シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

映画を観ていてイラッとするシーン10選

おはようございます。

私が映画を観ていて思わずこういう顔になってしまう条件を10個選んでみました。

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『映画を観ていてニコッとするシーン10選』は終始にこやかな表情でお送りしたわけですが、本日はいささか顔が引きつっております。

元来、私は短気というよりもイラっとするポイントが人より多い…要するに気難しい性格ですので、イラっとするシーンを10個に抑えることにえらく苦労しました。そんな中から選りすぐりのイラっとポイントを皆さまを捌け口にしてお送りして参ります。通りゃんせ。

 


①鳴ってる電話をなかなか取らない。

まぁ「はよ取れボケ」ということです。

鳴ってる電話に対して、3コール、いや、百歩譲って5コール以内に電話を取ってくれない映画なんて嫌いです。というか取らないキャラクターが嫌い。

いちばん最悪なのは、電話が掛かってきたことに驚いて、しばらく猫みたいにおずおずと様子見しながらそろりそろりと固定電話に近寄っていって取ろうか取るまいかでウジウジ悩んでるパターン。

はよ取れ。

その間(だいたい1分以上)も電話は鳴り続けてるわけで、もはやこちらは苛立ちと同時に「早く取らないと切れてしまうんじゃないの?」という焦燥感に駆られてしまうのです。切れるか切れないかサスペンスに踊らされている私は作り手の思う壺なのでしょうか。はらたつ。

と言いますのも、個人的に電話の音がものすごく嫌いなんですよ。

たとえば、ハナから取る気のない電話がかかってきたときは相手が諦めて切るのを待たず、こっちから電源ボタンを連打してコールを打ち消してやりますからねガラケーです)

急に着信音が鳴るとひどく吃驚してしまうし、マナーモードの振動音でもビクッとしてしまうので、私は万年サイレントマナーにしております。これぞ安寧。

 

②やたらと携帯電話を使う。

電話ネタ二発目。

映画において携帯電話が普及したのは21世紀以降ですよね。特にサスペンス演出に顕著ですが、もともと「映画」と「携帯電話」というのは相性最悪で、大抵の危機的状況に対して「ケータイで助けを求めればいいじゃん」と突っ込めるようになってしまったわけです。

ゆえに作り手はいろいろ考えて、なぜか電波が入らないなぜか繋がらないなぜかケータイが壊れたといった苦しいエクスキューズを噛ます必要に迫られました。

まったく不毛と言わざるをえない。「ケータイで助けを求めればいいじゃん」という観客のツッコミを封じるためだけにケータイを無効化するという無駄なモーション(説明)を挟まねばならなくなったんですから。

また、ケータイによって誰とでも容易に情報通信がおこなえるようになったことで、人が遠くの人間と会話するためにおこなう移動(つまり運動。映画の大原則です)という原理的な映像快楽が反故にされるようになってしまった。

これ以上語るとマジメな映画論になってしまうのでほどほどにしておきますが、いずれにせよ携帯電話の台頭によって「映画」と「遠隔通信」の関係性がカジュアル化したことで映画からサスペンスがひとつ失われたのでございます。

ちなみに遠隔通信というものをきちんと処理できていたのはトップガン(86年)クリムゾン・タイド(95年)で知られるトニー・スコットですね。兄のリドリー・スコットと比較されて愚弟愚弟と言われてるうちに2012年に橋からジャンプして死んじゃった人です。それはそうと、トニー・スコットの過小評価ぶりとリドリー・スコットの過大評価は目に余るものがございます。

とりあえず、やたらと携帯電話を使う映画はバカである確率が高い。

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セルラー』(04年)という映画は登場人物全員がひっきりなしに電話してる映画です。電話代が心配になります。


③ババアと茶をシバく

これはミステリー要素の多い映画でよく見かけるシチュエーションかもしれません。

何らかの事件について調査している主人公が、情報収集のためにその事件と接点のあるご家庭(ご近所さんだったり被害者の家族だったり)を訪ねるシーン。

家の前でチャイムを鳴らすと大抵ババアが出てきます。

そういうときは大抵ババアですよ。

で、応接間に通されてババアと茶でもシバきながら一問一答するシーンがあって、それがもう退屈で退屈で。

こういう情報収集の過程ってストーリーテリングに従属している場合がほとんどで、要はストーリーを進めるためだけに誂えられたシーンなんですよね。だから撮ってる側もつい手を抜きがちというか、教科書通りの撮り方をしてしまって、そこに映画的な情緒が欠如している場合が多い。

