おはようございます。
私が映画を観ていて思わずこういう顔↓になってしまう条件を10個選んでみました。
これから「こういう映画が好きだ」みたいな話を延々していくわけですが、具体例として作品名を挙げるといったことはしません。
それをするには「いろんな映画を思い出さねばならない」という非常に手間のかかる作業が必要で、そんなことに時間を割くのはまったくの消耗でしかないので、ぜひとも皆さんの方で「こいつが言ってることはあの映画に当てはまるな」というふうに勝手に補完して頂ければ幸いに存じます。
それでは『映画を観ていてニコッとするシーン10選』を弾丸列挙していきたいと思います。参りゃんせ。
①悪役が死に際に呟く「あー、クソ…」。
これはアクション映画でよく見かけるシーンだけど、悪役の真上から瓦礫が降ってきたり足元に手榴弾が転がってきたときに「あー、クソ…」と呟いてから死ぬ…みたいな演出が80~90年代のアメリカ映画には多かったわけです(その瞬間は悪役のアップショットになってすべての音がオフになる)。
つまり死に際のリアクション・ショット。私はこれが無性に好きでして。
悪役の死に際のリアクション・ショットといえば、大抵の場合は顔の前で両手を振るなどして「ぎゃあああ!」なんて叫びがちだけど、これではつまらない。
やれやれという顔で「あー、クソ…」と吐き捨てる。そして死ぬ。
これぞ至高。
なぜこれが至高なのかと考えてみたところ、悪役が諦めた瞬間が刻印されているからだと結論しましてん。誰が? 私がね。
えてして悪役とは無反省なものですから、基本的には何があっても諦めないし負けを認めないまま死んでいく。しかし「あー、クソ…」と呟いて死んだいった悪役たちは「あ、こりゃ参ったな。死ぬな」ということを悟り、すべてを諦めてしまう。
つまり「あー、クソ…」とは降参宣言であり、そうした映画には主人公が物理的に勝利すること以上のカタルシスがあるわけです。主人公が勝っただけではなく悪役が負けを認めたということも同時に描いているので、これは決着として非常に気持ちがよい。そういうことが言えると思います。
②壁のポスター。
ティーンエイジャーが出てくる学園・青春モノには、部屋の壁とか学校のロッカーにポスターが無遠慮に貼られている。それを見るのが好きなんですよ。
べつにポスターに限った話ではなく。有名人のピンナップ、映画のスチール写真、レコードジャケット、あるいは本の表紙や劇中に流れる音楽など…。要はその作品が別の作品に言及したテクストを見つけだすことが大好きなのですね。そういうのを間テクスト性と言います。
間テクスト性は映画を理解する一助になる。劇中に出てくるポスターとか固有名詞って知らないよりも知ってた方が絶対楽しいし、それを知ることで表面的には決して描かれないキャラクターのバックボーンとか映画の裏テーマが見えてきたりもするので、ポスター(テクスト)には注意深くな! ということが言えると思います。
③キッズの言う「I hate you.」
白人のキッズはたまに「I hate you.」と言う。それがキッズというものです。
で、そのキッズがいう「I hate you.」が好きっていう。理由は至極単純。
かわいいから。
さらぬだに白人のキッズというのは天使のように可愛いのに、眉間にしわを寄せて高い声で「アイヘイチュー」なんて言いやがるわけです。ものっそ可愛いやん。なんやこの可愛さ。なめとんのか。
で、この可愛さのカラクリはイントネーションにあって。
「アイ(↓)ヘイ(↑)チュー(↓)」という具合に、ヘイで上がるから可愛いわけですね。わかりますか。
ヘイで目一杯上げてチューで思いきり下げる。
このヘイ上がりチュー下げという高等技術をキッズたちは無意識裡に使っているのです。
たとえば「天誅」という日本語。普通に発音してもぜんぜん可愛くない。むしろ「急になに言うの…?」などと他を軽く驚かせるような、ちょっと物騒な響きをさえ帯びていますね。
しかし「天っ!」で声がひっくり返るぐらい上げて「誅」で思いきり下げてごらんなさい。おら、さっさとやらんかい。
天っ(↑)誅ぅ(↓)
はい、ものの見事に可愛くなりましたね。おめでとうございます。
まぁ、そういうことなんですよ。
ちなみに我が国でヘイ上がりチュー下げを使っている有名人といえば、そう、ピカチュウです。「ピッカッチュ~」ってよく言ってますよね、あいつ。
あれもヘイ上がりチュー下げの応用で、ピカチュウの場合は「カ」で上げてるわけです。
ピッ(↓)カッ(↑)チュー(↓)
ほらね。
だから「かわいいー」なんつってチヤホヤされるんですよ、あいつ。弱いくせに。
