シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

運び屋

88歳の巨匠が歌いまくり! 緊張感ゼロの一人カラオケドライブ。

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2018年。クリント・イーストウッド監督。クリント・イーストウッド、ブラッドリー・クーパー、ダイアン・ウィースト。

 

家族をないがしろに仕事一筋で生きてきたアールだったが、いまは金もなく、孤独な90歳の老人になっていた。商売に失敗して自宅も差し押さえられて途方に暮れていたとき、車の運転さえすればいいという仕事を持ちかけられたアールは、簡単な仕事だと思って依頼を引き受けたが、実はその仕事はメキシコの麻薬カルテルの「運び屋」だった…。(映画.comより)

 

お疲れ様です。おれです。

本日は『運び屋』ということにどうしてもなってしまうわなぁ。そりゃあ。こればっかりはどうしようもないですよ。僕の意思を離れた問題ですよ。それはやっぱり。

できればDVDのレンタル開始日に合わせてアップしたいなぁと思っていたのだけど、そんなの無理じゃん。どうしようもないじゃん。ムチャいうなよ。無理な相談ばっかしてくんなよ。おまえは親戚の子供か。

そんなわけで、一昨日観て、昨日評を仕上げて、今日アップするという、観たて書きたてダブルでホヤホヤの鮮魚的レビューをお届けしたいと考えているんだ。ぅおっほほい。

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◆映画を口実に歌いまくる88歳◆

アメリカとメキシコの国境地帯でのろのろとトラックを走らせる88歳の老人は、荷台に積んだ袋の中身が何なのかも知らないまま、ただ言われた通りに目的地に届けて金を受け取る「運び屋」である。老人はデイリリーをこよなく愛する花咲かジジイで、かつては園芸品評会で数々の賞を取ってきたが、今となっては園芸場の経営に失敗して自宅も差し押さえられ、家族からも絶縁されているようだ。

『グラン・トリノ』(08年)以来10年ぶりとなるクリント・イーストウッドの監督・主演作は、例によって「イーストウッドの集大成だ」というクリシェによって絶賛されているが集大成のわけがない。

前作『15時17分、パリ行き』(17年)の流れを汲んだふざけまくり映画である。


初仕事となる「First run」では、ガソリンスタンドの車庫の前にトラックを停めたクリント爺さんを怪しげな男が訝しそうに観察したあとに車庫の中に招きいれるところから始まる。そこで荷物を受け取って目的地へ運んだ彼は、予想外の報酬に驚きながらもその金で婚約した孫娘のパーティを開いてやった。

すっかり味をしめたクリント爺さんが再びトラックに乗って怪しげな車庫に赴くと、ドラッグディーラーたちは以前よりも彼のことを警戒していない。「Second run」も楽々クリアした彼はその報酬金で友人のバーを立て直し、勢いづいて三度目の仕事を請け負う。もはやトラックが着くと同時に「ようこそ!」とばかりにパカァーッと車庫が開かれ、強面のディーラーたちはこの88歳の老人にずいぶん懐いている様子。メールの打ち方を親切に教えてあげたりもする。

「数字の打ち方がわからん」

「ここを押せば数字になるよ!」

 

例によって荷物を受け取った老人は国境地帯を走りながらカントリーソングを歌いまくる。なんならファルセットも出す。イーストウッドは自分の歌声を聴かせるためにこの映画を撮ったのだろうか…と邪推してしまうほど一人カラオケドライブの様相を呈するのである(計7曲ぐらい歌ってたと思う)。

緊張感なし。

大丈夫か、この運び屋。

やがて、今まで運んでいた荷物が麻薬だったことに気づき、ようやく自分が危険な状況に巻き込まれていることを知るのだが、「まぁいいか」と気持ちを切り替え、再び熱唱しながら国境を越える88歳。

 

そんなわけで「麻薬の運び屋」というイメージからは想像もできないほどダルダルに弛緩していて笑ってしまうほどマイペースな主人公である。危機感も罪悪感もいっさいナシ。ただ歌を口ずさみながらノリノリで車を走らせるだけ!

