シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

バッドボーイズ2バッド

【M・ベイ】バカだから憎む【アンチ運動】

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2003年。マイケル・ベイ監督。ウィル・スミス、マーティン・ローレンス、ガブリエル・ユニオン。

 

マイアミ市警では麻薬密輸入の取締に頭を痛めていた。ハワード警部は東海岸全域を治める巨大麻薬シンジケート撲滅のため、新たに特捜チームTNTを立ち上げ、敏腕刑事コンビ、マーカスとマイクをその任に就けた。さっそく仕事に取り掛かる2人だったが、彼らは互いに打ち明けられない悩みを抱えていた。マーカスは最近危険な現場の仕事から離れたいと思うようになっていた。一方、マイクはマーカスには内緒で彼の妹シドとつきあっていた。そして、そのシドもまた、2人に対しある秘密を抱えていた。(Yahoo!映画より)

 

「ベイ擁護運動」という名目で始めた 前作『バッドボーイズ』評の続きですが、もう擁護なんてしません。 

 

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その中指、立て返してやるわ!

 

 

①アート系難解映画としての『バッドボーイズ2バッド』

ご存じの通り、歌謡曲にはAメロ→Bメロ→サビという法則が存在する。

レミオロメンだかロミオレメンだかの「粉雪」を例に挙げると…

出だしで「粉雪舞う季節はいつもすれ違い♪」なんつってるのがAメロ。冬のバラード曲なのでしっとりとした歌い出しで孤独感を演出するというレミオメロンさんの意図が感じられますね。

そして「些細な言い合いもなくて ララライ!ララライ!」と言い始めたら、そこがBメロ「ララライ!」という奇妙な掛け声を連呼することで、マスクメロンさんは聴く者の「この後どう展開していくんだ…?」という期待感を高めているのです。

そして「粉ぁぁぁぁ雪ぃぃぃぃ、ねえ!などと騒いでる部分がサビにあたる「ねえ!」って言われても、ねえ)

「粉雪」に限らず、たいていの曲はいちばん騒いでるところがサビです

騒ぐことで感情を高め、歌メロに山場を作る…という定石を、ペロンペロンさんはしっかりと踏んでいますね。

以上、これが歌謡曲のおおまかな構成です。

 

さて、映画にも物語の序破急を明確にする「三幕構成」という理論体系があってだな。

三幕構成とは、ハリウッド式脚本術としてほとんどの商業映画で使われているシナリオのテンプレートのことである。物語全体を三つのフェイズ(設定、対立、解決)に分けてストーリーを構成していくと良いお話になりまっせ、という物語論におけるセオリーなんですね。マンガでいうところの起承転結というやつだ。

べつに三幕構成なんて無視して自由闊達に脚本を書いてもよいが、その場合、緩急に乏しいアート系映画になるかわけのわからん難解映画になるだけなので、より多くの人に観てもらって銭を儲けたいと考えるならば、否が応でも三幕構成に倣うしかないのである。


というわけで、『バッドボーイズ2バッド』はアート系難解映画に分類されます。

一応、物語の流れは存在するし、バカみたいに単純な内容なのだが、アクションシーンにかまけて本筋から脱線しまくったせいで単純な話なのに内容がまったく頭に入ってこないという電波妨害みたいなうっとうしさに、拙者グロッキー。

「そういえばこいつら、なんで戦ってるんだっけ?」って。

スクリーンの中で暴れ回っているウィル・スミスとマーティン・ローレンスも、たぶん同じことを感じているはずだよ。「そういえば俺たち、なんで戦ってんだろうな?」って。

しまいにはマイケル・ベイ自身もわけがわかんなくなって「そういえば、なんでこんな事になったんだろうな?」と思いながら、いつまで経っても終わらないアクションシーンを撮っていたはず。ベイ・バスターの車窓から

これは、ベイのライバルとして有名なマックGの『チャーリーズ・エンジェル』(00年)にも言えることだが、単純な娯楽映画のはずなのに作り手がバカすぎてアート系難解映画になってしまった典型である。

しかも147分という長丁場なので、観客は視覚的にも精神的にもたいへんな苦痛を強いられる。

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お前らみたいな刑事がいるか。

 

