途方もなくスペクタクルな「砂漠でラクダ乗り回し映画」。
2015年。ヴェルナー・ヘルツォーク監督。ニコール・キッドマン、ジェームズ・フランコ、ロバート・パティンソン。
イギリスの裕福な家庭に生まれ、オックスフォード大学を卒業したガートルード・ベルは上流階級の生活に別れを告げてアラビアへと旅立つ。イラン、ヨルダン、シリアなどアラビア各地を旅してさまざまな部族と交流を重ね、砂漠に魅了される。アラビアの地に根付き情熱を傾けた彼女は、その後イラク建国に大きく関わっていく。(映画.com より)
ヴェルナー・ヘルツォークの最新作で、おまけにニコール・キッドマンの主演作だから観なければならぬよねー…と思いつつも、見るからに砂漠をまふまふ歩いてるだけの映画なので「面倒臭ぇなァ」と二の足を踏んでいた。
おまけに私は大の砂漠嫌いなのだ(実際に行った経験はないが、行かなくてもわかる。砂漠は退屈だ)。
でも、伸びない食指を無理やりギューンと伸ばして観たよ。それが私のポリスィーだから。
「観たくない映画ほどあえて観る」
そんなわけで、例によって誰も興味なさそうな『アラビアの女王』についてペロッと語る。誰が? 俺がな。
深刻に常軌を逸した俳優クラウス・キンスキーにマジで首を絞められるヘルツォーク監督。この二人は冗談抜きで殺し合うほどの仲だ。
御年75歳のドイツの巨匠ヴェルナー・ヘルツォークが、『狂気の行方』(09年)以来6年ぶりに撮った劇映画は、ニコール・キッドマンがラクダに乗って砂漠でウロウロするラクダ乗り回し映画である。
ヘルツォークという監督の異常性については『狂気の行方』評で少し触れてます。
そんなヘルツォークもさすがにもうヤバい映画は撮らなくなっており、近年では一般人立入禁止のショーヴェ洞窟に立ち入って非公開とされている3万年前の壁画をここぞとばかりにカメラにおさめた考古学ドキュメンタリー『世界最古の洞窟壁画 3D 忘れられた夢の記憶』(10年)みたいな趣味丸出しの作品ばかり手掛けている。
秘境の地―とりわけアマゾンが大好きなヘルツォークは、全盛期の『アギーレ/神の怒り』(72年)や『フィツカラルド』(82年)のように、昔から一貫して人を寄せつけぬ峻厳な山や峡谷などを撮り続けている監督だ。
アマゾンの奥地を探検するうちに隊長クラウス・キンスキーの頭がおかしくなって探検隊が全滅する『アギーレ/神の怒り』(左)。
アマゾンの奥地にオペラハウスを建設するというムチャクチャな野望に取り憑かれたクラウス・キンスキーが豪華客船を陸に揚げて山越えさせる『フィツカラルド』(右)。
そして本作は、「砂漠の女王」と呼ばれた実在のイギリス人女性ガートルード・ベルに扮したニコール・キッドマンが、砂漠を旅しながらアラブ諸国を元気いっぱいに生き抜く半生を描いている。
ガートルード・ベル(1868年-1926年)は、女性情報員であると同時に考古学者でもあり、砂漠の利権をめぐって激動するアラブ諸国を駆け回り、大英帝国と砂漠の民をつなぐパイプ役となったイラク建国の立役者である。
スンナ派とシーア派の他民族が複雑に拮抗する地域をいかにして彼女が画定したかについては駆足気味でチャッチャと語られる程度だが、この作品はガートルード・ベルの伝記映画でもなければ政治映画でもないので、私みたいに中東の知識がなくて大の砂漠嫌いの観客でも、まぁ楽しめる確率はわりに高い。66パーセントぐらいだ。
先述した通り、本作は砂漠でラクダ乗り回し映画なのだ。
まぁ、ラクダに対して「俺はラクダを憎んでいる。なぜあんなにも背中がボコボコしてやがるのか。始末に負えない」などとわけのわからない悪感情を抱いている人には相当ツラい映画だろう。
もっとも、ラクダを憎んでいる人間はわざわざこんな映画なんて観ないだろうが。
険しい顔でラクダを乗り回すニコール・キッドマン。
ところで、中東情勢に大きく関わったイギリス人といえば、否が応でもE・T・ロレンスを連想するだろう。ロレンスに関しては浮世の人民よりも映画好きの方が深い造詣を持っていると思う。なぜなら、映画好きにとってはデヴィッド・リーンの『アラビアのロレンス』(62年)でお馴染みの人物だからだ。
もちろんヘルツォークがこの不朽の名作を意識しないわけがない。
