シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

雪之丞変化

若き主人公を演じるのは正中線ど真ん中のおっさん。 ~いま咲き誇れ、長谷川一夫55歳~

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1963年。市川崑監督。長谷川一夫、山本富士子、若尾文子、市川雷蔵、勝新太郎、中村鴈治郎(2代目)。

 

冤罪で父親を殺された美貌の武士・雪之丞は復讐を決意。上方歌舞伎の女形に扮し、正義の盗賊・闇太郎の助けを借りて、父の敵・土部三斉への復讐を遂げていく。長崎から花の大江戸を舞台に繰り広げる時代劇大作。(Amazonより)

 

ヘロー、民。

ついこないだ歯科通院が終わったばかりだというのに、こんだ別の歯が欠けてしまったので再び通院。人生ではじめて歯をぶち抜き散らかして、ボッコリ開きたる穴。その穴には思い出のタイムカプセルが埋まっているかも。もう懲り懲りです。

それはそうと、ここ2週間ほどは全くといっていいほど評を書いておらず、動画配信サービスで特殊な動画を見てばかりの私だったが、いよいよもってレビューストックが尽きかけたので慌てて評を執筆している次第。

この趣味でやってるだけなのに何かに追われてる感…嫌いじゃないよ。ミスター「プロ意識の無駄遣い」。人呼んでオレがそれ。それっていうのはコレ。どれ。

そう、前書きなど事務処理。意味のあることを書く必要はない。日増しにテキトーになる。これがソレ。どれ。

そんなわけで本日は『雪之丞変化』です。これね。どれ。

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◆おっさんの重力がすごい◆

戦前・戦後にかけて映画界のトップに君臨した大俳優・長谷川一夫。当ブログでは『銭形平次捕物控 まだら蛇』(57年)を扱ったが、改めて読み返したらひどい内容だったことが発覚。「マゲずれるまでシバいたろか」とか言ってたわ。

そんな長谷川一夫の映画出演300本記念として大映が総力をあげて制作した渾身作が『雪之丞変化』。現在まで6回映画化、3回TVドラマ化されたほか、宝塚や歌舞伎でも上演される時代劇のパワーコンテンツである。

衣笠貞之助が手掛けた1度目の映画化(35年版)でも長谷川一夫が主演を務めている。これは余談だが、57年版では「雪之丞は実は女だった」というトンデモ設定で、こちらは美空ひばりが熱演。08年のTVドラマ版ではタッキーこと滝沢秀明が雪之丞を演じておられます(未見)。

 

さて、市川崑がメガホンを振り回した本作。

当時 大作路線に振れていた大映は、長谷川一夫の記念作品ということで相当な気合の入りよう。チョイ役に市川雷蔵勝新太郎のカツライスコンビ、大映看板娘の山本富士子若尾文子、火サス崖俳優のパパン船越英二、そして人間国宝・中村鴈治郎(2代目)を潤沢に使った大映オールスター陣形で1963年の正月興行に打って出た。

もっとも、同社のトップスター・京マチ子の不在だけが悔やまれるとはいえ、これほどの豪華キャストは後にも先にも本作だけ。作品としては衣笠貞之助の35年版やマキノ雅弘の59年版の方が遥かにすぐれているが、初めて『雪之丞変化』に触れた当時の私にとって、目が眩むほど華やかな本作はミーハー心をくすぐるには十分すぎるほどポップで底抜けに魅力的なオールスター映画として映ったのでありました。

ちなみに「ミーハー」の語源も長谷川一夫であるとの俗説はわりに有名。1920年代に美剣士スターとして絶大な女性人気を集めていたことから、若い女性が好む「みつまめ」の「み」と、長谷川一夫の旧芸名「林 長二郎」の「は」を合わせて「ミーハー」なる俗語が完成したという。

みつまめの「み」が強引すぎてぜんぜん納得できない。

f:id:hukadume7272:20200910065308j:plainキャワオとのロォマンス。

 

