シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

クラブゼロ

恐怖!ターベルンの飯捨て女  ~俺は恐ろしくなって映画を観終えたあとご飯をむしゃむしゃ食べた。しかも大急ぎでSP~


2023年。ジェシカ・ハウスナー監督。ミア・ワシコウスカ、クセニア・デブリン、ルーク・バーカー。

栄養学の教師が“意識的な食事”という独自理論をしきりに提唱する中身。

 

今宵涙こらえて奏でる愛のセレネー
今も忘れない恋のウータ~~
雪よ  もう一度だけ
このときめーきょ セーレベェー
ひとり泣き濡れた  夜に
ワアアアア アアア
ラー
ア――――!

きゃあああ。まだや思てて桑田佳祐の「黒い親族たち」歌とてた。違ごた。「白い恋人達」か。
それにしても、クリスマスソングで「白い恋人達」て。死んどるやないか。解釈の如何では。凍死して白くなってんちゃうん。解釈の如何では。
そんな話はどうでもいい。

湿った前書きであります。
そろそろ映画を観なければあかぬ。もうだいぶと何も観ていない。というか、映画を観続ける生活という名の呪縛からようよう解放された、と裏を返せばポジティブルに換言できもスルのだけれど。スルメ。
映画を観続ける生活をやめて肌艶がよくなった。髪にコシが出た。歯が白くなった。知人とリネでやり取りする機会だって増えた。こないだもリネ通話、というのをやった。友人から「いま電話していい?」というリネが来たので、スマートポン、ゆう機械を開いて「LINE」と書かれたよくわからない緑色のアイコンを押して通話をした。建設的なトークをした。嬉しかった。
俺はいま初めて人間らしい生活を送っている、ちゅうか、こういう生活を当たり前のように送るのが人間本来のあるべき姿なのか、と知ったね。逆に。昔から自覚はあったよ。たぶん俺は人間素人だろうなと。人間音痴にして、生活ブス。
とかくにキネマの蟻地獄に嵌った者のなれの果てこそ我がブログ。その証人こそが愛しき貴様。
「そろそろ映画を観なければあかぬ」
冒頭でそう述べたが、そうも思っていない俺も居て。おや? 一寸待てよ? そろそろ映画を観なければ…いけなかったんだっけ?
映画って観なければいけないものだっけ?
そうじゃないだろう。むしろ逆だろ。おりゃあ、再三に渡って「映画なんか観るな」、「観ないに越したことはない」、「ほかに趣味があるなら、そっちやれ」と申しあげてきました。映画デートをするアベックを思い留まらせてもきました。いいかい、ボイ(ボーイフレンドの方)、ガル(ガールフレンドの方)と。映画を観る営為とは、取りも直さずスクリーンと対峙することにほかならんのです。“私と映画”という一対一の関係を結ぶ行為に等しく、いわば映画デートとは、ボイと映画、ガルと映画、という個別の一対一の図式が二つ結ばれるだけザッツオールであり、その間にボイとガルを結びうる、つまりデートをデートたらしむる相関性の全き不在にかけがえなき甘美な2時間をまるまる放擲するに等しい、デートとしてはドサンピンの大悪手、そりゃ昭和の時代とかはデートプランの選択肢自体が少なかっただろうし“映画に行く”というチョイスも甘んじて緩手のうちに認められもしただろうが、今日も今日とて令和でええわ、映画でええわとデートで唱和、それこそ昭和、時間の無駄だわ、『君の名は。』なんつって、監督のえんかい誠も「それでえんかい? 誠?」ゆうて聞いてくるぞおまえレベルの無為愚行。
だからこそ私達のような(あなたがこの「達」に含まれないことを祈りつつ)、ごく一部のハイパーキチガイが映画ブログなんて下賤なことをやっておるのだと思います。
あ。やべえ。この結論だと、これからも映画を観てブログを続けなあかんくなった。その空気作りをしてしまった。
そろそろ映画を観なければあかぬ。了。

そんなわけで本日は『クラブゼロ』です。



◆餓死一直線 栄養学◆

 途中でいちど居眠りぶっこいちまったが、起きてちゃんと『クラブゼロ』観た。
映画鑑賞中に居眠りぶっこくことはよくある。昔からな。その都度「あかん、居眠りしてもた。集中力が散漫なっとる」と反省してきたが、ここへきて俺は思う。
俺に居眠りこかせる映画の方が悪いだろ。
逆に。
俺の集中力を持続させられなかった映画こそがギルティで、その結果“居眠りさせられた”俺の方はノットギルティっていうか、ある意味犠牲者だと思う。ふっ。退屈な映画の犠牲者さ。
たかが120分ぐらい退屈さすなよ。