したがって、ババアとの対話シーンでは単調な切り返しショットが何の面白味もなく繰り返されるわけです。ストーリー的にはヒントが仄めかされるシーンだからおもしろいけど、映像的には何ひとつ工夫がなくてつまらないという。

だから私は、ババアと茶をシバくシーン(ただの会話シーン)は作り手にとっての落とし穴だと思っております。ここで試されてるよ!っていう。ババアと茶をシバくシーンでこそ作り手の腕が試されてんのよ! っていう。そんな密やかなメッセージを胸の内で飼い殺しております。

 


④みんな怒鳴ってる。

これは日本映画に多い憤激ポイントといえるでしょう。

とにかく役者がよ~~怒鳴る。ま~~怒鳴るね。

役所広司藤原竜也、あと長澤まさみあたりを筆頭に、現代日本映画の人気俳優たちは、怒声、絶叫、悲鳴、雄叫びなどを武器にして今の地位にのぼり詰めました。現代日本映画の歴史はそうしたスクリームアクターたちのシャウトによって築かれたのであります。

もう、バトル漫画かっていうぐらいセリフの最後に「ッ!!!」とかついちゃうほど大声を出しますし、感情が高ぶろうもんなら蛮族みたいにすぐ「ウォー」とか「ワー」みたいな意味の剥離したことを叫んでおられますね。

そのカラクリを私なりに説明してみますね。合ってるかどうかは知りません。

 

まず、芝居の上手・下手は台詞回しによる感情表現で決まるという幸せな錯覚をしているのが現代日本映画の特徴です。これは作り手がそう思っているだけではなくて、観客の多くもそれを信じてやまないわけです。

よく「下手な芝居」の例に棒読み台詞が挙がりますよね。要するに棒読み=単調=下手と思っている人たちがすごく多い。たぶん小津も観たことのない人たちです。

ゆえに「小声」と「大声」の落差が激しくなってくるわけです。単調な喋り方がダメと言われるから、役者たちは感情の起伏を表現するために小声と大声を使いわけている。

ちょうど便利な言葉が音楽用語にありまして、ドンシャリと言います。高音と低音ばかり強調されて中音がスカスカの状態を指す言葉です。

家で日本映画を観ているときに役者の声が小さすぎてテレビのボリュームを上げると、今度は怒鳴り声や効果音がうるさすぎてボリュームを下げたという経験はないでしょうか。家で日本映画を観てるとリモコンの電池がすぐになくなる。音量の幅が極端なんですね。普通の話し声というのがなくて、小声か大声だけというリモコン殺しの二者択一を日本映画界の役者たちは迫られているわけです。

小声か大声か。0か100か。ハゲでいくかヅラをつけるか。生かしからずんば死か。

いま思いつきました、こういう傾向をボイス二極化現象命名します。

 

だから日本の映画界には、静かなトーンで怒りや悲しみを表現できる役者が存外少ないと、こういうふうに思うわけです。

「怒ったときはとりあえず声を荒らげる」とか「悲しいときは雨の下で慟哭する」いうのがプログラミングされてるわけですから、これはもう、なんとも短絡的というか、芸もヘッタクレもございません。で、そういう音痴な役者たちが海外映画とかアニメの声優を務めては顰蹙を買うわけですよね。

だもんで、私は日本映画をテレビで観るときはイヤホンを着けております。LかRか。両方や、そんなもん。イヤホンを着けていると小声でもぎりぎり聞こえますから、テレビのボリュームを上げたり下げたりする気苦労がないわけです。

それにしても、イヤホンを使わないとろくに聞き取れない映画ってどうなんでしょう?

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⑤スイッチを押せば済む話。

スイッチというのは「覚醒」の比喩と思ってくださいね。

この世にはもともと実力を持っている主人公がそれを発揮するかどうかで延々悩む…という映画が存在する。俗にいうスイッチを押せば済む話系です。

目の前に覚醒スイッチがあるなら押せばいいのに、なぜか押そうか押すまいかでダラダラと逡巡する。つまり、もともと高い能力を持っているのになぜかそれを使わないことで話を引っ張る映画というのがありまして、そういうのを観ると非常にもどかしくて「煮え切らない男だよ!」などと吐き捨ててしまうわけであります。

アクションとかスポーツものに多いけれど、ロジックを欠いた逆転劇というのも大いに冷めてしまいますね。強敵にズタズタにやられた主人公が気合いでどうにか立ち上がって気合いでどうにか逆転勝ちする。

気合いってNANI?

