シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

陪審員2番

なんと有難みのない絶品。


2024年。クリント・イーストウッド監督。ニコラス・ホルト、トニ・コレット、J・K・シモンズ。

犯人ワシやないか、って中身。

 

顔がデカいからや
帽子がぜんぶ小さいわ
鏡見るたび笑えるの
これってギフト?  それとも呪い?
顔がデカいからや
全部目立つからや
前向いて歩こうや
顔がデカいからや


…ぬわぁ! 始まってんの気付かんと「顔がデカいからや」歌とてた!
どうも御機嫌さま。ふかづめです。
昼の情報番組やなんかを見ていると、コメンテーターの仕事とはいったい何なのかと思う。
視聴者からのクレームやネット上での炎上を恐れてか、識者もタレントも司会者でさえも、皆一様に歯切れが悪く、自分の意見よりも“世間の意見”をマイルドに希釈して代弁してるだけのように映るのよね。
お行儀のよさも度を越せば慇懃無礼だ!
そのことを、奴らは知らない。
なかんずく、聞くたびに気持ち悪さをおぼえる情報番組特有のクリシェが、せんど言葉を捏ね回した挙句の「難しい問題ですね」「考えていかなければならない」の結び。
だいぶ以前のゴゴスマで、タレントのコメンテーターがこんなことを言っていた。

「米の価格高騰によって消費者の米離れが起こった。僕ん家もお米がないです。買おうにも高い。かといって簡単に安くすることもできない。農家の人々も大変でしょうし。うーん。難しい問題ですね」

何か言っているようで何も言ってない、典型的なジャーゴンである。
ただ単に米不足の事実を述べ、政治的な現状をおさらいしたあとに「難しい問題ですね」といって結論を丸投げしているに等しく、ここにはコメンテーターとしての「自分なりに調べて、考えて、コメントするぞ。みんなに聞いてほしいんだぞ!」という言論の主体性や、思考の痕跡がまったくと言っていいほどない。
ここまで無意味なコメントをするコメンテーターって、そもそも必要なのだろうか。どうせ無意味なコメントをするにしても、俺がコメンテーターだったら「僕、難しいことはわからないので、“米がない”に掛けてノーコメントとさせて頂きます。米だけにね。まあ、米がない、ちゅうとんのに『いただきます』もおかしいけど。食えない奴でしょ、僕って。箸にもかからないこと言って。ぱっぱっぱ」つって一人で笑ろてるわ。
だが、もし俺が本当にゴゴスマに呼ばれて「ノーコメントとさせて頂きます。米だけに」なんて言おうもんなら、非難轟々、クレーム殺到、局に怒られ、稲穂以上に俺の頭が垂れ、ハナも垂れる。
他方、「難しい問題ですね」で片づけたコメンテーターは普通に生き残り、俺だけが降板させられる、なんてな憂き目に遭う。
難しい問題だよね。


もいっこ、モヤっとするのは、いま申し上げた「難しい問題ですね」の変奏でもあるのだけど「考えていかなければならない」という結び方ね。
性急に結論を出すことが危ぶまれる類のニュースに対して意見を求められたコメンテーターが着地しがちな、多分に「みんなで時間をかけて考えていこうよ」といったニュアンスを含めた逃げ方(コメントの躱し方)である。これも「難しい問題ですね」同様に、結論を先送りしつつ、“司会者から私へと向けられた質問”を体よく“みんなで考えるべき問題”へとすり替える常套手段。いわばコメントを忌避するコメントである。
俺なんかは、コメンテーターが「~について考えていかなければならないと思います」とか「いまいちど真剣に考える必要があると思います」といった物言いをした瞬間、
いや、それをいま考えて発表せえよ。
オマエが。

それをする場やろ、情報番組のコメンテーターやねんから。
…と思うわけちゅん。

逆に、なまじ歯に衣着せぬコメントをしたがためにSNSで叩かれたり嫌われがちなコメンテーターがいるけれど、俺はこう思うよ。
コメンテーターに必要なのは、ぬるく常温保存した(決して炎上しない)正道の意見を述べることに非ず。むしろ千差万別のコメンテーターがそれぞれに偏った人間的見解を闘わせ、その線上の端から端を視聴者がめいめいに吟味して各コメンテーターを応援したり呪ったりするような、主体的思考を提供する装置たりうる、ともすれば暴論であり極論である。
少なくとも「難しい問題ですね」と「考えていかなければならない」は、議論をウヤムヤのままにただ滲ませる水彩画。ピントがボヤけ、思考を止める、ばかのワード。