しかしである。衣笠の35年版から実に28年ぶりに同役を演じた長谷川一夫。当時の実年齢なんと55歳

物語の主人公・中村雪之丞は、若くして上方歌舞伎の女形役者となり、父を自死に至らしめた土部三斎を討つべく江戸入りした影の美剣士…という設定なんである。

おっさんじゃダメなんである。

しかもこの雪之丞。舞台をおりてもフェミニンでたおやかな仕草を忘れず、いつもか細い裏声でヒソヒソと話すんである。

なおの事おっさんじゃダメなんである。

裏声がダミ声の時点でアウツなんである。

それこそタッキーのようにユニセックスな美男子だからこそ成立するキャラクタァを、いかな女形のガチ歌舞伎役者といえど55歳でこなすのは無茶・無謀・無理筋というもの。暴虎馮河・蟷螂之斧・インポッシボゥ。ポゥ! というものである。

なぜなら本作の長谷川一夫は掛け値なしにおっさん。待ったなしのおっさん。おっさんが見てもおっさんと思うほど正中線ど真ん中のおっさん。健康保険証の氏名欄に「おっさん」と表記されても仕方ないほどおっさんだからである(なんなら四捨五入すればジジイのゾーン)。

もはや『雪之丞変化』という美しき題が『おっさん変化』なる無味乾燥の改題を余儀なくされた63年版!

大俳優・長谷川一夫のプニプニとした二重アゴが大胆に揺れる。

f:id:hukadume7272:20200910064559j:plainこれ以上のおっさんはあるか、というほどおっさんの重力がすごい。

 

◆トライアングル・サスペンスの芽吹き◆

映画は、長谷川演じる雪之丞の歌舞伎に始まる。

その様子を客席から閲するのは仇の中村鴈治郎とその箱入娘キャワオ。別席には子分を連れたさすらいの女賊・山本富士子が退屈そうな眼差しを舞台に向けている。

すると視点がサッと反転し、舞台上の雪之丞が「あやつが父を狂い死にさせた鴈治郎…」「その横が一人娘のキャワオ。まずはあの娘に近づくとしましょう」とモノローグを吐露しながら客席の仇を見留めていく。早速おもしろい。

映画と演劇を隔てる“第四の壁”を編集点に両者の視線を交差させたオープニング・シーンの圧巻!

親を殺された男とその仇が“歌舞伎の演者⇔観客”という形で相対する運命の開幕構図。やはり映画を“観る”ならファーストシーンなのだ。挨拶がわりの映画術、その切れ味の如何によって監督の程度が窺い知れるというもの。裏を返せば、ファーストシーンに何もないようなら残りの110分は不毛である。

f:id:hukadume7272:20200910063123j:plain客席の鴈治郎&キャワオと、舞台上の雪之丞。第四の壁を編集点に視点がサッと反転する。

 

それが済むと子分を連れて中途退席した女賊・富士子の登場だ。

「あんなでろでろした芝居、おら、でえっ嫌いだ。男だか女だかわからない雪之丞なんて野郎、気味が悪ィや!」

大映きっての傾国美女たる山本富士子が江戸っ子口調で色っぽい女賊を演じているのだが、その様がいかにも粋。まさに江戸の峰不二子といった具合であります。

そしてこの富士子! 舞台上の雪之丞に見留められないどころか、彼女の方から芝居に飽きて中途退席するあたりを見るにつけ、どうやら直接関係は持たないサブキャラクタァであるらしい。おそらく本筋にも絡んでこないだろう。雪之丞とその他のキャラクタァの関係性が“第四の壁”の突破の有無によって示されるあたりが実に巧妙。

f:id:hukadume7272:20200910062157j:plain女賊の富士子さま。

 

さて公演を終えた夜。帰路に就く雪之丞が、剣の同門・船越英二の闇討ちに遭っているところを侠盗の闇太郎なるキャラクタァに救われるのだが、これを演じているのが長谷川一夫。

つまり長谷川は雪之丞と闇太郎の一人二役というわけだ。

というのも最初の35年版以降、『雪之丞変化』の主演俳優は雪之丞と闇太郎を一人で演じ分ける…という風習が根付いたのである(作品によっては三役演じることも)。

現代人である我々の感覚からいえば、“一人二役”の意味には「もう一人の自分を演じるため」だとか「別人格や似た人物を演じるため」といった確たる説話的必然性があるけれども、翻って長谷川一夫が35年版で一人二役を演じた理由には単純に出番を増やすためというズッコケ必至の秘密があった!