『アラビアのロレンス』を撮ったフレディ・ヤングとニコラス・ローグの二大カメラマンに対抗して、90年代末から現在までヘルツォーク作品を7本手掛けている名カメラマン ペーター・ツァイトリンガーを擁し、トドメに高精細4Kカメラで撮影に臨んだのが本作なのだ。
まさに「『アラビアのロレンス』に比べてショボ! アラビアに謝れ!」と言われないための完全武装。
かのスピルバーグが毎回新作映画に取りかかる前に観返す映画らしい。
したがって本作は、紛うことなきショットの映画である。
砂漠や峡谷の美観をひとつ残らずカメラにおさめた極上の映像体験からは、ヘルツォークの本気度がビシビシと伝わってくる。
ハレーションや蜃気楼が砂漠の悠久性を朧化し、人々や動物の営為をしなやかに描き出していく。
映画における「スペクタクル」とは建物の爆発やCGで作られた怪物がバカみたいに暴れることではなく、たとえばラクダが巻き起こす砂埃や、ゆるやかな風になびくヒジャブの布なのだ。キッドマンが何気なく水筒に口をつけて水を飲む所作。そうした些細な運動の中にこそ映画の悦びはある。
そして洞窟内での真上から射した光芒に至っては、もはやベルイマンの領域だ。
「物語なんて追わなくていい。まずは画面を観よ」というヘルツォークの声が聴こえてきそうだ。
この妙な圧迫感のあるシンメトリーと色彩設計にはキューブリックの息遣いが感じられる。
すべての映画に「物語」を求めて、いま画面に映されているものの豊かさや美しさを解さず、平気で「眠い」などと言ってしまえるレビュアーにショット(画面の強度)への理解など望むべくもないのだが、まぁ確かに本作は見ようによっては大自然と歴史遺産を紹介するBSのドキュメンタリー番組のように見えなくもない。
気持ちはわかる!
ただ、テレビのドキュメンタリーと映画の違いは、やはりショットがあるかないかだ。
すぐれたショットは、物語や芝居を超えて0コンマ1秒で観る者の心をブッ貫く。
バカみたいな顔して美術館をふらふらしてるときに一枚の絵画の前で思わず息を呑むアホのおっさんのように。
だから、「ラクダに乗ってプラプラしてるだけで何も起きないじゃないか」とブー垂れる人には「ちょっと待て、やっこさん」と。
ラクダが歩いてるじゃねえか!
それだけで十分スペクタキュラーじぇねえか、と。
本作は、映画の本質とは「運動の美しさ」であることを思い出させてくれます。
何にでも出たがりのジェームズ・フランコも出ているぞ。
『トワイライト〜初恋〜』(08年)で一世風靡したロバート・パティンソンもロレンス役で登場しているぞ。
あと、個人的にどうしても言及しておきたいのは主演女優のニコール・キッドマン。
ニコール・キッドマンの撮り方がほとんど完璧だと思う。15歳は若く見えるほど美しい。
撮り方だけでなく運用術も心得ている。
恐らくヘルツォークのことだから「あんまり動くな。表情も変えるな。ていうか芝居をするな。したら殺す」と脅しつけたのだろう、本作のキッドマンは完全に芝居を封印されており、いわばオブジェとしてカメラの前に立ち尽くすのみ。
余計な「人間感情」を削ぎ落としたからこそ、砂漠の神秘性が際立つのだ。
ニコール・キッドマンが砂漠と一体化している。ラクダと一体化している。普段ならニコールニコールしているニコール・キッドマンが、ここではアラビアアラビアしているのだ。
まさにアラビア・キッドマンとしてのニコール・キッドマンに目頭を熱くしての祝福。
よかったね、キッドマン。アラビア・キッドマンになれて!
撮影当時、47歳! これがアラビアの魔力だ。
…さすがに自分でもわけのわからないことを口走っているという自覚はあるので、正気を取り戻そうと思う。
正気!
ハイ、取り戻しました。おかえり正気。
とにかく本作のキッドマンは、『ペーパーボーイ 真夏の引力』(12年)を抜いて2010年代のベストアクトと言っていいほど美しく、謙虚だ。
砂漠とラクダとキッドマン。こんな組み合わせを思いつくのだから、やはりヘルツォークはある意味で正しく狂っている。
かの詩人、金子みすずもおっしゃいました。
「ラクダと、キッドマンと、それからわたし。みんなちがって、みんないい」
…また正気がどっか行ったな。はよ帰ってこいや。