ、実際の話、沢田研二は見る影もなく太ってるし、田原俊彦はマインクラフトみたいな頭になってるし、北野武はなに喋ってるかわかんなさすぎてテロップ付けてる人も一か八かでテロップ付けてるし、ボン・ジョヴィに至ってはもうほとんど声出てないからサビの高音ぜんぶ客に歌わせてるし。
だけど過去の功績は偉大だし、伝説だし、一応いまも現役でやってらっしゃるから、ファンとしては老いしスターのパフォーマンスに熱狂するほどのテンションにはなれないけど「正直ショボくね?」とも言えない空気の中、とりあえず労ってみる、敬ってみる、っていう非常に気まずいアティチュードでお茶を濁しにかかっているよね。
でもそれって応援っつーか介護ですよね、っていう。
老いさらばえたスターを皆でヨイショすることで「まだまだ老いさらばえてない」ってことにするパワー民意がすごい。
こと映画に関して、このような作品のことをおれはご苦労様映画と称していて、近年のジャッキー映画もことごとくこれに該当していたが、本作『ライド・オン』は予想に反してそうではなかった。
自己批評やセルフパロディの身振りが初めて前景化した本作において、ルオ・ジーロンという役名の主人公を演じながらもジャッキー・チェンがジャッキー・チェンとして『ライド・オン』ではなく“ジャッキー映画”を全うしたことは、劇中に登場する歴代ジャッキー映画の衣装をファッションショーさながらに着こなすことでジャッキー自らがジャッキー映画史の夢先案内人となった“セルフ俺ツアー”のシーンを皮切りに、愛娘リウの恋人に『ドランクモンキー 酔拳』(78年) の茶碗修行をさせたり、「死に方がうまくて監督の目に留まったのが転機だった」というセリフが『ドラゴン怒りの鉄拳』(72年) と『燃えよドラゴン』(73年) でブルース・リーのやられ役を演じたことが映画人生の始まりだったことからもわかるように、そしてなにより老齢ゆえに白眼視されているルオ(ジャッキー)に唯一敬意を持った映画監督役でカメオ出演したのが『ポリス・ストーリー3』(92年) や『レッド・ブロンクス』(95年) の監督スタンリー・トンであることも見逃さずにおきたい。
その他、ジャッキーファンならチェンチェンすること請け合いの小ネタの粉チーズどか盛り映画だが、その下のナポリタンもちゃんと美味い。
本作は娘リウと愛馬チートゥとの家族愛が主軸になっていて、カンフーやアクションは一歩引いている。されどジャッキー映画然とした心地がするのは、もともとジャッキー映画が純然たるカンフー映画だったのって70年代までで、日本でジャッキーフィーバーが巻き起こり、またVHSの普及とともに欧米圏でも火が点いた80年代には、もう、ちゃんとヒューマンでメロドラマなシナリオライティングの下地ができあがっており、それすなわち笑いあり涙あり、サスペンスもロマコメも不条理劇でさえ内包した、まるでジョン・フォードやハワード・ホークス、それでなくともビリー・ワイルダーのような総合映画の香りがするからである。
だが人は「昨日『プロジェクトA』っていうジャッキーがカンフーするやつ見た~!」と言う。アホみたいな顔して。そう。「カンフー」とか「アクション映画」という言葉でいとも簡単に括ってしまうんですね。
そして観客をしてそう言わせる技術に未だ名前はないし、実はジャッキーが芝居に長けた“役者”であることも人はついぞ知らない。そればかりか、人はジャッキー映画ではお決まりの生身のスタントやNGシーンをさして「ジャッキーの映画はリアル(本物)だ」と言うが、豈図らんや!