ご存じのピープルも多かろうが、20~50年代の映画業界は「スター・システム」という製作方式が採られており、映画興収は花形俳優が司り、また観客も憧れのスターに会いたくて劇場に赴くといったAKBグループの如き卑俗なカラクリで興行を成り立たせていた。チャップリン映画などその最たるもの。どの作品でも主演は「チャップリン」だよねェ。

が為に、スター俳優はどの映画でも似たり寄ったり(または完全同一)の役柄を演じることで興行的安定を図り「皆さんお馴染みの~」なる口上を実現化。これをタイプキャストと呼ぶ。

この方式はメディアの垣根を越えて手塚マンガなどにも受け継がれ、爾来『ドラゴンボール』の中にアラレちゃん(『Dr.スランプ』)が登場したり、『名探偵コナン』の中に怪盗キッド(『まじっく快斗』)が登場したり、はたまたキムタクは何をやってもキムタクだったり、そして現代の『アベンジャーズ』に通ずるクロスオーバーなる概念へと発展し現在に至るのであるるるるるるるるるるるるるるるる。

畢竟、スター・システムとはスターの商品価値をビタ一文たりとも取りこぼさず、すべて顧客満足=収益に繋げんとする為のイメェジ戦略。

どうでもいい役者が闇太郎を演じるよりも、いっそ長谷川一夫が一人二役をやれば、それだけ長谷川の出番が増え、ファンが泣いて喜び、リピィターが増えるといふもの。

映画は「芸術の結晶」や「夢への逃避装置」である前に「ビジネス」なのであります。

f:id:hukadume7272:20200910063901j:plain長谷川一夫による雪之丞と闇太郎の一人二役。

 

時にこの闇太郎。江戸では盗んだ金品を貧乏人にばらまく侠盗として大変な人気を博しており、これにライバル心を燃やしているのが一に富士子、二に昼太郎たるキャラクタァであり、その昼太郎を演じているのが我らが雷(らい)さま、市川雷蔵なんである!

本作の雷さまは非常に可愛らしい役どころで、何をやっても闇太郎の後塵を拝し、そのカリスマ性の前に霞んでしまう不運のナンバー2。貧乏人の玄関先に小判をおけば闇太郎の恩恵だと勘違いされ「ちぇ」と唇を尖らせて拗ね倒す。

その“萌え”。

こういう“萌え”を大事に拾っていきたいと常々わたしは考えています。ふかづめであります。

f:id:hukadume7272:20200910062117j:plain天下の雷さまがチョイ役という豪勢きわまりない使い方。

 

さて。話変わってキャワオと雪之丞のロォマンスにも言及せねばなりますまい。

それはそうと、なぜ私は「ロマンス」のことを「ロォマンス」と表記してしまうのか。不思議に思っている読者もいるかもしらんが、かかる原因は私にも分からぬので、これ以上の追及は勘弁されたい。

って、そんな話はどうでもいいんだよ。話の腰を折るな!

復讐に燃える雪之丞は、仇の鴈治郎に近づくために箱入娘のキャワオを懐柔せんと画策するわけだが、えらいもんで歌舞伎座での芝居を見たキャワオはもとより雪之丞にホの字。こりゃ好都合とばかりに彼女の愛をスィーンと受け入れた雪之丞だったが、なにぶんキャワオは飛び上がるほどにキャワイイ。アッという間にMajiになった雪之丞は、敵討ちのために利用せんとしたキャワオとしっぽり純愛なんぞ結んで「キャワイすぎるお!」と世界の中心でジャーゴンを叫ぶ始末。

ジャーゴン…わけのわからぬ御託。

f:id:hukadume7272:20200910062134j:plainこの絶妙なソフトフォーカスがまた風流。キャワオであります。

 

その後、物語は雪之丞、キャワオ、鴈治郎のトライアングル・サスペンスを軸に、富士子、雷さま、船越らが絡んで混沌を極めちゃう。物語終盤では島抜け法師という謎めいた役柄で勝新太郎が降臨しもする。

それはそうと、何度観ても終盤の展開がよくわからんのだが…急にキャワオが死んでしまうのだ

悪の豪商を正当防衛で殺害してしまったキャワオは、なぜか人身売買組織に捕まり、雪之丞が駆けつけた頃にはひどくクッタリしていて「つらい」とか言って頓死するのである。何を頓死することがあるのか。死に至った過程とその原因がゴッソリ抜け落ちた説話的不審死。首を傾げるわぁー。