当然思い起こされるのはイーストウッド演じるカントリー歌手がナッシュビルを目指す『センチメンタル・アドベンチャー』(82年)で披露したしわがれた歌声だ。そもそもクリント・イーストウッドという人は『ダーティファイター 燃えよ鉄拳』(80年)『ブロンコ・ビリー』(80年)でも自ら主題歌を歌っているように実は歌いたい人なのだ。かなりの歌好き。

そんなシンガーとしてのイーストウッドが「年老いた運び屋のヒューマンドラマ」という大義名分のもとに好きな曲を心行くまで歌うというのがこの映画の本性である。

なんやこれ。

音楽好きの88歳が冗談としか思えないノリで無反省に車を転がし続ける『運び屋』。マヌケで、可愛くて、ちょっぴりシュールな映画だった。

これが「イーストウッドの集大成」? よく言うぜ。

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荷物を運んで大金をゲットするイーストウッド。


◆イカれた世の中、イカれた老人◆

アンディ・ガルシア扮する麻薬組織のボスは、この老いぼれ運び屋のことがいたく気に入り、監視役として手下を2人つけて一度に大量の麻薬を運ばせるのだが、イーストウッド作品特有の禍々しい凶兆は依然姿を見せない。それどころか、車がパンクして立ち往生している黒人カップルを助けてやったり、手下2人と昼食を取ったり、モーテルで出会った美女たちと3Pをおこなったりと実に牧歌的なロードムービーが繰り広げられるのだ。歌を口ずさみながら。

そのあとガルシアの豪邸に招待されたクリント爺さんはプールサイドでの乱痴気騒ぎをしっかり堪能し、ネエちゃんたちのケツを触る。そしてまた美女との3Pに耽る。撮影監督のイブ・ベランジェがビキニのネエちゃんたちの尻を舐めるように撮っていた。

この映画に関わった人間はバカばっかりである。


このシーケンスがおもしろいのは、黒人カップルに「ニグロ」と言ったり、メキシコ人の手下を「タコス野郎」と呼んでみせるクリント爺さんの口の汚さ。

まるで『グラン・トリノ』でイーストウッドが演じた差別主義の退役軍人を思わせるキャラクター造形だが、本作のイーストウッドは差別主義者ではない。現にニグロが差別用語になったのは60年代以降のことで、これを言われたカップルは「お爺ちゃん、今はニグロと言わないのよ」と優しく諭していたし、タコス野郎というのもタコスがメキシコ発祥の料理だからメキシコ人に言った…というだけの理由。

これまで普通に使っていた言葉がいつの間にか差別用語とみなされていたことに対して腑に落ちない様子のクリント爺さんを通して、私はポリティカル・コレクトネスのアホらしさを再度認識した。

また、本作に一貫するスマートフォンへの嫌悪感にも共鳴した次第。

クリント爺さんはタイヤ交換の仕方をググろうとして電波の届かないスマホを必死で空にかざす黒人カップルに「いちいち調べなきゃわからんのか?」と毒づきながら手を貸してやり、麻薬取締局のブラッドリー・クーパーはドラッグディーラーの手からスマホを取り上げて「どいつもこいつも玩具に張りつきやがって」と溜息をもらす。

何気ない一言がすぐに取り沙汰され、いい歳した大人がガキみたいにスマホを弄る。こんなイカれた世の中に心底ウンザリしているクリント爺さんとクーパーが、追う者・追われる者という宿命的な関係にありながらも同じマインドを共有している…というあたりが実におもしろい。


園芸一筋で数々の賞を取ってきたクリント爺さんが家庭を顧みないばかりに家族から恨まれたり、あちこちで若い女と3Pに興ずるというあたりはまんまクリント・イーストウッド本人である。

数々の映画で賞を取ってきたこの巨匠は、35歳年下の妻と離婚したり65歳年下の恋人を作ったりと、まさに『夕陽のガンマン』(65年)ならぬ「股間のガンマン」。下半身の44マグナムが火を噴くぞ!

以前に『21世紀のクリント・イーストウッド』でも言及したが、この人の変態性欲は自作のなかでドキュメントされているのでぜひ研究して頂きたいと思います。

そんなクリント爺さんが病に倒れた妻(ダイアン・ウィースト!)のために心を入れ替える…という嘘臭さ全開のなんちゃって感動ストーリーに大笑い。

ちなみに娘を演じているのはアリソン・イーストウッド『真夜中のサバナ』(97年)以来21年ぶりにイーストウッド作品に出演した実娘である。もう46歳なの!?

