この主人公は皿洗いしてるときのオレ。
2017年。エドガー・ライト監督。アンセル・エルゴート、リリー・ジェームズ、ケビン・スペイシー、ジェイミー・フォックス。
幼い時の事故の後遺症によって耳鳴りに悩まされながら、完璧なプレイリストをセットしたiPodで音楽を聴くことで驚異のドライビングテクニックを発揮するベイビー。その腕を買われて犯罪組織の逃がし屋として活躍するが、デボラという女性と恋に落ちる。それを機に裏社会の仕事から手を引こうと考えるが、ベイビーを手放したくない組織のボスは、デボラを脅しの材料にして強盗に協力するように迫る。(Yahoo!映画より)
主人公のベイビーは音楽を聴くことで驚異のドライビングテクニックを発揮する。
このシビれるようなキャラクター造形がまず良い。
かくいう私も、音楽を聴きながら皿洗いをすると潜在的な皿洗い能力が引き出されるので、実質、私もベイビーみたいなものである。どうぞよろしく。
ハンドルを握るかスポンジを握るか、という違いしかない。
あと、音楽を聴くと覚醒するキャラといえば将棋漫画『ハチワンダイバー』の右角である。ミッシェル・ガン・エレファントの名盤『High Time』を聴いた途端に獣みたいに絶叫して棋力がアップするという最高のキャラクターだ。
しかしCDがないとパワーがでない。
まさにベイビー。
まさに皿洗い中のオレ!
のっけから話が脱線したが、とにかくエドガー・ライトの最新作はこれまでのスタイルを大きく変えたミュージカル仕立ての犯罪映画だ。
音と動きが同期したライド感満載のカーチェイスが見ものだが、そこには私、あまりノレません(原理主義的カーチェイス不要論者なので)。
それよりも、音楽に合わせて街を闊歩する冒頭の長回しや、レコード盤やコインランドリーのドラム式洗濯機といった回転のモチーフが気持ちよくて(欲を言えば更にもうひとつ、タイヤの回転が加わっていれば尚よかった)。
「これまでのスタイルを大きく変えた」というのは、決してエドガー・ライトがコメディを封印したという意味ではない。
映画作家としてひとつ上のステージに上がるために技巧を凝らしたという点で、これまでのスタイルとは大きく異なるのだ。
本作でのエドガー・ライトは、これまで自分が好きなものをごった煮にした『ショーン・オブ・ザ・デッド』、『ホット・ファズ 俺たちスーパーポリスメン!』、『ワールズ・エンド 酔っぱらいが世界を救う!』のしっちゃかめっちゃか感を取り払い、締まりのある映画を志向している。
つまり、柄にもなくエドガー・ライトが大真面目。
だけど彼のオタク魂は全編に横溢しています。
『ザ・ドライバー』、『エディ・コイルの友人たち』、『ザ・ヒート』など無数の原典をうまくコラージュするさまはタランティーノみたいだし、なんやかんやでラブストーリーに執着するという恋愛夢想のオタク精神は、個人的にエドガー・ライト最高傑作に位置づけている『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』と同じ系譜。
好きな娘と付き合うためには7人の邪悪な元カレ軍団を倒さねばならないというIQ5ぐらいのバカ映画『スコット・ピルグリム VS. 邪悪な元カレ軍団』。
そしてカーチェイスと同等以上に本作の代名詞といえるのが、ベイビーのプレイリストとして絶え間なく流されるいろんな音楽だが、ここでも音楽オタクとしてのエドガー・ライトのやりたい放題。
ボブ&アール、カーラ・トーマス、グーギー・リーンなど、私も含めてほとんどの現代人が「知らね」ってなるような60年代R&Bが全編に渡ってスウィングする。
やっとロックが流れたと思いきや、ダムドやジョン・スペンサー・ブルース・エクスプロージョンなど、ロックはロックでもパンクロックで「うわちゃ~、エドガー・ライトの趣味ってそっちか~!」と、ぎりぎりビンゴならずみたいな人みたいに大はしゃぎしながら落胆(私はパンクが苦手)。
ようやくロックらしいロック、QUEENが流れたかと思いきや「brighton rock」で、「うわぁ、またこんなアルバム曲をチョイスして~。あえて代表曲からちょっとずらしてアルバム曲を選ぶことで音楽マニアをアピールするっていうやり口ね! わかるわかる!」と心の中でエドガー・ライトの背中をバンバン叩いて話しかけている俺。そんな俺がいた。
でもなんでしょうねぇ、楽しいはずなのにいまいちアガりきれないこの残尿感は。
思うに、ノリノリの音楽とかカーチェイスとか銃撃戦とか派手な死に方とか、そうしたアガる映画の条件だけが行儀よく配置されていて、野生がないのだと思う。
頭で作った映画というか。
アンセル・エルゴート演じるベイビーにしても、わざわざ回想シーンを挟んで「両親が事故死しました」とか「死んだ母親は歌手でした」とか「後遺症の耳鳴りを消すためにいつも音楽聴いてます」みたいなキャラ説明が過剰で、佇まい一発でベイビーというキャラクターが具象化されていない。
ついでに言うと、エロも足りない。エロティシズムこそ映画の野性である。
「エロが足りない」と言っても、強盗チームのエイザ・ゴンザレスが全然エロく撮れてないということではなく(まぁそれも大いにあるが)、たとえば主演アンセル・エルゴートのサングラスの表面を滑る反射光の色気だったり、車のボディの艶めかしさやフェティシズムといった映画の官能的な息遣いだ(ぜひマイケル・マンの『コラテラル』と見比べてみてほしい。ちなみにこっちにもジェイミー・フォックスが出てるぞ! ただし気弱な善人役でな!)。
静止画だとすごくいいのだけど。
たぶんエドガー・ライトに足りないものは映画の勘だ。
脚本のシステマティックな序破急、小粋なダイアローグ、チェイスシーンでの正確なカッティング、回転モチーフのマッチ・カットなど、ほとんど教科書みたいに正確な映画理論を駆使して正しい映画の撮り方を実践しているが、正しい映画と良い映画は別。
どれだけ計算尽くで撮っても勘だけで撮られた映画には敵わない。
もっとも、今回エドガー・ライトは正しい映画の撮り方をあえて自己実験的に己に課しているので、その点では大成功というか御の字というか、「デタラメなコメディばっかり撮ってるオタク監督と思われてっけど、一応ちゃんとしたテクニックありまっせ!」というところをまざまざと見せつけることに成功している。まさに面目躍如。
あと、主人公とヒロイン(または私生活でヤバいことになってるケビン・スペイシー)以上に光彩を放っていたのが凶悪ヤンチャ坊主のジェイミー・フォックスだ。
善人またはそれに準ずるダークヒーローばかり演じてるポスト ウィル・スミスみたいな俳優だけど、悪役、似合うじゃん! っていう。
「あのウェイトレス、知り合いなのか?」と執拗に訊ねてベイビーを窮地に立たせるダイナーでのねちっこ~い嫌がらせとか最高ですよ。「おまえはタランティーノ映画の小悪党か?」と思うほどのねちっこさと短気っぷり。
その末路も含めて、ビバ・ジェイミー。
21世紀(ジェイミー)フォックスという映画会社を立ち上げるべきでは?