したがって周囲から可愛いと思われたい人は、日常会話の中にヘイ上がりチュー下げを導入すればいいだけなのです。わかりましたね。このテクニックを使えば「白血球」も「嫌韓厨」も可愛く聞こえますから。
まぁ、あまりしつこく使うと「アイ(↓)ヘイ(↑)チュー(↓)」と言われるかもしれないけれど。あばばばばばば。
④踵から歩くイズム。
踵から歩く男は最高にかっこいいと相場が決まっています。
だいたい、踵というのは人体で最もかっこいい部位ですよね。だって踵落としはみんな好きでしょう? もし将来、私が結婚して男の子が生まれたらカカトって名づけようと思ってるぐらいですから(もし女の子ならヒザですよ)。
私が初めて『ターミネーター2』(91年)のシュワちゃんを見たとき、あまりのかっこよさに小便が垂れてしまいました。虹色の小便が垂れた。なぜって、ブーツを履いたシュワちゃんが踵から歩くんですね。それがまぁかっこいいのなんのっつって。
よもや説明の必要があるのかどうかまったく分からないから一応説明しておくと、「踵から歩く」というのは、まず踵から地面に着地して、そのあとに土踏まずで接地して、最後につま先を地面から離すという歩行です。踵からつま先に向かって重心移動していく感じ…と言えばいいかしら。
踵からこんにちは、土踏まずで「最近どう?」、つま先でさようなら…ということになります。
このターミネーター歩行をすると、一歩一歩が厳かな感じになるっていうか、人としての重厚感が増すんですよね。
普段は妻の尻に敷かれ、娘からは臭い臭いと言われてるような肩身の狭いお父さんも、ターミネーター歩行をした途端に家族からの尊敬を一身に集め、妻は夕食を一品増やすわ、娘は誕生日に散弾銃を贈ってくれるわといった特典を受けることができるでしょう。
逆に、土踏まずからベタベタ歩くようなお父さんは一生うだつが上がらないし、夕食もきんぴらごぼうと白米だけ、会社は倒産して愛車も盗まれ、娘はシンナーを吸ってげらげら笑うような子に育つと思います。空恐ろしいことです。
⑤反復作業。
ただ黙々と食べている、ひたすら字を書き続ける、ずっと食器を洗っている。
そういう単調な作業を映し続ける長回しがたまらなく好きです。
わけても私は、私生活においても人が字を書いているのをずっと見続けるのが好きで、学生時代には教師が黒板にチョークで字を書いているさまをアホの子みたいに凝視しておりました(書かれた内容は一切読んでなかったのでご覧の通りアホになったというわけです)。
たとえばヒロインが恋人に宛てて手紙を書くショットがあったら願わくば手元をクローズアップしてペン先を映してほしい。
一瞬ごとに書かれゆく字と、サラサラとしたペンの摩擦音…。たまらない。目を閉じると天国を感じることができる。なんだか背中のあたりがジーンとしてきて、ことによるとオルガスムスに達するんじゃないかと思うぐらい心地よいのです。
そうした反復作業の多い映画を「退屈だ」と思う人がいるかもしれないけど、そういう人は…言葉は悪いけどドサンピンだと思う。
つまるところ、反復とはリズムにほかなりません。
だから生活リズムというのは人間の営為における反復作業の理想的な周期のことなのだし、普段あなたが気持ちよく聴いている音楽だってリズムがなければ阿鼻叫喚の雑音でしかないわけです。
いわば反復とはリフレイン。そしてロックンロールはリフを繰り返すことでロックンロール足りうる。
つまり日々の営みをひたすら繰り返す映画はロック。
小津はハードロック。
そういうことが言えると思います。
ハードロック映画としての小津安二郎。
⑥唐突に終わってエンドロール。
思いもよらぬタイミングで不意にエンドロールが流れるまさかここで終わるとは映画というのがゼロ年代以降から急増しております。
マフィアを全滅させて家に帰ってきたヴィゴ・モーテンセンが気まずい空気のなかで家族と食卓を囲っている最中にいきなりエンドロールに入る『ヒストリー・オブ・バイオレンス』(05年)や、トミー・リー・ジョーンズが昨夜見た夢の話を妻に語った直後に映画が終わる『ノーカントリー』(07年)など。
ボーっと見ている観客なら「は?」と思うだろうし、バカな観客であれば「丸投げ」と解釈するようなハイセンスな幕引き。
たとえばiPodで音楽を聴いてる最中にバッテリーが切れたりイヤホンが外れたときのような急にブツッと寸断される感覚とでも申しましょうか。それが好き、っていうお話でございます。
ただの自慢話になって申し訳ないっすけど、私は「まさかここで終わるとは映画」の終わるタイミングがほぼ正確に把握できる…という奇妙な特技を持っております。
