大映狸合戦ぽこぽん。
1961年。田中徳三監督。市川雷蔵、勝新太郎、若尾文子。
タヌキの国の大王選挙で、江戸の文福党と阿波の徳島党が激突。党主の代理で江戸に行くことになった雷吉狸と新助狸の珍道中が繰り広げられる。 (キネマ旬報社データベースより)
雨降ってやがんなー。おはよう!
能天気に人を励ますような歌詞が大嫌いです。というか、二人称ばかり使って誰かに愛を捧げたり背中を押したりしてるミュージシャンって信用なんないわ。
人に対してどーこー言う前にオマエはどうなんだよっていうか、そもそもオマエは何者なんだよ、なんでオレは知らないヤツから励まされてんだよ、テメー出身地どこだよ、オマエはオマエを生きてるのかよ、思想聞かせろよ、どんな持論持ってんだよ、生活基盤固めろよ、どんな洗剤使ってるのかよ、オマエの人間性が見えてこない以上ココロ開くつもりねーぞこっちは!!
…なんてことを思うわけ!
歌詞を通してそいつ自身のことが見えてこないようなお行儀のいい優等生的ミュージックに耳を傾けるほどスポイルされちゃいねえし、オレの耳は暇じゃねえし…。すてきな音楽だけ聴いていたいし…っていうさ。
誰か、わかる?
ハイ。おまえたちの共感を呼ぶことにも失敗したところで、本日は『花くらべ狸道中』です。ボケが。
◆タヌキを演じるカツライスとあやぽん◆
「カツライス」のユニット名で親しまれた大映の二枚看板・市川雷蔵と勝新太郎の共演作。そこに花を添えたるは当時人気絶頂の若尾文子。
にも関わらず『花くらべ狸道中』はアクの強いカルト映画として一部好事家のエサと化した珍奇和製オペレッタである。
筋は明瞭。
タヌキの国の大王選挙で、江戸の首領タヌキ・ポンポコ凡太(見明凡太朗)が放った刺客の刃に重症を負った阿波の首領タヌキ・ポコポン香一(葛木香一)に代わって、阿波きってのふざけタヌキ、ポン雷蔵と勝新ポコが人間になりすまして江戸に向かう。
ポン雷蔵と両想いのあやぽん(若尾文子)も彼らの身を案じて後を追うが、京都三条の宿屋では勝新ポコが江戸からの刺客・セクシーポコ(中田康子)のハニートラップに掛かってえらい目に遭っていた。二人は無事江戸に辿り着き、ポンポコ凡太の覇権掌握を阻止することができるのか? そしてポン雷蔵とあやぽんの恋の行方は? 勝新ポコとセクシーポコの只ならぬ関係は!?
ポンだのポコだのうるせえな。
まさに大映スターそろい踏みのタヌキミュージカル。
『大映狸合戦ぽこぽん』!
タヌキに扮した市川雷蔵(左)と勝新太郎(右)。かわいい。
ほか共演者は、ミス・ユニバースの近藤美恵子、ザ・ドリフターズ初期メンバーの井上ひろし、熟女ヌードの先駆け・五月みどり、コマーシャルソングの女王・楠トシエなど多彩なキャストが集結。スリー・キャッツのカメオ出演も見逃せない!
まあ、多彩というか単に節操がないだけとも言えるのだが。
監督は勝新太郎の『悪名』『兵隊やくざ』シリーズや、市川雷蔵の『眠狂四郎』『忍びの者』シリーズを手掛けてきた田中徳三。「徳三」はとくさんではなくとくぞうと読むが、あえて私はとくさんと読む所存だ。文句あるならこい。
そんな田中徳三と脚本家の八尋不二が本作のあとに手掛けたのが『濡れ髪牡丹』(61年)である。こちらも市川雷蔵の主演作で、時代考証を無視したメタ・ギャグ・パロディの錯乱的迷作だったが、本作でも相変わらずの狼藉ぶり。
江戸時代の話なのにビキニやドレスでラテンダンスは踊るわ「ベリグー」は言うわ、とムチャポコのポコなのである。
ポン雷蔵に想いを寄せるあやぽん(かわいい)。
◆真正やらかしガチ天然イカれミュージカル◆
開幕から景気のいいミュージカルが始まる。タヌキたちが月の下でポンポコ踊りを披露するというのだ。
ポンポコぽんぽん、ぽんぽんぽん。
踊るアホーに見るアホー。
同じアホなら踊らにゃ損損!
踊らにゃ損損、孫正義ってな具合なのかっ!
