市川雷蔵、烈火のごとき生命の美しさとその終焉。
1962年。三隅研次監督。市川雷蔵、藤村志保、渚まゆみ。
天才剣士・高倉信吾は、三年の武者修行のなかで「三絃の構え」という異能の剣法を会得し、故郷に帰ってくる。束の間の平和な日々。だがある日、父の信右ヱ門と妹の芳尾が隣家の池辺親子に惨殺され、死に瀕した信右ヱ門から自らの出生の秘密を聞いた時から、信吾の悲劇の命運は回り始める…。(Amazonより)
私が市川雷蔵に魅せられたのは、ほんの去年のこと。
これまでに心底惚れた日本の俳優といえば松田優作だが、雷蔵は電光石火のごときスピードで私の優作愛に追いついた。はえー。
雷蔵の映画は時代劇と現代劇に分けられるが、時代劇の中で最も好きなのが本作なので、どうか語らせてくれ。
市川雷蔵(1931-1969)
1931年、落雷とともに京都で爆誕。15歳で歌舞伎役者になり、20歳で八代目市川雷蔵を襲名。
「襲名しといてなんだけど、映画俳優に転身するわ」と言って、1954年から大映の時代劇に多数出演。昭和の大豪傑・勝新太郎と並ぶ時代劇スターとなり、大映が誇る二枚看板「勝」と「雷」をさして「カツライス」なんつって人民から呼び親しまれた。さすが人民、このセンス。
俳優として一皮むけたのは1958年、市川崑監督作『炎上』で初の現代劇に挑戦し、金閣寺を燃やした着火坊主の演技が高く評価される(三島由紀夫の原作小説『金閣寺』は私のバイブルなので、いつか『炎上』も取り上げたい)。
雷蔵を一目見ようと映画館に押し寄せたファンは、「雷(らい)さま! 雷さま!」と興奮して身体から静電気を放ったり、わざと雷に打たれようとして雷雨の夜に近所を駆け回るなどした。雷蔵には人を狂わせるほどの魅力があるのだ。
以降、市川崑の『ぼんち』(60年)や『破戒』(62年)といった現代劇でがんがん主演を張り、「時代劇だけやあらへん。現代劇もいけんねんぞ」とダメ押しで世間にアピール。市川崑と市川雷蔵の「市川コンビ」として名を馳せたが、1969年、37歳の若さで肝臓ガンのため死去。伝説となった。
そんな雷ちゃん主演の『斬る』は、三隅研次の「剣三部作」の一作目にあたる。
三隅研次といえば、市川雷蔵の『眠狂四郎』シリーズをはじめ、勝新太郎の『座頭市』シリーズや、若山富三郎の『子連れ狼』シリーズなど、生まれる時代を間違えたとしか思えないほど時代劇を愛する男で、あわよくばシリーズ化に漕ぎつけようとすることでお馴染みの時代劇の申し子である。
私の中で『子連れ狼』といえば北大路欣也版だなぁ。
で、とにかくこの映画、失禁に値するほどベリークールな時代劇である。
わずか71分で薄幸の天才剣士の半生を語りきる流麗な映像スタイルに酔い痴れる。
傲然として120分を超えながら何も残せない21世紀の日本映画の没落ぶりには心底がっかりしているが、50~60年代の黄金期にはすばらしい鉱脈が眠っている。本作もそのひとつ。
雷蔵の儚げな艶を遵奉するような鮮やかなショットと、閃光の如きカッティング。まるで映画自体が美しい剣技のようだ。
歌舞伎や小説では土台真似できない映画文法の射光が、71分のフィルムに命を与えています。
本作は少々変則的な時代劇だが、時代劇だからこそ生きることの虚しさと死ぬことの意味を混じり気なしの透徹した画面運びの中に見出すことができるのだろう。
さて、天才剣士・市川雷蔵が武者修行の果てに完成させた三絃の構えは、戦わずして敵を降参させるほど凄まじい殺気を放つ、究極の剣法。
は? なにそれ?
つまり三絃の構えとは「私の間合いに入った途端に喉を一突きしますよ。それをされたくなければ降参しなさい」というメッセージを刃先に込め、只ならぬ殺気で相手にガンを飛ばしながら「降参しろ降参しろ降参しろ」と願い続ける…という剣法なのだ。
剣法なのか、それ?
イエス、剣法なのです!
「突くよ~、喉突いちゃうよぉ~」というオーラを放って、氷のように冷たい瞳でジッと相手を見据える雷蔵と、眼前に死が置かれて脂汗に湿る敵の喉のクローズアップが、決闘シーンを只ならぬ緊張感で押し潰す。
両者一歩も動かぬ膠着状態…。
やがて相手は、ものすげえ殺気を放ってガンを飛ばしてくる雷蔵に「絶対やべえ。絶対負ける。絶対死ぬる」と本能で理解、剣をおろして「参りました…」と言って降参するのだ。
もし相手が降参せずに「ア゛ァーッ!」なんつって斬りかかってきた場合は、予定通り喉を突くだけ。いずれにせよ雷蔵の勝ちである。
つまり雷蔵に三絃の構えをされた相手は、死ぬか降参するかの二択しかない。初手降参安定の最強の剣法なのだ!