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ダイアン・ウィーストと。

 

◆花はただ花であり、死体はただ死体でしかない◆

『運び屋』は手に汗握るサスペンスでもなければ感動のヒューマンドラマでもない。途方もなく馬鹿馬鹿しい脱力映画なので終始笑いを堪えながら観ていればいい。

また、イーストウッド的意匠を排したミニマムな作品でもあるので『インビクタス/負けざる者たち』(09年)『アメリカン・スナイパー』(14年)並みに見やすい映画になっているが、やはりイーストウッドだなぁと思わせるのはメロドラマの省略。

まさか自分が追っている男が目の前に座っているとは夢にも思わないクーパーが明け方のダイナーでクリント爺さんと語らって気持ちを通い合わせたあと、店を出たクリント爺さんの背後からクーパーが走ってきて「忘れ物ですよ」と水筒を手渡す一連のシーン。ここではメロドラマに傾きかけた二人の関係性がシームレスにサスペンスへとすり替えられている。

あるいは、デイリリーが咲き誇るファーストショットはラストシーンでも綺麗に反復されているが、人がこの花になんらかの美しいメタファーを読み込もうとしても、それは映画中盤に紛れ込んだアンディ・ガルシアの豪邸の庭にデイリリーをみとめたクリント爺さんが「この素晴らしい家を建てるのに何人殺したんだ?」という容赦のない一言によってデイリリーのメロドラマは鮮やかに失効してしまう。『ブルーベルベット』(86年)のデヴィッド・リンチがまるで優等生だ。

もっと分かりやすい例を出すと、父娘の確執は傲慢なまでのご都合主義で解消されてしまうし、あんなに楽しかった麻薬組織との和やかな交流も途中からウソみたいに途絶えてしまう。

だからこの映画に出てくる三体の死体もまた、メタファーを無効化されたデイリリーと同じくただ死体でしかない。状況を説明するためだけの肉体。それを司る大物俳優たちがそれと識別できぬほど「何者でもない貌」として曖昧に撮られているのもそうした理由に依る。

イーストウッドの映画は変態的なまでにフィジカルだ。無駄を削ぎ落とした映画ではなく必要なものから順に削ぎ落とした映画を撮る。

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『アメリカン・スナイパー』で起用したブラッドリー・クーパーとイーストウッドがついに合流!


そんなわけだから、クリント爺さんとクーパーが対峙するクライマックスも一切の感慨を許さぬ事務的な手つきで淡々と描かれている(盛り上がらないことこの上ないが、べつに『運び屋』はバカげた娯楽映画ではないので盛り上げる必要はない)。

ハッとさせられたのは、逆光で黒く塗りつぶされたクリント爺さんと、太陽を背にしてくっきりと際立った相貌をスクリーンへ向けるクーパーの車内外のショット。これは死者と生者の対比であり、ひとまず『グラン・トリノ』に続く継承のモチーフと言いきってよい。

ただし、アメリカの未来を託してモン族の少年へと譲られた1972年型フォード・グラントリノは、本作ではオンボロのトラックに姿を変え、映画中盤であっさりと廃棄されて黒い新車へと乗り換えられてしまうのだが。ここがイーストウッド流の皮肉。主人公の人物造形はどことなくドナルド・トランプのパロディでもあるようだし。

「タコス野郎」と言いながらもメキシコ人と親しく交流するクリント爺さん。まるでトランプへの当てつけ!

 

そろそろまとめに入りましょうか。

『運び屋』は、私が考える「イーストウッドをあまり知らない人に『荒野の用心棒』(64年)や『ダーティハリー』(71年)を勧めたところでどうせ観ないだろうから比較的最近の映画でオススメしたい作品ランキング」で堂々の1位に輝きました。おめおめおめおめパチパチパチパチ。

一見、万人受けすると思いがちな『グラン・トリノ』はイーストウッド作品をどれだけ観てきたかという経験が感動の度合いと比例するので実は一番マニアックな作品だと思うのだが、『運び屋』に関しては誰の目にも等しい光量で映る「感動作」である。

もちろん、括弧つきで表記した「感動作」という言葉には二通りの意味があるのだが。この嫌らしさも含めて、まさにイーストウッド。イカれてる。

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ポリに車停められてゲロヤバ!

 

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