まさにこれも「スイッチを押せば済む話」で、勝てるなら最初から勝ちにいけばいいわけですけど、何故かもったいぶってそれをしない。

これと似たようなものに、言えば済む話系とか何も問題がないのにさも深刻な問題に直面したかのようにウジウジ悩む系というステキな映画群もございます。

これらすべてに共通するのは「一人相撲を演じている」という煮え切らなさ。我慢の限界です。

 

 

⑥なぜか人の話を聞かない恋人や警部。

人の話を聞かないバカは度し難いというお話をしたいと思います。

「やめて、何も聞きたくない!」といって耳をふさぐ主人公の恋人とか「もういい。言い訳はたくさんだ!」といって発言の機会も与えない警部とかがよく出てきますが、そのたびに「まず話聞けよ」と思ってしまうのですね。

彼らは主人公の話を「言い訳」もしくは「嘘をついている」とハナから決めつけているからこそ感情的になって発言を遮ってしまうのでしょうけど、そもそも言い訳か嘘かなんて話を聞いてみないことには判断できないわけです。

たとえば主人公がほかの女と一緒にいるところを目撃して「これは浮気に違いない」と思いこんだ恋人が、事情を説明しようとする主人公に対して「やめて、何も聞きたくない!」なんつって部屋を出て行ったりするわけですが…いや、ひとまず話聞けよ と。

いっぺん話聞いて、そのあとで判断したらええがな、と。

なぜ「ひょっとしたら自分が誤解してるだけかもしれない」という可能性を考慮せずに話も聞かないうちから主人公の浮気を決めつけてしまえるのか、その根拠は一体どこにあるのか、なぜそこまで自分の浮気説は絶対に正しいと信じきれるのか。ビリーバーなのか。自分ビリーバーだというのか。

不思議でしょうがないのです。人の話を聞かない自分ビリーバーたちの精神構造が不思議でしょうがない。

反対にですね、「正直かなり疑ってるけど一応話は聞こう」というスタンスのキャラクターは最高といえます。実に最高な奴です。アドレス交換したい。理性と忍耐をもって人と向き合うことのできる奴はベリーナイスな奴です。

とにかく、勝手に早合点したり誤解されたりするシーンにイライラしてしまうのですよね。だって基本的に双方が理性的に話し合えば誤解なんて生まれないわけですから。

というわけで、よく誤解する奴はバカということが言えると思います。

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これはマリリン・モンロー『七年目の浮気』(55年)でしょうか。それっぽい画像をテキトーに拾ってきただけなので確信はありません。私は自分ビリーバーではない。


⑦情に訴えてルールを曲げさせる。

飛行機の搭乗に間に合わなかった主人公が空港職員に必死で事情を説明してどうにか飛行機に乗せてもらう…といったアメリカ映画でよく見るシーン。

たいていの場合、職員は情にほだされて例外的に搭乗を認め「急ぎなよ、大事な人が待ってるんだろ?(ウインク)といった小粋な一言を添えて主人公を見送ったりするんですけど、どうも私はその手のハンパな人情コントが好きになれない。

まずもって、事情を力説すればコロッと説得されてしまうような空港職員などプロ失格だし(やめちまえ!)、泣き落としなんかで本来乗れないはずの飛行機に乗れてしまうような規則ユルユルの空港なんて空港失格じゃないですか(ニアミスしちまえ!)

まったくアメリカって奴は。そんな甘いことをしてるからしょっちゅうハイジャックされるんですよ。

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これは必ずしも空港に限った話ではありません。病院の受付とか銀行の窓口など、シチュエーションはさまざま。あとバスや列車も。主人公の勝手な都合でバスや列車の発車時刻を遅らせたり。

「申し訳ないですが規則上できないんです」と断られてもしぶとく食い下がる人にイライラするわけです。なんぼほど面の皮が厚いんだと。だって規則を無視して「俺だけ特別扱いしろ」って言ってるようなものですからね。そんなのアリかよ! 何のために規則や制度があると思っているのでしょう。

そういう奴って「きみ名前は? へ~、マイクか。やぁマイク。俺たちもう友達だろ? ちょっと助けてくれないか。 実は…」とか「きみ、子どもはいるかい? いるなら分かるだろう、俺の気持ち」なんつって、とにかく相手の良心につけこんで情で規則を突破しようとする。まさに人情一点突破の申し子。

規則や制度が情に優先されるなら社会なんて機能しねぇよ!

守れよ、ルール!!

曲げさせんなよ、ルール!!

困らせんなよ、職員各位!!