②自動車クラッシャーとしてのマイケル・ベイ

バッドボーイズのお二方がKKKの集会に乗り込むファーストシーン。

まともな時間感覚を持った監督なら、この導入部はアバンタイトル(オープニングに入る前のプロローグシーン)としてさらりと5分ほどの尺にまとめるだろうが、マイケル・ベイという男は主演二人のお喋りとスローモーションを詰め込めるだけ詰め込む男なので、ただの掴みのシーンにも関わらず10分以上尺を使わないと気が済まない。

電気店で二人がゲイ疑惑をかけられる…という、本筋とはいっさい無関係な幼稚なギャグも執拗に繰り返すので死ぬほどウザい。

ウザい、クドい、しょうもないの三拍子が揃った完全無欠のダメ映画。

ベイ! ウィル! ジュリー! のリズムを思い出さないわけにはいかないよね。こうなってくると。誰かサンドバッグ用意せえ。

 

いちばん問題視したいのは、そこかしこで巻き起こるカーチェイス。

特に私なんかは、「確かにカーチェイスは楽しいかもしれないけど、映像的にも作劇的にも非生産的なので、原理的にはカーチェイスは映画にとって必要ない」と考えているカーチェイス不要論者なので、劇中で一生続くチェイスシーンに辟易&虚脱(車好きの人には申し訳ないけど、またどこかでカーチェイス不要論を書けたらいいなと思ってます)

まともな金銭感覚を持った監督なら、ここ一番という見せ場にこそ派手なカークラッシュや爆発炎上を配置することでクライマックスを演出するが、マイケル・ベイという男は破壊火薬銃撃を詰め込めるだけ詰め込む男なので、全編通して延べ200台もの車をクラッシュさせないと気が済まない。見せ場もヘチマもなく、ただガッシャンガッシャン車が潰れゆくだけ。

世界中で誇りを持って仕事をしているエンジニアの皆さんが「少しでも快適な暮らしを人々に」という信条を掲げながら長年かけて精魂込めて開発・製造した自動車を200台連続で産業廃棄物にしていく…という鬼のごときクラッシュ地獄

もし私が車好き、またはエンジニアだとしたら泣いてるわ。「ここまでせんでええやろ」と。

 

しかも、そうまでして撮ったチェイスシーンはカット割りまくり、通称マイケル・ベイ現象起きまくりなので、主人公たちの車がどれで、どこにいて、どうなってるのかがまったく把握できないというパラノイアみたいな映像群が我々を混乱させます。

おそらく、急斜面に立ち並ぶバラック小屋をバリバリぶっ壊しながら車で駆け下りるという『ポリス・ストーリー/香港国際警察』(85年)をしれっとパクったチェイスシーンが本作最大の見せ場なのだろうが、これに匹敵しうるチェイスシーンがあちこちに散在しているため全編クライマックス化=逆に見せ場なしという本末転倒な平坦さを露呈している。

 

自動車200台をスクラップにしたこのチェイスシーンだけで、果たしてどれだけ金がかかったのだろう。

また、それだけの金があれば、果たしてどれだけの映画が作れただろう。どれだけの志ある映画作家を支援できただろう。遊戯王を何パック買えただろう

そんなことを考えてしまいます。

ちなみに本作の予算は、2300万ドルで撮った前作から一気に跳ね上がって1億3000万ドル

1億3000万ドルも使って位置関係も把握できない、しっちゃかめっちゃかのチェイスシーンを撮って、自動車を壊しまくってエンジニアを悲しませたというの?

寄付せえ

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 ひたすら連鎖的に車がぶっ壊れていく。まさに車版ぷよぷよ。

 

③アグリー・ベイとしてのマイケル・ベイ

これは義務や倫理の次元ではなく、もはや使命とも言えるが、アクション映画は布団圧縮袋であらねばならない

映画というにアクションを美しく圧縮するのだ。

まさかアクション映画も自分が布団圧縮袋に喩えられるとは思ってもみなかっただろうが、すぐれたアクション映画とは布団圧縮袋としての機能を備えているのである。

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合理的なアクションをコンパクトに圧縮する。それがアクション映画。

 