皆さんだってそうですよ。大体において日本人は自責思考が強すぎるのよ。
筋が複雑で理解できなかったり、メタファーやパロディを見落としたりするたび、君たちったらなんていじらしい、“気づかなかった”ではなく“気づけなかった”自分をすぐ責めて。「わたし、時系列がころころ変わると訳わかんなくなっちゃって…」と言いながら頭を掻くなどして。「たはは」と照れ隠しで笑ってみるなどして。
いちびって筋を難しくして観客を置いてけぼりにして、ほんで観客側が「理解できなかったのは私がバカだから。赤面の至り。たはっ☆」と反省。
筋ハラやん。
難解ハラスメントやん。
作り手がいちびって必要以上に映画理解の難度を上げることで観客を突き放し、そのことでその作品がなんとなく高尚のベールをまとい、ワカラナイワカラナイと右往左往した筋難民たちはこぞって考察サイトを開き「あっへー」、「ほっほーん」などとそこに書いてある文章を鵜呑みにして得心。かくして観客の思考停止は加速し、映画の見方を知らないアホが増える。
だから皆さん、筋ハラの犠牲になってはいけませんよ。
むしろキレる、ぐらいが丁度いいと思う。「理解できなかった」ではなく「理解させる気あらへんやん」ゆうて。
ええかっこすなよ複雑な筋、こらー!
値打ちこいとったらあかんどパロディ、アホンダラ。
ほんでなんやねんメタファーて。喩える意味あんのかそれ。
…これぐらいが丁度ええ。
これぐらいでいこ♪



はてさて、『クラブゼロ』はミヒャエル・ハネケに師事した新進気鋭のジェシカ・ハウスナー渾身の作であります。
気になる中身は、ミア・ワシコウスカ演じる名門校に赴任してきた栄養学の教師が“意識的な食事”と銘打つ独自の食育理論を通じて生徒たちを洗脳していくイニシエーション・スリラー。
彼女が提唱する“意識的な食事”とは、たとえば「ご飯は一日三食」だとか「お腹いっぱい食べたら幸せぇ」といった風習や本能に従ってメシをばくばく食べるのではなく、「これって本当に食う必要あるのか?」などと自問自答しては食の必要性を都度々々判断しながら“意識”して摂取すること。されば自ずとファスティングのような領域に入り、しまいには絶食という結論に辿り着く。
究極の栄養学とは“食べないこと”。
食べないことこそが健康法の真理。
そんなバカな、とあなたは思うはず。「食べへんかったらガリガリなって死にますやん」と関西弁で言うはず。「ただ単に不健康」と鹿爪らしく呟くはず。「餓死一直線」とぜんぶ漢字で思うはず。
その通り。
だがこの教師は、いかにもそれらしい達弁と甘言を弄して生徒たちを口車に乗せ、洗脳ドライブへと連れ立ってしまう。決してUターンはできない危険なハイウェイへと。



◆ターベルンの飯捨て女◆

 完璧なショットの統制によって組織された作品だ。退屈なまでにな。
内装配置や建物の奥行きを使ったシンメトリーの構図からはキューブリックへの崇敬が見てとれるし、同調圧力≒連帯意識によって同化しゆく生徒たちの反復性はどこか小津安二郎のようでもあり、いみじくも洗脳という説話的主題を持った本作そのものが小津やキューブリックに洗脳されているという皮肉。物語もさることながら、そっちの方がむしろコワワ。むしろテリブル。俺はそう感じます。


暖色によってごまかされた冷たくプラスチックなショットの中で物語はえらく淡々と進む。
不思議な魅力をもつ新米教師ミアに“意識的な食事”の理念を説かれ、催眠術にかかったようにそれを実践する生徒たち。お昼ルンチの食堂にて、ワンプレートの給食をほとんど残し、唯一手をつけたフライドポテトゥもナイフとフオクで小さく切り、口に運びながら向かいの生徒をちらと見やれば自分のポテトゥよりも小さく切ってる。その後ろめたさが、一度は食べかけたポテトゥを再び皿に戻し、ナイフとフオクで更に小さく切らせるんだ。
初めのうちはぐうぐう鳴っていたお腹もやがて馴致され、食べなくても平気になり、むしろ食べない方が体調やマインド各種がいい感じになってきて「ビバ、意識的な食事!」とミア先生を神格化。
家で食べるデナーもこの調子なので親は当然心配する。だが彼らのミア信仰は止まらない。