 

まぁ、こんなふうなことを思っているわけですが、ここでひとつ矛盾点が生じてしまいました。『映画を観ていてニコッとするシーン10選』の「⑦刑事が主人公の悪行を見なかったふりする反語イズム。」の項目で、まさにこういうシーンに対して「ええやないの! 下町情緒やないの!」なんつってアゲアゲで称揚してしまっているんですよね、私。

ヘタこいたぁー。

ばつが悪くなったので次に参ります。

 


⑧時間ズレまくりのクロスカッティング。

一応説明しておくと、クロスカッティングというのは異なる場所で同時に起きている2つ以上のシーンを交互に繋ぐ編集技法のことです。

自宅で殺人鬼に襲われる妻妻の身に危険が迫っていることを知って自宅に急行する主人公を交互に見せる…という、アクションやサスペンスものにありがちなシーンを例に挙げますねD・W・グリフィスが確立したラスト・ミニッツ・レスキューと呼ばれる演出法です)

早い話が、クロスカッティングとは「一方その頃…」の映画的表現なわけです。

 

妻がシャワーを浴びてるとき、家のドアがピッキングされる。

一方その頃、妻が危ないと知った主人公は慌ててオフィスを出て駐車場に走る。

一方その頃、家の中に侵入した殺人鬼が静かに妻のもとに近づいてゆく。

一方その頃、主人公が大慌てで車に乗り込んでエンジンをかける。ブロン。ブロロン。

一方その頃、妻の真後ろに殺人鬼が忍び寄る。

一方その頃、主人公は無線で応援を呼びながら道を爆走中。

一方その頃、妻が殺人鬼に抵抗して小突かれたり首を締められたりしている。

一方その頃、ようやく家に着いた主人公が妻を人質に取った殺人鬼とご対面。

物語はクライマックスへ…!

…的なね。

 

これ自体は何の問題もないですよ。緊張感を煽るためのすばらしいシーンじゃないですか。

でも腹が立つのは、妻と主人公のシーンが同じ時間の流れに置かれていない時間ズレまくりのクロスカッティングなんです。

クロスカッティングの胆は、2つ以上のシーンがまったく同じ時間に起きているという同時性これが大事。

でもこれが上手くいってない映画は、たとえば今まさに妻が殺されるというのに主人公は相変わらずさっきから同じような道をぐるぐる走ってたりする。わかりますか。

妻のシーンは、シャワー浴びてる→侵入される→背後に立たれる→襲われる→揉み合う…という風に時間が流れてるけど、主人公のシーンは運転→運転→運転…ばっかりで、あたかもループ地獄に閉じ込められているかのように時間の流れを感じない。

だから間一髪のところで主人公が家に到着して妻を救出したとしても「おまえ、数秒前までけっこう遠い所にいなかった? 瞬間移動したの?」という不自然な時間の流れに違和感を覚えるのであります。

クロスカッティングの意味ねぇー。

緊張感もヘチマもねぇー。

そういうむかつきを皆さんとシェアーできたらと思ってお話しさせて頂きました。心乱れます。

 

 

⑨昔の映画の嘘っぽさ。

映画と嘘はまったくの同義ですから「おかしい」とか「あり得ない」というツッコミは口にした端から無力化されていくわけですけど、それにしても馬鹿馬鹿しい描写が古典映画にはつきものなので、ちょっと論ってみたいと思います。

古典映画のなかで自動車に乗るシーンがあると一本道にも関わらずハンドルをやたらに回しますね

助手席の人間とべちゃべちゃ喋りながら右へ左へハンドルを切る運転手。

もちろん実際にこんな運転をすればダイナミックに事故死するだけなんですけど、映画ではスクリーン・プロセスという合成技術を使っているので誰も死なないわけです。「あらかじめ撮影した風景映像」の前で「車を運転する芝居」をするというもので、一切はスタジオの中だけで慎ましくおこなわれます。

だからオープンカーの場合、ちゃんとした映画だとカメラの横に送風機を置いて役者の髪やスカーフをなびかせるんですけど、ダメな映画だとこれすらしません。ハンドル捌きはむちゃむちゃ、おまけに大気すら存在しないという極めてシュールな一幕になります。

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これは泥棒成金』(55年)ですね。この映画でムチャな運転をしたグレース・ケリー(右)はのちに交通事故で他界するという皮肉な運命を辿っています。

 