そんなわけで本日は『陪審員2番』です。



◆イーストウッド讃に気をつけろ!◆

 いったい何が起きているんだ?
いったい何があってクリント・イーストウッドの最新作が全世界でわずか7ヶ国のみの劇場公開となってしまったのか。いったい何を考えてワーナー・ブラザーズはHBO Maxでのストリーミング配信を企図したのか。
日本における『陪審員2番』の劇場公開を求めるオンライン署名活動に参加したのは、わずか2000余名の誇り高きクリントたちだった。
其処なる読者よ。あなたは署名したか?
なに。した、だと? 
嘘をつけ、魔法使い!
してないよね。かく言うおれも未署名の身であるから居丈高に偉そうなことはいえないが、『荒野の用心棒』(64年) から60年間にわたってクリント・イーストウッドを贔屓し続けてきた日本の民草のうち、わずか2000余名しか、この51年ぶりとなるイーストウッド作品の日本未公開という未曽有の危機に立たされた最新作に救済の手を差し伸べようとしなかったという度しがたい事実に暗澹たる思いを抱くと同時に、かねてから評のなかで繰り返し訴えている人は未だイーストウッドの映画を“観る”ことができないという試論を是と裏づける世知辛い結果となってしまって残念。
そんなわけで、茫洋たるサブスクの片端に密かにチラつくことで辛うじてその存在を示しえた、夜空にあって滅亡寸前の星のごとき『陪審員2番』の“有難みのなさ”に「面白ぅない!」と気分屋のアホの殿みたいに膨れて、おれ、でも観たよ♪


 おれが世間一般の映画好きに比べてより少なく幸福なのは、批評なんてやっている手前、ピュアネスに映画を楽しむ術をもたず、ハナから「さて、こいつをどう書こうか」という心算で映画を観るわけだが、すると鑑賞中、“おもしろい”か“つまらない”かという問題は、音もなく“評が書きやすいか”と“そうでないか”の二元論へとすり替えられてしまう。
前者、すなわち評が書きやすい映画というのは“驚きに満ちた映画”のことであり、後者のそうでない映画は“満ちぬ驚きに思わず驚いてしまう映画”を指し、ともすればイーストウッドは言わずもがな後者となる。
「イーストウッドってすごいよね」
「巨匠ならではの妙技が冴えるよね」
「深い映画をいっぱい撮るよね」
そう唱える映画好きが、もしあなたの周りにいたならば、そいつはほぼ確実に大嘘つきの豚しゃぶ野郎なので、一応弁解は聞くにせよ、まあどうせ大した二の句は継げないだろうから即刻処刑してよいと思う。
この話のポイントはきわめて単純だ。
人は「イーストウッドはすごい。なぜなら~」から先の言葉を編むことが60年間できずにいるのだ。
そんなわけはないだろうと思って、これまでにおれも自分なりの批評を試みてきたし、有名無名問わずさまざまな映画評論家や文化人の著書、映画雑誌の批評やコラム、ブログにサイトにポッドキャストとその有象無象を渉猟してきたが、えらいもんで、みな欠語に陥り、レトリックと戯れ、印象論や好悪論で茶を濁し、とうとう「イーストウッドはなぜすごいのか?」という原理的な謎は氷解せぬまま、ついにこの老人を95歳まで野放しにしてしまった、ある意味における映画の大罪人なわけです。人は。われわれは。したがって「イーストウッドはすごい」という言説は、口にした端から論理として自壊しており、かつ己が不明を晒すに似た愚行、と申せる。
とはいえ、たぶん、さすがのイーストウッドも寿命か病気でぼちぼち死ぬと思うので、いい加減われわれは(ここで言う“われわれ”は全人類を指す)本腰を入れて、アメリカ映画史最大のイーストウッドというパズルを解き明かさねば、ならなーい!