『スリー・ビルボード』(17年)という映画は、ようやく犯人の目星をつけた被害者の母親と巡査が自動車に乗って犯人の家へ向かいますが、二人が車に乗っているシーンで私は一緒に映画を観ていた人に「あ、もう終わるね」と言い、その直後にスクリーンが暗転してエンドロールが流れ始めました。
「なんで分かったの?」と訊かれたけどなんか分かるんだよ。
いや、「なんか分かる」なんて曖昧な返事ではなく、ちゃんと理由を述べるべきでした。
静的な長回しです。
まさかここで終わるとは映画のラストシーンは、たいてい物静かな長回しの場合が多い。
ロングテイクで人物の顔にゆ~~~~っくりズームアップしている途中でいきなり映画が終わっちゃう『ノクターナル・アニマルズ』(16年)のように。
静的な画面を辛抱強く持続させておいてフッと暗転する。これこそがまさかここで終わるとは映画のごく基礎的なメカニズムです。
オチ(笑)とか綺麗な着地にこだわる観客にとっては少し苦手な演出かもしれないけど、好きな人にはこたえられない幕引きです。まさかここで終わるとは映画には、急に物語世界から弾き出されたようなマゾヒスティックな快楽がございます。
⑦刑事が主人公の悪行を見なかったふりする反語イズム。
たとえばアウトローの主人公が悪党をぶち殺したあと、立場上は主人公を逮捕しなきゃいけないけど個人的には憎からず思っている…みたいな刑事が駆けつけて「オレは何も見ていない」とか言ってわざと主人公を逃がすシーン。
ええやないの!
粋やないの!
下町情緒やないの!
大声出してすみませんでした。
決して相容れない両者の間に一瞬だけ芽生えた友情というか、温情というか、ベタつかない相互理解というか。
こないだ観た『きみに読む物語』(04年)という映画は非常にマザーファッカーな作品でしたけど、この見なかったふりイズムが貫かれていたので、そこだけは評価したい。
夜中に妻が寝ている病室に向かおうとする夫をナースが呼び止めて「規則違反って知ってるわよね? 悪いけど会わせられないわ。…ちなみに私は今から下に行ってコーヒーを飲んでくるけど、バカなことはしないでね」といってその場から立ち去るんですね。
つまり、ここにはしないでね=していいよというダチョウ倶楽部の反語イズムが通底してるわけです。「絶対押すなよ!」は「押せ」の合図なのですから。このナースは「バカなことはしないでね」と言ったあとに心の中でウインクしてるわけです。
これぞ粋。これぞ反語。ナースはこうでなくっちゃ。異議ナース!
⑧世間体なんて気にせず恥をまき散らしながら他者への愛を放射するヤケクソ根性。
私が映画を観ていて目頭が熱くなる瞬間はヤケクソみたいに恥をまき散らしながら他者への愛を放射するシーンです。
たとえば『リトル・ミス・サンシャイン』(06年)のやけくそダンスが泣きのツボなんですよ。わかってくれとは言わないが。
美少女コンテストで破廉恥なダンスを熱心に踊る娘と、それを見てドン引きしている客席。あまりの居た堪れなさに腹をくくった父親がステージに上がって娘と二人でヤケクソのようにダンスを踊る。そこへ思いきり恥をかいている二人を助太刀するように母親と息子と叔父までがステージに乱入し、一家全員で下品なダンスを踊ってコンテストをぶち壊しにする。
この滑稽きわまりないシーン。観る人によっては大笑いしたり真顔でただ見入る…など受け取り方はさまざまですが、私の目には愛に映りました。
娘の恥を家族全員で分かちあうという愛。
あるいは、よくパンツ一丁でうろうろするアルツハイマーの父親を一家の恥と思って軽蔑していた息子が、空港のレストランでまたしてもパンツ一丁になった父親を見て「よろしい」と覚悟を決め、人目も憚らずに自分もズボンを下ろして親子仲良くパンツ一丁で食事を取る『ステイ・フレンズ』(11年)。
これはどうでしょう。自分の娘をイジめたスケバンたちにヒロインとその親友たち(全員アラフォー)が女子高生のコスプレをしてお礼参りしたり、死んだ友人の葬儀場で不謹慎をものともせずにラジカセでボニーMの「Sunny」をかけて踊りまくる『サニー 永遠の仲間たち』(11年)。
あるいは、義父に「来るな」と警告されていたにも関わらず亡き妻の葬儀に現れた奇人パパ率いる家族たちが、妻の遺体が入った棺桶を盗み出そうとして大暴れする『はじまりへの旅』(16年)。
最高の恥知らずどもだ。
世間からは不道徳とか不謹慎といって後ろ指をさされるような…、事情を知らぬ者の目にはキチガイ沙汰に映るような…、それでも誰かのために恥も外聞もかなぐり捨てて正しい間違いを犯すことの格好よさ。そのシビれるようなヤケクソの愛に涙してしまうのです。
恥は忍ぶものではなく晒すもの。
これは誰の言葉かというと、私の言葉なわけです。よろしくお願いします。