お昼ルンチを小さく切って一口食べてあとぜんぶ捨てる生徒たち。


当初は食育の観点から「食べる量を減らせば体が自浄作用を発動させ、長期間食べ物を与えられないと細胞は老廃物を除去して自ら再利用を始める。これぞオートファジー」とかいって実践していた“意識的な食事”が、徐々に政治思想化し出して「こんにちの食料生産と消費のあり方は人類にとって有害。私たちの体が膨大な数の添加物に蝕まれるほどに食品業界が儲かるカラクリに死を。コマーシャリズムだ!」とか「ごはんを食べなくても生きていける者だけがこのシステムから解放される。このままやと人類みんな死んでまうど! そして私たちだけが人類絶滅後の地球で生き続けて神となる。ありがとう」とか言い始めて話がどんどんヤバい方にいってしまう。
…ありがとう?
物語後半は、いよいよ様子がおかしくなった子供たちを見かねた親御さん方が学校側に掛け合ってミア追放および子供たちの保護に傾注する流れとなり、ここでようやく物語は“視点”を持つ。親の視点だ。イカれ教師にそそのかされた我が子を救いたいのや、という親心。なかには断食する娘を理解するべくプチ断食トライアルに挑戦する母親もいたが、ただただ腹ぺこになっただけだった。
結末部には触れずにおくがモチーフの根底にあるのは「ハーメルンの笛吹き男」だろう。
いわばターベルンのドカ食い生徒たちを甘い言葉でハーメルンして大量誘拐した飯捨て女のお話。
俺は恐ろしくなって、映画を観終えたあとにご飯をむしゃむしゃ食べた。
大急ぎで食べた。



◆ハチが飛ぶん◆

 たいへんにスタイルコンシャスな作品だ。
大衆消費社会を批判しながらも生徒たちはお昼ルンチをゴミ箱に捨てたり、仲間仲間と言いながらも相互監視によるピアプレッシャーで互いを縛り合ったりと、何気ない台詞や場面の一つひとつにも風刺が利いている。ミアが瞑想部屋に飾っている蓮の花のオブジェに亡き母を重ね合わせて語りかける異様な場面。だがそのオブジェはそのへんのスーパーで売ってるプラスチックの安物だとジェシカ・ハウスナーは明かす(監督ね)。
画面構図はレオナルド・ダ・ヴィンチ風というかルネサンスを意識しており、ラストシーンの長回しなんか『最後の晩餐』すぎるやろってぐらいそのまんまで、そこに70年代アメリカ映画特有の意思的なズームインのダサさ/古臭さをチューブ調味料1cmほど出して混ぜ合わせるなど賢しい小技で味付けしていく。
この手のスタイルコンシャスな作品って、ここ5~6年で映画が好きになってキューブリックとか見漁ってる二十歳そこらの子に刺さりこそすれ、ザッと古今東西の映画を見てきて変に達観とかした俺みたいな精神ロートル、もといネジレひねくれワヤクソBOYにしてみりゃ…
居眠りぶっこいちまわあ!
「あー、狙っとんにゃな」とか「こう思われたいねんな」なんて作り手の意図がスケスケで、逆に退屈。美大生の作品発表会を見てる気分。ショットといいテリングといい、作り過ぎてる感ちゅか、頑張り過ぎてる感がしとどに出てて「必死やね」って。

ラストシーンの『最後の晩餐』。

ただ、色彩感覚だけは傑出していた。
俺は絶望的に色感がなく、とりわけファッションセンスに関してはド三流以下のズブ太郎なのだが、そんなとっとこズブ太郎の目にも『クラブゼロ』の色使いはステキに映ったんだ!
なんといっても生徒たちの制服。ライトイエローのポロシャツに、ベージュのハーフパンツ。いみじくも監督が蜜蜂に喩えていたように、まるで女王蜂=ミア先生の為にぷんぷんと校内を舞いながら蜜を集める奴らの如く。アホ丸出しといえば言えなくもない服のセンスだが、ロケ地となったオックスフォード大学の近未来的な建築造形と、青味がかったミッドセンチュリーな内装カラーおよび調度品が支配する映像空間にあって、かかる蜜蜂どもは生命エネルギーそのものだ。
そんな彼らが“意識的な食事”によって日に日に痩せこけ、土みたいな顔色へと変わり果ててゆくにしたがい、服や身につけているモノの色も少しずつ変化する。


そんなわけで『クラブゼロ』は“色”が楽しい映画でありましたよ。
主演ミア・ワシコウスカの無記名性というか、なんど顔を見ても“貌がない”ような顔は相変わらずスクリーンを脅かし続けていた。『アリス・イン・ワンダーランド』(10年) で世に出て、2010年代はさまざまな映画で活躍してなお、未だ人はミア・ワシコウスカを咀嚼できずにいる。だが撮る側からすればこんなに有難い役者もいないだろうな。ちゃんと“貌がない”んだから。

(C) COOP99, CLUB ZERO LTD., ESSENTIAL FILMS, PARISIENNE DE PRODUCTION, PALOMA PRODUCTIONS, BRITISH BROADCASTING CORPORATION, ARTE FRANCE CINEMA 2023