…と、こんな風に、おれが息巻くでしょ。
すると毎回ですわ。毎作品、毎作品、イーストウッドは、おれみたいな“観る者”をいなしてくるのです。もうわかっとんねん。名探偵みたいに「暴いてやるぞ」という目つきで観ようとすればするほど観えず、むしろ姿を消し、かと思えば、べつに映画なんてまったく興味のない民草の目にほど存外イーストウッドはよく見える。
無欲で「わてが落としたのは汚い斧ですねん」つって、結果、ダブルゴージャス斧を手にした木こりの寓話みたいなもんですわ。
イーストウッドを観ようとする欲は、あらかじめ瞳を曇らせる。
蜃気楼のごとき残像を斬れども、本体はなんらの痛痒も感じないが、それでも刀を振り回すのがおれの役目。びゅん、びゅん。
『陪審員2番』、語りまーす。



◆皮肉なりきアフォリズム◆

 ある日、身重の妻と新居でしあわせに暮らす男のもとに陪審員召喚状が届き、妻は冗談交じりに「わざと不適切な発言をして外されれば?」などと言い、男もこれに「“乱交パーティに皆さんを招待します”とか?」と返せば妻、「アオ!」と騒いで男を叩くなどし、じつに微笑ましき夫婦のじゃれ合いを経た翌朝、裁判所に赴いた男は、あえて予備尋問の場で「妻はハイリスク妊婦です」と口にするも、その口実の意図を見抜かれた裁判官から「今、ここにいたくないと望む人こそが理想的な陪審員といえます」なんてバカほど外堀を埋められてしまい、あなや、陪審員に選ばれてしまう。
男、「あじゃぱー」と嘆息。
事件はシンプルをきわめた。
2021年10月25日、大雨の深夜。イカれたカップルがオールド・クオリー・ロードに面したバーで痴話喧嘩をした翌日、彼女の方がバーの近くで遺体で発見された。被告は彼氏。女を殴るのに躊躇も抵抗もなしといった全身刺青のゴリゴリDQNといった出で立ちだったので、陪審員たちは眉をひそめ、異口同音に「ギルティー!」と叫んだ。
だが、検事による事件の経緯説明を聞きながら、男は茫洋たる記憶の糸を手繰り寄せる。
あの夜、オールド・クオリー・ロードに面したバーに男はいたのである。
そのとき男は、ひどく憔悴していた。妻が、初子となるはずだった命を流産したためだ。暗然たる面持ちでバーを出て、暗い夜道を走っていた男は、なにかを轢いた衝撃に思わず車を止めたが、“鹿の飛び出しに注意”という警戒標識に「なんだ、鹿か」と楽観、「シカシカシカ」と笑うなどして家路についたのだ…。



なんたら禍事だろう。陪審員として受け持った事件の犯人がまさか自分であろうとは。
だが男よりも動揺したのは観る者よ。ここまでわずか15分。わずか15分でっせ? 法廷サスペンスかと思いきや、冒頭15分で“犯人は主人公”と種が割れた!
クリント・イーストウッドしてるわぁ…。
こんな変態構成…。いわばセットアップの段階で映画1本終わらせたに等しい身振り。
だが物語は続く。男は「犯人、ワシやないか」と気付きながらも、ほかの陪審員がこぞって「有罪に決まったあるやん!」と叫ぶなか、良心の呵責から全員一致に待ったをかけ、あらためて事件を公平に検分したうえで結論を煮詰めようと議論を仕切り直そうとする…。
すなわち、通常の法廷サスペンスの結末を最初に持ってくることで、いわば“結末のその先”を描き出そうとした作品なのであるよね。
ちなみに被害者のDQN女を演じたのは、イーストウッド主演の『ピンク・キャデラック』(89年)『許されざる者』(92年) で共演したフランシス・フィッシャーとの間にコソコソと儲けた子、フランチェスカ・イーストウッド。父の映画でさんざんな役を演じております。


