みんながリドスコ爺さんのライフワークに付き合わされているという面白さ。
2017年。リドリー・スコット監督。マイケル・ファスベンダー、キャサリン・ウォーターストン。
滅びゆく地球から脱出し、人類移住計画を託された宇宙船コヴェナント号には、カップルで構成された乗組員が搭乗していた。やがて人類の新たな楽園となるであろう未知の惑星にたどり着いたコヴェナント号だったが、そこには想像を絶する脅威が存在していた。その恐怖を目の当たりにした乗組員たちは、命からがら星からの脱出を試みるのだが…。(映画.com より)
あの死ぬほどどうでもいいエイリアン・プリクエル『プロメテウス』の続編。
結局、『プロメテスウ』は宗教的/哲学的なテーマで煙に巻いただけのバカ映画だったし、そもそも私は多くの映画好きがリドリー・スコットを手放しで巨匠扱いして持ち上げる理由がまったく分からない(もちろん良い作品はいくつかあるので十把一絡げに全否定するつもりはないのだけど)。
むしろ愚弟扱いされていた故トニー・スコットの方が、実はすぐれた監督ではないかという論考を持っています。
映画界で幅を利かせるスコット兄弟。
右:リドリー・スコット(兄)。代表作に『エイリアン』、『ブレードランナー』、『ブラック・レイン』、『グラディエーター』など。
左:トニー・スコット(弟)。代表作に『トップガン』、『トゥルー・ロマンス』、『クリムゾン・タイド』、『ザ・ファン』など。
それにしても、このシリーズを追うのは本当に疲れる。皆さんどうですか。疲れないですか?
エイリアン・プリクエルってダルくない?
あ、ダルくない?
ああそう…。
映画好きの方には今さら説明不要だが、もともと『エイリアン』(79年)は性暴力の恐怖を象ったフェミニズム映画である。
エイリアンのデザイン自体がモロに男性器のメタファーだったり、人間の体内に卵を産み付けるといった性的イメージは枚挙に暇がない。
そんなエイリアンに女性乗組員のリプリー(シガニー・ウィーバー)が立ち向かうという構図が男性優位社会における女性の闘争を象徴していることから、このシリーズは社会学におけるジェンダーの観点から論究されることが多い。
しかし、その前日譚を描いた『プロメテウス』では、『エイリアン』の骨子ともいえる性暴力やフェミニズムの文脈がドン無視されており、代わりに神話とか哲学でゴタゴタ塗り固めて、「我々はどこから来たのか?」とか「アンドロイドに自我ってあんの?」とか「そもそもエイリアンってNANI?」みたいな哲学問答が延々おこなわれる。
だから死ぬほどどうでもよくて面倒臭いのだ。
「人類の起源ってなんなんじゃ~」とか「我々はどこから来て、どこへ行くのじゃ~」みたいなリドスコ爺さんの超個人的な考え事を大金かけてハリウッド映画にしてるわけです。
「自分ン家の縁側でやれ!」の一言で済んでしまうんですよねぇ。
「我々はどこから来たんじゃろ?」といって思索に耽るリドリー氏。
だが斜に構えて見ると、世界中の映画ファンが耄碌したリドスコ爺さんのライフワークに付き合わされているという構図がなんとなく滑稽で可笑しくもあり、「やれやれ!」と思う私をなんやかんやでスクリーンへと向かわせるのである。
この、みんながリドスコ爺さんのライフワークに付き合わされているという滑稽な構図は、例えるなら年々凋落するジブリと、日本人のDNAに刻み込まれた本能でついジブリを観てしまう観客との関係性、それに『ヱヴァンゲリヲン新劇場版』を作る庵野秀明とそれに振り回されるファンとの関係性にも似ている気がする。
皆うんざりしながらも、なんだかんだで付き合うっていう。
このエイリアン・プリクエルもまさにそう。
作品単体としてはつまらないが、現象として面白いのだ。
さて、ひたすら面倒臭い『エイリアン:コヴェナント』の内容に踏み込むとしましょう。
嫌だなぁ。ダルいなぁ…。
人類の起源とか聖書の引用でゴッテゴテに塗り固めた『プロメテウス』から、主題の深遠ぶりと設定の複雑さが輪をかけてエスカレートした本作。
エイリアンとの戦いよりもアンドロイドの苦悩がダラダラと描かれてる状態で、『エイリアン』シリーズというより、ほぼ『ブレードランナー』の変奏である。
人間という創造主に作られたアンドロイドが、創造主を裏切って自らが王になる…。
その主題においては、ヒロインを含めた乗組員やエイリアンなどモブキャラ同然。
多くのレビュアーが「キャラクター全員バカ過ぎる」というステキな言葉で脚本の粗さを指摘しているが、もはやリドスコの興味はそこには無いのだろう。
79年版『エイリアン』に原点回帰したタイトル・ロゴ、大家ジェリー・ゴールドスミスの音楽、それに主演キャサリン・ウォーターストンがタンクトップ&パーマ頭だったりなど、『エイリアン』ファンを喜ばせる目配せだけは一丁前に行き届いており、不満を抱いたファンの留飲を下げさせる免罪符として担保されている。この辺りがなかなかあざとい。
だが、そうしたセルフリメイクの手つきは、79年版を断ち切って『プロメテウス』という新章を描き出したリドスコが、結局のところ79年版にしがみついていることを傍証してはいまいか(まぁ、ここまで肥大化した人気シリーズゆえに、そう簡単には断ち切れないんだろうけど)。
それにしても、作り手たちがエイリアンという設定を持て余してるように見えて仕方がない。
リドスコの興味は、もっぱらマイケル・ファスベンダー演じるアンドロイドに向いていて、エイリアンがないがしろにされている節が多分に見受けられます。
エイリアン、かわいそう!
生みの親リドスコにネグレクトされ、スタジオの裏で落ち込むエイリアン。
肩を叩いてジョージアの缶コーヒーをあげたいところだ。
ともすればH・R・ギーガー*1亡きあとのデザイン造形は、セルフリメイクを通り越してセルフパロディにさえ映ってしまい、この本家本元の作品が『エイリアン』以降無数に濫造された亜流作品に見えてしまうという…。
まるで『ターミネーター:新起動/ジェニシス』の悪夢再びだよ!
何度も血ですっ転び、セックス中に惨殺され、「単独行動はするな」と言われたのに単独行動したりなど、80年代スプラッター映画のごときお約束を律儀にも踏襲していて、そのあたりのダチョウ倶楽部精神はちょっと微笑ましい。
ヘンに高尚ぶってないだけまだマシというか、荘厳なテーマに反して映画IQが異様に低いという珍妙なバランスの上に成り立っている作品だ。
『プロメテウス』は悪い意味でバカ映画だったが、今回は良い意味でバカ映画。だけど普通の映画としては穏当な失敗作。
「人類の起源はこうなんじゃあー!」といって教鞭を執るリドスコ教授の哲学講義にはウンザリだが、どの道もはや軌道修正することなど不可能なので、次作ではバカ映画に振りきってくれることを願います。
エイリアンと戯れるギーガー氏。
*1:H・R・ギーガー…見た目はただの肥えた親父だが、『エイリアン』をデザインした天才イラストレーター。人間と機械が混交したクリーチャーの絵をよく描くので、人々に不気味がられている。インダストリアルでエログロな作風が特徴的。エマーソン・レイク&パーマーの名盤『恐怖の頭脳改革』のアルバムジャケットを手掛けた人物として、音楽好きの間でも知られている巨匠。2014年没。