主な筋立てはポン雷蔵と勝新ポコのロードムービーだが、内容はといえば無に等しい。行く先々で「ぽん」とか「もひとつ、ぽこり」とか訳のわからぬ掛声を発してはくりくり踊ってるだけなのだから。
まことケッタイな作品といえるし、もし誰かに「そんな映画を観てて楽しいか」と訊かれたら「楽しくはない」と即答するだろう。
そのあと「なぜおまえは楽しくない映画を観る。よほどすぐれているのか」と訊かれたら「別にすぐれてもいない」と即答するつもりでいる。
「じゃあなんで。どういうモチベーションがアレしておまえはそれ観てんの」と訊かれたら「いちど観始めた映画は最後まで観るという鑑賞倫理に則って観てるだけだよ。ていうか質問多いな。映画観てるときにいっぱい話しかけてくんな」と即答するだろう。
そのあと「ほいでオマエ誰やねん」と付け足しもするだろう。
舞い乱れるポン雷蔵とあやぽん(画像上)、踊り散らかす勝新ポコとセクシーポコ(画像下)。
それにしてもこの映画。一見すごく華やかな内容だが、やはりカルトの匂いはごまかせない。私の鼻はだませない。
MGMミュージカルを丸パクリしたような群舞やセットは北京の石景山遊楽園(ディズニーランドもどき)を思わせるいかがわしさに満ちており、その出来栄えも妙にヘボい、というより薄気味悪く、以前レビューした『おかあさんといっしょ』にも通じるパラノイアみたいな書き割りが性懲りもなく各シーンで使われ、それでも笑顔で芝居に興じる市川雷蔵と勝新太郎のプロ意識を静かに蝕んでゆく。
まるで悪夢を見てるようだ。
また、フィルムの逆回しや中抜きなど、さまざまなトリック撮影と戯れる身振りは稚気に溢れていて大変結構だが「それメリエスが50年前にやってたけどね」と思うとあまりに進歩がない。だって同じころ、同撮影所の宮川一夫は2分の1の金閣寺のミニチュアを燃やし、火の粉のかわりに金粉を撒くことで息を呑むほど美しい逆光モノクロームを撮ってたんだもの(市川崑の『炎上』)。
それに比べると児戯に等しい。
Z・I・G・I。児戯。
何より、そんな空間に身を置いた市川雷蔵、勝新太郎、若尾文子ら、当時の日本映画の稼ぎ頭たちが存外ノリノリで乳臭いオママゴトに付き合った…という事実に対するあまりに巨大な違和感。なんだこれ…。何を見せられているんだ。俺は誰から攻撃されているんだ。
こうなってくるともうほとんどシュルレアリスムの域である。したがって本来、この作品は“映画という形”で観るべきではないと思います。
そう、夜! 人が眠りについたあとに夢の中で見るべき映像群なのだ!
もはや『花くらべ狸道中』は映画ではない。
夢。
Y・U・M・E。夢。
セクシーポコに誘惑される勝新ポコ。カルト丸出しのセット。
たぶん皆さんは知らないだろうけど、実はわたしは特定の人や作品がイカれてるかイカれてないを瞬時に見分ける眼識を持つイカレ鑑定士である。
わけても、イカれたフリをしただけの「なんちゃってイカレ」とか、天才と思われたいがために無暗やたらに型を破っては常識に背を向けんと突っ張る「なんちゃってアート」なんかは直ぐに看破して蛇蝎の如く嫌う…という生理を持っているんだけれども、そんな私が保証します。
この映画は本格的にイカれていると。
変なことをしようとして変な映画になったのではなく、「モダンなミュージカルでオシャレ決め込もうや」と息巻いて撮影した結果、たまたま変な映画になったのである。
恐らくラッシュを見たあとにキャスト陣の間でこのような会話があったものと推測します。
勝新太郎「やっとんなーこれ」
市川雷蔵「本当に公開するんですかね…」
若尾文子「監督、どうしてこんなことに?」
田中徳三「おかしくなっちゃった」
「徳三」はとくぞうではなくとくさんと読む。
まあ、でも、あれよ…。こういう映画好きよ。
真正やらかしガチ天然イカれミュージカルとでも呟いてみようか。否、呟くまい! すでに悪評吹き荒ぶレビュー界隈の辛辣さは知っているので、せめて一人くらい、静かにこの映画を愛でる人間がいてもよかろうと思うのだ。
ラストのグランド・フィナーレも華々しいぞ。
ポンポコぽんぽん、ポンポコぽん!
ポンポコぽんぽん、ポンポコぽん!
(タヌキの言葉はポンポン!)
「アイラブユ~ アイラブユ~♪」
「好き好き好き 好き好き好き♪」
踊れや踊れ 踊れや踊れ
ポンポンポン ポンポンポン
「離れちゃイヤン!」
「ダイジョブだよ!」
リズムで恋をする~
しばいたろかクソ。
真正やらかしガチ天然イカれミュージカル。