およそ高尚とは程遠い、庶民による祝祭。
1974年。フェデリコ・フェリーニ監督。プペラ・マッジョ、マガリ・ノエル、アルマンド・ブランチャ。
北イタリアの小さな港町リミニ。町一番の美女は銀幕のスターに憧れる余り、いつの間にか三十路を越えてしまった。この魅力的なグラディスカを少年チッタは追いかけ回すが、坊や扱いをされるだけ。少年の父は反ファシズムを唱えて拷問を受け、色情狂の伯父は精神病院送りになるなど、ろくでもないことばかりだったが…。様々な挿話が妙なる調和を醸すフェリーニの少年時代の甘美な回想集。(映画.com より)
特派員ハペボンちゃんにフェデリコ・フェリーニ評のリクエストを頂いていたので、ようやく4K修復版がリリースされた『フェリーニのアマルコルド』を取り上げます。
今度、よほど元気があるときにフェリーニ総特集もしますね。
いやぁ、でもフェリーニを語るのは難しいっすわ…。このブログではお堅い批評を封印してヤングな文章を心掛けてますから、フェリーニのようなガチの正統派をヤング丸出しのノリで語るのは難しいわぁ。フェリーニを語るときだけ文体変えようかな。いや、やっぱりヤングモードでいきます。
あ、あとハペちゃんからは鈴木清順とベルイマンの総評もリクエスト頂いてるんですよね。
清順とベルイマンて。
「すごい球投げてくるな」と。どれだけ私を追いつめる気なんだ、ピッチャーとしてのハペちゃん!
でもまぁ、どうにか打ち返そうと思います。いつになるかは分からないけれど。。。
ハペちゃん以外にレビューリクエストをしてくれた方のことも、もちろん忘れてませんよ。私は読者を大事にする善良なブロガーなので!
誰から何のリクエストを受けたかを逐一メモってるので、時間はかかれど出来うる限りお応えしていこうと思っています。
ほな、そろそろ『フェリーニのアマルコルド』な。
春一番が吹いた日の夜、街の広場に集まった人々は堆く積み上げたガラクタの山の上で「冬の女神」の人形に火をつけ、「春がきた、春がきた!」と喜んで暴れ狂う。子供たちは爆竹を放ち、大人たちは祭り気分に乗じて女たちの尻を注視する。
ガラクタの山の頂で人形を燃やした火付け係の老人に、地上の仲間たちはいけずをしてなかなか梯子を掛けてやらない。
「梯子をくれ! 燃えてしまう!」
「だはははははは!」
バカばっかりである。
本作はある一家を主軸としているが、ぶつ切れのエピソードが124分ぶっ続けで数珠繋ぎにされているので、本筋らしきものもなければ物語の一貫性もここには存在しない。『甘い生活』(60年)と同じく、狂騒に満ちた人々の刹那的日常のコラージュだけがフィルムの上を滑走するだけだ。
人々の営為を描いた映画は、どんなに派手なアクションやスペースオペラよりもスペクタクルだと思う。
ある穏やかな日の昼食の席で父親が息子を怒鳴りつけて家中を追い回し、ついにヒステリーを起こした母親が「もううんざりよ! スープに毒を入れてやる! 絶対入れてやるんだから!」と叫び、あれよあれよという間に一家団欒の場が壊滅していくシーケンスの活力たるや。ただただ圧倒される。
まさに文字通り、人々が狂って騒ぐだけの「狂騒」がとてつもない圧力で真空パックされているのだ。もうあまりにナンセンスで笑ってしまう。
世間一般ではフェリーニの作品は高尚とされ、よほどのシネフィル(映画マニアをも超えた映画きちがい)しか語ってはならないという厳かな空気があり、そのせいで日本ではフェリーニやベルイマンといったヨーロッパの映画がいまいち人口に膾炙しない。
私は思うのだけど、日本人の映画リテラシーが世界で最も低い理由は「芸術コンプレックス」にあるのでしょう。
ピカソの抽象画を見れば「こんなムチャクチャでいいなら俺にだって書ける」と豪語し、森鴎外を読む人あらば「そもそも文学って何さ。かしこだけが読む小難しい小説なんでしょ?」と自虐的になり、フェリーニやベルイマンが好きだと言う人には「芸術系の映画に理解があるなんてご立派ですね」と遠回しに皮肉めいた賛辞を贈る、みたいな。
高尚なものに対してとにかくシニカルなのだ。
だがフェリーニの映画は底抜けに低俗で庶民的だ。品性下劣とさえ言っていい。
登場人物はみんな下町の貧乏人ばかり。子供たちはくだらない悪戯に興じ、飲んだくれの大人たちは歌をうたって夜な夜な騒ぐ。いかにも醜悪な巨体の娼婦は隙あらば乳を放り出し、人なつこい道化師はウケてもいないギャグを永久機関のように繰り返す。
まさに酒池肉林。
『8 1/2』(63年)のラストシーンで放たれた「人生は祭りだ。共に生きよう」という名台詞は、奇しくも本作における「人生はパンと仕事…と言うが、パンとワインだろ!」という素敵な台詞によって継受されている。
また、ごく一部の作品を除いて、基本的にフェリーニの作品では雨が降らない。
映画において雨とは「失意」や「喪失」を表すために用いられるが、ことフェリーニの狂騒世界において失意や喪失が入り込む余地などあるはずもない。雨が降る必要がないのだ。
代わりにファーストシーンとラストシーンでは綿毛が舞う。
春の訪れを告げるために大量の綿毛を舞わせるというアイデア自体も凄絶だが、驚くべきは大量の綿毛に埋め尽くされた画面の美しさを、人は『フェリーニのアマルコルド』を観るまで知らなかった…ということだ。後にも先にもこれほどの綿毛を舞わせた映画は本作ぐらいだろう。
そして中盤では大雪が降る。しんしんと降るような文学的またはロマンチックな雪ではなく、コントのような勢いでバカみたいに降るのだ。もちろん子供たちは雪合戦を始める。町一番の美女の尻めがけて雪玉をぶつけ、地獄の餓鬼みたいに卑しい笑い声をあげるのだ。
ヒィヒィヒィ~。
一事が万事この調子。
ここには『道』(54年)の教訓めいたメロドラマも、『甘い生活』のキリスト教批判も、『フェリーニのローマ』(72年)における頽廃的なローマ社会への愛憎もない。
およそ高尚とは程遠い、庶民による祝祭が描き上げられているだけなのだ。
ビバ、庶民!