ジャッキーほど嘘がうまい映画人はいませんよ。
役者としても監督としても脚本家としても製作者としても、そのいずれの顔も透明化し“アクションスター、ジャッキー・チェン”という神話へと人々のイメージを誘導する天才じゃん。
◆涙滂沱として禁ぜず◆
おれが泣いてしまったのは、父が現役時代にスタントをしていたころの映画を娘のリウがビデオで見る場面。
そこで初めて父の偉大さを知り涙するリウの隣りにふらっとジャッキーが現れ、親子でビデオを眺めるのだが、眺めているうちにジャッキーもぼろぼろ泣き出してしまう。だがそのさまを眺めている観客=おれがいちばん泣いてた。
なぜこの三者が涙し、かかる号泣対決をおれが制したかって、だってそのビデオが『プロジェクトA』(83年) の時計台落下や『ポリスストーリー 香港国際警察』(85年) の傘ひっかけバスを映すんだもの~。
そしてそれを見ながらジャッキーが泣いてんだものおおおお~。
まあ、リウはお芝居で泣いてるだけだが、ジャッキーのそれは芝居を超えた万感TEARS。実際、ふたりが横並びで涙するこのショットは監督の遊び、つまり「カット言わんと、もうしばらく回しとこ」ちゅうて芝居の予定調和の先にある偶然性に期待し、またそれを楽しむために延長されたフィルム的遊戯のことだが、ここで遂にカメラは“アクションスター、ジャッキー・チェン”ではなく、むしろ“アクションスター、ジャッキー・チェン”を見ている房 仕龍(ジャッキーの本名)を激撮することに成功なさいました。だってマジ泣きしてるからね、このシーンのジャッキー。
また、房 仕龍が出てくる瞬間って過去にあったかな?ってくらい珍しいのよ。それくらいこの人は映画の嘘が本当にうまくて、映画の嘘の中で映画を生きている。
だからジャッキー映画のエンドロールにはNG集が付くんですよ。
わかるか。「本当は何度も失敗してるし、実際の撮影現場はこんな感じです」ってことを披歴する茶目っ気アピールのためだけのNG集ではなくて、NG集を“真”とすることで、ことさらに映画本編を“嘘”として相対化できるからNG集をくっ付けてんですョ。
娘のリウ。
まあ、泣いた泣いたとみだりに騒いでるおれですが、涙を乾かすには十分なズッコケポインツも多々ある本作。
ピカチュウ並みに人語を理解して驚異的なレベルでコミュニケーションがとれる相棒の馬チートゥに「ほな人でええやん、相棒役」と思ったり。
プロットに関しても、父娘がようやく和解して、父の身体を心配するリウに「わかった。おまえを心配させたくないからスタントはもう引退する」と言いながらも大きな仕事が舞い込むたびに「最後にこの仕事だけやらしてくれ。たのむー」と約束を破ってリウにまた嫌われる…を繰り返しすぎて、よく考えたら同じ所をぐるぐる回ってるだけだよなこの話…と思ったり。
一番わけわからんのは、超大作映画のスタントをすることになったジャッキーが「えっ、ワイヤーで馬吊りあげんの? CGも使うん!? 信じられへんわ。せやったら降りるわぁ。おれの時代は全部生身でやっとったんや。特撮とか視覚効果とか邪道やで。スタントマンは命懸けてなんぼやねん。せやのに最近の映画は、なんやゆうたらワイヤーやあCGやあ言うて、最新技術に頼りくさってよぉ! そんなんやったら、やめさしてもらうわ」と息巻くシーンである。
おまえ、どの口が…!
『タキシード』や『メダリオン』でせんどCG使こぉとったやないかあ!!!
「CGやとラクでありがたい~」ゆうて、いちばん喜んどったやないか!
ワイヤーまみれの『ドラゴン・キングダム』を忘れへんからな!!!
それをば、なにが「おれの時代は全部生身でやってた」、「CGは邪道」やねん。いけしゃあしゃあと大嘘ついてええええええ。
と、こんなことを言うと決まってジャッキー擁護派が「いや、CGを否定する発言をしたのはジャッキー本人ではなく、あくまで彼が演じたルオ・ジーロンですよ。映画と現実を混同してはいけない。きみは映画を見すぎるあまり現実と虚構の境目が塩辛380円みたいにくちゃくちゃになっているんだ。いちど病院で頭を診てもらった方がいい」とかなんとか言って盾突いてくるのが世の常だが、残念だけどその反論は一般論であって映画論ではないし、おれは映画論に基づいて映画を語っているので「一般論に基づきたいよー」というお客様はあちらの列にお並びください。あ、そうそう、あそこの「薄っぺら討論会エントリー受付」って書いてる列ね。
『ライド・オン』がメタ的にジャッキー史を包括した内容であることは先に述べた通りだし、なにより過去のジャッキー映画の映像をふんだんに援用し、そこに映っているジャッキー・チェンと(そのスタント役という設定こそあれ)ルオを演じた本作のジャッキー・チェンがフィクションの枠内であってさえ同一人物であることは明白なのですよ。
とかくにジャッキーの映画人生を総決算するかのような本作。言うなれば生きながらにして見る走馬灯。
そして相棒役のお馬さん。先ほど「人でええやん、相棒」なんて毒吐いたが、うんにゃ、映画の原点たる動物は犬でも猫でもなく馬だった。エジソンが発明したキネトスコープも、それに着想を得たリュミエール兄弟のシネマトグラフも存在しなかった時代、連続写真を可能たらしめたクロノフォトグラフィーでエドワード・マイブリッジが最初に撮影したのが馬なのだ。1878年6月15日。『動く馬』ね。
なんかもうね、そのへんにも思いを馳せてしまうの。これって映画狂の妄想でしょうか。違うだろうな。だってジャッキー映画ってキートンでありチャップリンだから。
エドワード・マイブリッジが撮影した連続写真『動く馬』。映画の起源。
まあ、わあわあ言うとりますけども『ライド・オン』にはここ10~15年のジャッキー映画における年寄りの冷や水的な痛々しさはなく、むしろ年寄りの冷や水そのものを主題化し、それと向き合った、まさにジャッキー版『グラン・トリノ』と言ってしまうのが一番わかりよい快作だ。
長年ジャッキーの日本語吹替えをやってきた石丸博也が引退を取り消して最後の仕事としたことにも感動をおぼえた。
橋幸夫かおまえ。
(C)2023 BEIJING ALIBABA PICTURES CULTURE CO., LTD.,BEIJING HAIRUN PICRURES CO.,LTD.