そしてこの視線劇に終始した立ち合いに『斬る』というタイトルの真の意図が輪郭を帯び始める。刀を使うまでもなく、雷蔵は眼で相手を斬っているのだ。
それが雷蔵イズムだというのか!
ベリークールじゃないか。
ともすれば、雷蔵の凶器のような美しい瞳は、家族が惨殺されたことで憂いを湛え、その復讐を完遂させたことによって虚無さえ湛え始める。
カメラが求めているのは殺陣ではなく瞳。
なるほど、これは他の時代劇スターなら誰でもよいという代物ではなく、絶対に市川雷蔵でなければ成立しない映画なのだ(むしろ雷蔵は時代劇役者なのに殺陣が苦手。大立ち回りの最中に足元がよろめいてフラフラしちゃうらしい。監督に「おい、フラフラすんな」と言われてもフラフラしちゃうらしい)。
家族を殺されて天涯孤独と相成った雷蔵は、刀を交えた凄腕の剣客・丹羽又三郎に推挙されて、お殿様・柳永二郎に仕える身となる。
雷蔵と柳永がクソ狭い茶室で親密に語らう場面ではホモソーシャルな色気が雷蔵から発散されており、脚本を超えた映画の息遣いが観る者に身震いを強いる。はっきり言って、傍目にはジジイとイケメンが茶室で茶ぁシバいてるだけなのだが、「どうかすると、どうかなるんじゃないか」と思うぐらいセクシュアルだ。
もう、ぞくぞくしちゃう!
命日焼香のため二人が水戸の城内に赴き、殿が仏間へ、雷蔵は刀を預けて控えの間に通される。
黙して殿の焼香が終わるのを別室で待つ雷蔵をロングショットにぽつねんと収めた殺風景な画面設計と全き静寂に、やおら暗雲が漂う…。
果たして城内の刺客に騙し討ちされた殿は、「やめて。来やんといて」と言っていやんいやんして焼香炉を投げつけるという女子みたいな抵抗も虚しく、あっさり討たれてしまう(殿には悪いが、ちょっと笑う)。
殿が刺客に投げつけた焼香炉(イメージ)。
さて、雷蔵が待つ控えの間にも刺客が現れるが、掛け軸の近くにあった梅の花をポキッと折った雷蔵、梅一枝を刀に見立て、三絃の構えでこれを討つ!
ゲボ吐くほど粋。
これが雷蔵イズムだというのか。ベリークールじゃないか。
刀がないから枝を刀代わりにするって。おまえはジャッキー・チェンか。
しかも梅の木というのが、また粋じゃないですか。
もしこれが日立の樹だったら、あの名曲「このー木、なんの木。気になる木ー♪」が脳内再生されて映画どころではなくなるもの。
そもそも日立の樹はデカすぎる。アレはやばすぎる。控えの間には到底入りきらんし、いかな雷蔵とて折れるかわからん。
梅の木で人を殺すという前代未聞のウメッシュ殺法。
梅一枝で刺客を突き殺した雷蔵、殿の安否を危惧して仏間へと急ぐが、城内があまりに広くて仏間がどこか判らない。
「ここか!」とばかりにピシャリと襖を開けても、だだっ広い座敷。別の襖をピシャリと開けてもまた座敷。ピシャリ、ピシャリと襖を開ける音と、足袋の擦れるササササ…という音だけが、雷蔵の徒労を嘲笑うようにむなしく響く。あまつさえ、観る者はすでに殿の絶命を知っているのだ(女子みたいにいやんいやんして焼香炉を投げつけたことも)。
永久を思わせる座敷ラビリンスに翻弄される雷蔵を、まるで神の悪戯のように冷徹な俯瞰ショットが捉えてゆく…。
ようやく殿のもとに辿り着いた雷蔵は、「死んでもうとるやないか」と絶望。その死体の脇に打ち捨てられた刀を握り、後を追って割腹自決。
エンド。
殿が死んでもうたらどないもこないもならんので「いま逝きまする!」と言って後を追う雷蔵。
アホのアメリカ人ならここで「オーマイガー!」と叫ぶだろう。
また、ハッピーかバッドの二元論しか持たないアホの観客も「バッドエンド!」と叫ぶだろう。
確かになんとも悲しい幕切れだが、救いがないわけではない。天涯孤独だった雷蔵は、ようやくその身を捧げるに値する殿と巡り会い、殿が死んだ仏間で最期を迎えられたのだ。
生きる意味を見失った天才剣士が君主とともに冥途に旅立つ…。37歳で早世した市川雷蔵の烈火のごとき生命の美しさとその終焉が、残酷なほど精緻に演出された結末である。
これが雷蔵イズムです(しっくり)。