 物語として滅法おもろいでっせ、これ。
犯人の正体を知っているのは主人公、すなわち犯人自身と観客のみ。この倒叙ミステリの形式は、しかしミステリの方向に西へ東へと遊ぶのではなく、すさまじい説話的圧力によって主人公の道徳問答へと収斂される、きわめて内省的な性格をもつ。
愚かな観客の目には、本作の主人公はよほど愚かに映るだろう。なんとなれば主人公以外の11人は有罪と唱えたのだから、主人公もしらこい顔して「ゆうざーい」と唱え、全員一致で有罪にすれば即日解決、罪をDQNの被告になすりつけ、己は新たに命を生まんとする妻とハッピネスにニューライフを送れたのだから。
だがそうはしなかった。
できなかった、というのが正しいか。なんにせよ篤実な人柄が、おもわず11人を真剣な議論へと臨ませ、その中から元刑事の陪審員(J・K・シモンズ)の嗅覚を働かせてしまったことにより、その元刑事は真犯人がいる可能性を検討しだし、やがてその熱意は出世欲から被告有罪の強弁で攻めとおす気でいた検事(トニ・コレット)をも真相究明へと乗り出させた。
いわば、罪を犯した主人公がちらりと見せた正義感が仇となり、その正義感が陪審員から検事へと伝播した結果、やがて自らを追い詰め、その首を絞めることになるという因果応報とも呼ぶべき、まこと業としか言えぬ皮肉なりきアフォリズムに満ちた物語なのでありました。


 余談だが、主人公が自ずから罪が露見するかもしれない状況をあえて作ろうとする、背徳感ゆえのアンビバレントな、ともするとある種の破滅願望にも似た自己処罰の身振りは、きわめて文学的で、個人的には共鳴するというか、すンげわかる。
もし自分が同じ立場だったら、あまりに投げやりな全員一致の有罪で被告が処されたとあらばまるで自分が被告を処したも同然という自責の念に駆られ、その十字架の重さにやがては自分自身が圧し潰されようが、ちゃんと12人が等しくスーパーマジモードで話しあいを重ねたうえでの全員一致の有罪であれば、これは正式に12人の結論、12個の意思による気高き審判、すなわち十字架の重さも12分の1と相成り、まあ多少の後味の悪さは月日が掻き消してくれることに期待しつつ己は新たに命を生まんとする妻とハッピネスにニューライフを送れる! …そう考えて、あえて11人を焚きつけるだろう。罪の意識をカルピスのごとく薄めんとする、ただ己が救われたいがためだけの我欲の偽善である。
そんなおれの卑しき行動原理とは異なり、どうやらこの主人公は本当に篤実な人柄ゆえに“正義感の発露”として11人を焚きつけたのだと自ら語り、また「僕は善人だ」と自分で言うなどもする。
本当かなあ!?
ン~フ~~ン? 甚だ疑わしいよなぁ。そう言い聞かせているだけというか、この主人公は自分を善人の側に置きたいだけの意気地なしの精神惰弱の甘えたちゃんではないかしらねえ!
現に、さも聖人君子のごとく善だの正義だのとご大層な高説をみだりに垂らしておきながら、決して“罪を自白する”という決断はハナから選択肢にすら入れていないあたりがその証左。あまつさえ、知己の神父(キーファー・サザーランド)に対してだけは告解という体で罪を打ち明け、自らを救わんとする、鼠賊にも劣る卑しき振舞いを、こいつはするんだ!
物語の骨子自体は『ミスティック・リバー』(03年) の変奏とも取れる本作だが、ある意味においては歴代イーストウッド作品の中でも五指に入るほど人間臭いキャラクターといえるのが、この主人公。ニコラス・ホルトが演じとります。
正義感と紙一重の罪滅ぼし。
そう考えると、しょせん正義なんてものは、西洋風にいえば盾、日本風に言うところの笠なのかもわかりません。