古典映画の馬鹿馬鹿しい嘘について、あといくつか申し上げます。

1950年代以前のアメリカ映画に多かったのはやる気のないパンチ。

主人公がゴロツキの頬をパチッと叩くとそれだけで気絶しちゃう。「嘘つけ」と思うわけです。いくらなんでも身体が弱すぎやしませんか。ちゃんとご飯食べてますか。

また、 銃で撃たれた時のリアクションも非常に馬鹿臭くて、「ウッ!」とか言って撃たれたところを手で押さえながらその場でくるりと回って倒れてしまう。非常にしらこいわけです。しかもヘイズコードによる映画の規制が厳しかった時代の銃撃シーンは血の一滴も出ない。

ちなみに、そうした銃描写の馬鹿馬鹿しさを逆手にとったのが『空手ガール』(73年)で、これはYouTubeニコニコ動画で人気を集め「映画史上最悪の死亡シーン」として人々から愛された作品となったので、ぜひ見て頂きたいと思います。

天丼というテクニックを応用した緊張感あふれるシーンになっています。チャカチャカしたBGMが非常にむかつく。

 

⑩礼儀知らずの主人公。

これについては、もはや映画の話ではなく道徳の話です。

当ブログでは失礼ぶっこきキャラで通っている私ですが、じつは根は礼儀正しいんです。本当です。信じてくださいよ。なんで信じてくれないんですか。人を信じる心を失ったというの?

私は同じマンションの住人と駐輪場とかエレベーターですれ違ったときも「どうも」といって会釈をするし、スーパーの警備員さんにも「いつもええ買い物さしてもらってます」といって会釈をする。

逆に、こっちが会釈をしても向こうが会釈してこないときは「え? なにこの人。どういった人? 会釈ができないほど首を痛めてるのかな? もしそうじゃなかったとしたらぶっ殺そうかな?」と思うほど会釈文化を重んじております。

私はバカな人間ですし、人よりモノも知らず、一般常識も弁えていないこの世の半可通。はっきり言って昆虫界でいえばミノムシの中でもだいぶ下の方のミノムシと卑下せざるを得ません。あったかいんだからぁ。それはクマムシ

まぁ、その自覚は大いにあるわけです。

だからこそ、せめて人として最低限の礼儀だけはしっかりしたい。

そういう風に考えております。ご清聴アリス。

そんな私だから、映画の主人公が礼儀知らずと知った途端に、たとえそれがどれだけ好きなキャラクター、または俳優だとしても「ぶっ殺そうかな?」という思いに駆られてしまうわけであります。

たとえば主人公が道行く人々に「この写真の女に見覚えはないか?」なんつって聞き込みをしていて、相手が「知らないよ」と言ったとする。そのときに「ありがとう」と一言いえる主人公と「チッ、知らねえのかよ!」という顔をして無言でその場から立ち去る主人公がいる。

無言でその場から立ち去る主人公に対して、当然私はこう思います。

「え? なにこの人。どういった人? ありがとうも言えないような吃音症なの? または照れ屋さんなの? もしそうじゃなかったとしたらぶっ殺そうかな!」と。

どんなに格好いい主人公だろうが、愛すべきヒーローだろうが、人としての最低限の礼儀も弁えていなければ、それはどんな悪党にも勝るスーパー鬼畜ウルトラ餓鬼アルティメット劣悪ファイナル外道と断じざるを得ません。

逆に、礼儀なんてクソ喰らえみたいなアウトローの主人公が一般市民の何気ない善意に対してさりげなく「おっ、ありがとう」と言ったときは心から震えます。西野カナより震度倍乗せで震えるし、なにより萌えるわけです。

おまえはアウトローだからむしろ「ありがとう」なんて言わない方が格好いいにも関わらず「ありがとう」と言った萌えですよ。

もうたまらないっすね、そうなると。

映画の主人公は、べつに人を殺してもいい。法を犯してもいい。誰かが傷つくのを見て見ぬふりをしてもいいし、さいあく仲間を裏切ってもいい。

だけど礼を失するようなマネだけはしてほしくないと願います。ヒトとしていっっちゃん基本的な部分ですからね。礼儀知らずがまかり通るのは動物だけです。

つまり当ブログにおける私の態度は動物以下。

ええ、上等でございますとも。リアルでは会釈してるもんね!

 

 

以上をもちまして『映画を観ていてイラッとするシーン10選』は有終の美を迎えることになります。

思ったより穏やかにお話しできたので、ひとまず胸を撫でおろしております。一貫して敬語を使ったことでヤイヤイ感が緩和されたのでしょう。

また、年末には今年の映画ライフを総括した『ひとりアカデミー賞という寂しい企画が控えておりますので、そちらもぜひご一読頂ければ幸いに存じます。ほいだら、さいなら。