⑨箸休め的な笑いのために迷惑を被るボケ老人。
たとえば、空から降ってきた死体が老夫婦の車のボンネットにボカーンと落ちてきたり、敵と戦っている主人公が年寄りの家のなかを「失礼!」と言って横切ったりなど、箸休め的な笑いのために何かと迷惑を被る老人がわりと好きです。私は箸休め要員って呼んでますけど。
そういう老人たちは九分九厘ボケてるので、誰かが壁を突き破って入ってこようが目の前のショッピングカートを吹っ飛ばされようがまったく動じないんですよね。
ひどい迷惑を被ってるのに本人自覚なし…というのが妙に可笑しくて、僕はボケた老人が大好きなのですよ。あの「ほーん…」みたいなポカン顔がたまらなくキュートです。
ちなみに90年代以前まではベッドインしている男女というパターンも多うございました。主人公がモーテルの壁を突き破ると裸の男女がいて「わぁ!」つって急いで乳隠す、みたいな。
あとは車の窓越しにすごい光景を見てしまう子供ね。「見てママ、人が空を飛んでるよ!」と言っても全然取り合ってもらえないという。
このように映画の中にはさまざまな箸休め要員がいますが、やはり最高の箸休めになるのはボケ老人をおいてほかにおりません。
⑩監督のワガママが貫かれた瞬間。
最後はちょっとマジメな話で締め括りたいと思います。
そして表現者の作品は、それと対峙している者(つまり我々)によって踏みつけられねばならない。
我々はもっと「そんなワガママは許さない」と声を上げるべきなのです。なぜなら批判精神なきところに文化も芸術もなく、基本的に「褒める」という行為は何も生み出さないからです。
それでも表現者はワガママを貫いて、ブーブー文句を垂れる我々を黙らせねばなりません。すぐれた映画作家とは、つまるところワガママを貫いた連中のことなのですから。
そしてすぐれた映画には「ここだけは私のワガママに付き合ってもらいます」というポイントが必ずひとつは存在する。それを見落とせば映画の価値を根本から見誤ってしまうので注意しなきゃいけないわけですが、自慢じゃないけど私もよく見落とします。あっふん。
たとえばジョン・フォードが撮る雲。
ありゃあ完全にワガママです。理想の雲が来るまでひたすら待ち続け、来たら来たらで不必要なほど雲を画面におさめて使えるだけそのショットを使うわけですから。
あまり古い映画の話をしてもしょうがないのでイーストウッドまで時代を跳躍しますと、たとえば『チェンジリング』(08年)におけるアンジェリーナ・ジョリーの真っ赤な口紅はこの上なく豪奢なワガママだし、そもそもあの映画にアンジェリーナ・ジョリーのような不適当な女優を起用すること自体がワガママ以外の何物でもない。おそらく凡庸な監督が同じことをやっても派手に失敗するだけでしょうが、イーストウッドがあれをやったからこそ『チェンジリング』は危うい綱渡りの果てにひとまず傑作という語に堪えうる作品となりました。
…たぶんあまりピンとこないような話を私は今しているので、少し話を変えます。
ワガママの意味を履き違えたワガママな映画はダメだと思いますっ!
つまり「そんなワガママは許さない」という我々の主張が正論としてすんなり通ってしまうような脆弱なワガママのこと。
こういう例えはどうでしょう。普段はとても思慮深くて思いやりのある人が時としてワガママに振舞うことと、普段から身勝手な人が普段通りにワガママに振舞うこと。
同じワガママでも質が違いますよね。ええ、違いますとも。
タランティーノなんかは随分と好き勝手やってるように見えますが、よくよく見ると前作の欠点を次作で改善していることがわかる(彼ほどの勉強家もそういまい)。
反対に、タランティーノとよくつるんでいるロバート・ロドリゲスなんかは、ワガママという名のただの過ちを無反省に繰り返しては「俺はワガママだぜー!」といって不良ぶるというようなアルティメット馬鹿なので、これは救いようがないわけです。
要するに、ワガママという名のただの過ちをドヤ顔で見せられることほど不愉快なものはありませんが、鍛え抜かれたワガママに振り回されるのは最高、ということが言えると思います。
誰かの表現とか何かの芸術に触れるという行為は、取りも直さずその人間のワガママに付き合うことにほかならないのですから。
以上をもちまして『映画を観ていてニコッとするシーン10選』はつつがなく終わっていきます。
「思ってた内容とだいぶ違った」とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、私もまったく同じことを思っているのでご安心をば。をば。をばばばば。ばばばばばばば。
次は『映画を観ていてイラっとするシーン10選』でお会いしましょうね。さいなら。