◆野に咲く花(逆・純粋映画として咲き誇れ)◆

 で映画評なのだが、良くも悪くも絶品。
ただ単に絶品。
ただ単に絶品ゆえに、取り立てて論じるべきことも、論じてみたいこともなく、イーストウッドの変態性もほとんど露出しない、非常に手堅くまとめ上げられた、大家の名にふさわしい秀作(世間がいうところの「大傑作」に相当)だったといえる。
だって、ショット脳のおれが終始ストーリーに引き込まれたんだもの。
ショット脳のおれがショットを観ることなく、アホみたいに終始ストーリーに引き込まれるぐらい“驚きに満ちぬショット”のみによってあらかじめ緊密に組織された『陪審員2番』なんてもんは、もう透明人間ならぬ透明映画と言ってしまった方がよい(つまりショット脳のおれでもショットを見逃すぐらい物語優位の“見えない映画”という意)。
言うまでもないが、今さらイーストウッド作品にあって、事件を独自調査した責で陪審員から外されたJ・K・シモンズが、退廷後に通路でスマホをさわる検事トニ・コレットに軽く挨拶をして階段を3段おりたあと「すまないが言わずにはいられない」と諫言して2段あがって被告の無罪を訴えるも、けんもほろろにあしらわれて寂しげに階段をおりてゆく場面における、あまりに流麗な水平構図から上下運動の映画的身体性、そして“3段おりたあとに2段だけあがる”ことの説話的コンテクストに関しては先刻述べた「絶品」の範疇、すなわち、今さらイーストウッド作品にあっては取り立てて論じるべきことでもないため、論じない(もしこれをそこいらの凡庸な監督の凡庸な作品に見たのならその一点だけで絶賛に値するが)。



 撮影は 『運び屋』(18年)『リチャード・ジュエル』(19年) を手掛けて今回3度目の起用となるイヴ・ベランジェ。編集は、助手時代から『アウトロー』(76年) に参加していた古株の常連、どころかイーストウッドの右腕ともいえるジョエル・コックス
この両雄の使い方が非常によかったのだと思います。
限りなくテレビドラマのような(つまり物語優位の)おもしろさを目指しながらも、この二人を担保することによって、ショットはよりビビッドに、構図は目に楽しく、そしてカットはやや残し気味に、しかし急ぐ。
ほんでシネスコ。
通常、法廷ものでシネスコは画が持たないので悪手。ともすれば平坦な、それこそ一昔前のテレビドラマのようなのっぺりとした水平構図主体の画ヅラに堕しがちだが、そこをさらりと回避したイヴ・ベランジェの手腕、これもまた“取り立てて論じるべきことでもない「絶品」の範疇”なので論じない。
ひとしお撮影と編集の美技が冴え渡るのは視線劇。だが、これも『シネマ一刀両断』ではさんざっぱら語ってきたので、シネトゥ読者にあっては、ただただ老練の視線劇に嘆息していればよい、とこうなってしまうわけですどうしても。
事件当日のフラッシュバックのくどさを唯一の耄碌とする、この94歳の技芸。ここ10年の作品の中でも最も思考が散らばらず、構えて観る必要もなく、また、大家だから過剰に褒めなくてはという接待評をも辞謝するかのような、達観の極致。
なんというのか。ただそこに在って、誰に批評される謂れもなく、しかし良質かつ緊密な映画法則の力学によって映画の自然へと還元されうるような、我がで、勝手に、自律しているフィルム。
ただ単に野に咲いている一輪の花のような映画を、イーストウッドは撮りましたよ。
おれはこれを「逆・純粋映画」と呼ぶことにする。

純粋映画…映画から物語性や配役/舞台性を摘出し、視覚やリズムといった映画本来の感覚的生理のみによってフィルムを脱構築することでモンタージュの因果関係からの解放を目論むダダイストの一派による前衛映画運動およびそれに属する作品群。ルネ・クレールの実兄アンリ・ショメットが提唱した。
本作『陪審員2番』を「逆・純粋映画」と呼ぶことにしたのは、個人的に「純粋映画もまた不純(純粋であらんとする作為性それ自体が一種の邪念であり、それによって映画の形を歪めた享楽的実験にすぎない)」とする筆者の映画理論ゆえ。


小難しい話が続いて、肩が凝るな。
とにかく、まあ、ある意味においてはイーストウッドという現代アメリカ映画史屈指の謎の生命体に対して何ら心得のない層にほど勧められるし、そういう層にこそ存外パッと解ける謎もあるやもしれん。
批評のし甲斐もないほどにすばらしい。

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