そして終局。キャワオの死を悲しみながらも、その訃報を鴈治郎に突きつけて絶望の淵に突き落とした雪之丞、「おのれ雪之丞、これを飲んで死ね!」と毒茶のイッキを要求されるも、昔の恨みを思い出させることで鴈治郎こそが毒茶を一気飲みすべき人物だと目で訴える。もはやこれまでと自ら毒茶を服した鴈治郎は「にがい」と感想して毒死した。おわり。

これのどこがトライアングル・サスペンスなのか。

f:id:hukadume7272:20200910064355j:plain自死を要求する雪之丞の眼差しに思わず毒茶を一気飲みする鴈治郎(苦いらしい)。ダッチアングルと目だけ抜いた陰影の霊的ショット。

 

◆「映画らしさ」よりも「映画らしくなさ」を画面化する◆

なかなか痛快な作品であった。

本作は大予算を投じた長谷川一夫の記念作品なので、当然会社としては油ギッシュな作家性は極力出してほしくなかっただろうに、撮影・小林節雄、脚本・和田夏十とあらば否が応でも崑テンポラリーは炸裂する。

以前『日本橋』(56年)でも言及したが、市川崑という作家は“現世”と“冥界”のボーダーラインを瞬時に越境する術を持っていて、それまで賑やかだった場面がフッと暗転してあたり一帯に静寂が広がる…といった幻想文学のごとき怪奇演出を劇中の端々に放り込む怪人。これを指して「市川幻想術」と私なんかは呼んでいるけれども、やはり『雪之丞変化』でもその腕は健在。

雪之丞が帰路の途中で船越英二の闇討ちに遭う場面。これはスタジオ撮影だが、道や木々や石垣のセットはなく、ただ真っ暗な中で一切がおこなわれるのだ。ラース・フォン・トリアーの『ドッグヴィル』(03年)のように。

f:id:hukadume7272:20200910062226j:plain現世から冥界への越境。

 

物語上の“夜道”を、撮影の上では“暗黒空間”という抽象表現で造形化したスタジオ撮影の不可逆性。これは映画と演劇における不可逆性の証明でもあり、ひいてはファーストシーンの“第四の壁遊び”同様、映画を演劇化することで逆説的に映画を存在せしめる市川の崑コンテンポラリズムの発露といったところである。

「映画らしさ」よりも「映画らしくなさ」を画面化することによって、それが映画以外の何物でもない…とする映像レトリックは市川崑が最も得意とする詭弁だ。たとえば音楽ひとつ取っても、劇中で掛かるのは時代劇「らしくない」モダンジャズである。これも詭弁。

では長谷川一夫が雪之丞「らしくない」おっさんであることも詭弁か?

いいや、これは只の加齢。

 

晴れて仇を討った雪之丞が再び歌舞伎座の舞台に立ち、その客席に闇太郎、昼太郎、富士子らが集うラストシーンもまた面白く、みごとに開幕との円環構造を成している。

ここで富士子に「たったいま気がついたんですけどサ。闇太郎さんの横顔…チョイと雪之丞に似てますね」とメタ発言をさせるあたりに和田夏十の悪戯心がぴっぴと跳ねる。

闇太郎の旅に付いていくと言って聞かない富士子の傍では、江戸ナンバー2の昼太郎が「しめたっ。お二人さんが江戸から居なくなりゃあ、いよいよオレ様の天下だ!」と独り言を呟いてウシシと笑う愛らしさ。その“萌え”。

そして幕が上がる―…。

 


本作のMVPは山本富士子さんに贈られます。左手で片目を塞いで鉄砲を狙う姿が格好よすぎた。

それはそうと、現代人の目に山本富士子はどう映っているのだろう。私なんかはド美人と思っているのだが、周囲の知人幾名に訊ねたところ、いまいちその感覚が分からないというのだ。

とかく美意識というものは移ろい易き時代のタチ。およそ現代ニッポンでは「かわいい」と称される幼児的な風貌が男女ともに人気らしく、アヒル口、上目遣い、涙袋、そうしたデザインが馬鹿のように人気を博しており、なんだか人間が愛玩動物化しているようで薄気味悪くもあるのだが、それとて現代の美的価値観における一つのテーゼ。何はともあれ、私はスクリーンを通して美だけを見つめていきたいと思ひ染む。

 

MVPに選ばれた山本富士子さんには、何かこう…開封する楽しみが開封したあとの楽しみに勝るようなものを贈っておきます。

チョコエッグとか、そういうものです。

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