ところが本作のアクションは、圧縮どころか逆に伸張している。圧縮袋からダメな贅肉みたいにアクションがはみ出て、ペロンペロンに伸びきっているのだ。

これぞ醜悪。英語で言うならこれぞアグリー。『アグリー・ベティ』っていうか、アグリー・ベイなわけです。だから、それは。


本来、アクション映画におけるアクション(ここで言う「アクション」とは破壊暴力の意)とは、たとえば口で言ってもわからない悪党を実力行使で駆逐する解決策であり、そこでは平和的交渉とか警告とか和解といった方法論をすっ飛ばし、即座に問題解決を出力(アウトプット)する役割がある。

だが本作のアクションは「詰め込めるだけ詰め込む」というベイ個人の欲望を具現化しているように、もっぱら入力(インプット)に傾いている。

だから緩急なき物量作戦で長尺化し、醜く膨れあがる一方なのだ

もうこれからアグリー・ベイと呼ぶからな。いいんだな!

 

そして、この肥大するアクションの片棒を担いでいるのが脚本。アクションから逆算的に紡がれていく脚本は支離滅裂の極みだ。

本筋とは関係なく、わざと殺し合いや暴力沙汰の引き金になるような、つまりアクションの取っ掛かりを作ることに腐心した共犯的な脚本はさながら当たり屋のようで、観る者の目には主演二人が自ら喜々としてトラブルに巻き込まれに行っているようにしか映らない

 もう無理矢理すぎるってわけ。戦うことの意味が。だから「そういえばなんで戦ってんのかな?」みたいなことになるんだよ!

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人も車も建物も、壊せそうな物はとりあえず壊す。それがベイイズム。

 

ヘレン・ケラーが観るべき映画としての『バッドボーイズ2バッド』

ベイの作家性でもある頽廃したコモンセンス(良識)は、人の頭をバンバン撃ち抜く残酷描写や、道路に転がった死人を車でグチャグチャに轢く死体損壊などによく表れており、辛うじて「ベイらしいな」とアルカイック・スマイルで楽しむ余地は残されている(レビューサイトでは「無駄にグロい」と叩かれてるけど)

 

だが、本作にこびりつく生理的嫌悪感は、人の頭が潰れたり吹き飛んだり…といったグチャグチャドロドロの描写的なインモラルではなく映像処理の猥雑さに尽きるだろう。

ベイ御自慢の改造型の特殊撮影車両ベイ・バスター(ベイ・バスター!)を乗り回してムチャクチャな映像を撮り散らしているが、そうした即物性の代償として失われるものは主演二人の精神的結束である。

ベイはこの映画がバディムービーであることを忘れてないか?

前作では微笑ましかったウィル・スミス&マーティン・ローレンスのバディ感はゼロ。ただただ爆破&カーチェイス&人体バラバラが画面を覆うだけの147分だ。

「いつから『バッドボーイズ』の主演は火薬と車に代わったのだろう?」と本気で思うぐらい、主演俳優よりも視覚効果が前面に出すぎている。

 

なにも私はベイの映像的な空間処理能力を批判しているのではない(今さら批判したところで無駄)。スペクタクル映像の人海戦術によるバディ・ムービーの埋没をこそ批判しているのだ。

目先のアクションに夢中になりすぎて、黒人二人のわちゃわちゃしたバディ感という主題が掻き消されているのだから。前作でチャーミングに跳ね回っていた小津魂も忘れてしまってるし。

 

とにかくムチャクチャ酷いし、ムチャクチャつまらないし、アグリー・ベイに対してムチャクチャ言いたくなるような出来なので、ご覧の通りムチャクチャ貶しました。

これで喜ぶのは、何を観ても「おもしろい」と感じてしまうストライクゾーンガバガバピープルおよび判断能力欠落ヒューマン、またはヘレン・ケラーみたいに心が寛容な人、もしくはヘレン・ケラー本人だけだろう。

というわけでピンポイントでヘレン・ケラーさんにおすすめの作品です。

 

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~撮影現場でのバカ会議の風景~

ウィル・スミス「パトカーを思いきり横転させるんだ」

マイケル・ベイ「異議なし」

ジュリー・ブラッカイマー「異議なし」

マーティン・ローレンス「異議なし」


2003年の本作以降、ベイのアクション映画は老体化し続けている。

ベイ擁護運動という名目で始まった『バッドボーイズ』シリーズ評だが、今回は普通にこき下ろしてしまった

やんぬるかなって感じ。