シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

幸せなひとりぼっち

スウェーデン発、涙の恫喝ムービー。

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2015年。ハンネス・ホルム監督。ロルフ・ラスゴード、イーダ・エングボル、バハー・パール。

 

愛する妻に先立たれ、悲しみに暮れる孤独な毎日を送っていた老人オーベ。そんなある日、隣の家にパルバネ一家が引っ越してくる。車のバック駐車や病院への送迎、娘たちの子守など、何かと問題を持ち込んでくるパルバネたちにうんざりするオーベだったが、次第に彼らに心を開くようになり、やがて妻との思い出を語りはじめる。(映画.comより)

 

おはようございます。

今朝一番どうでもいいなと思ったニュースは「ヴァル・キルマーが衝撃告白。“アンジェリーナ・ジョリーとキスしたかった”」

どうでもええわ。

この衝撃告白に衝撃を受ける奴なんているのか。「ヴァルってアンジーとキスしたかったん!?」なんて仰天する奴いるか? 全米ざわつくか?

しかもヴァルがキスしたいと思ってた時期はアンジーがビリー・ボブ・ソーントンと離婚した2004年である。

16年前の願望。

ヴァルは16年前『アレキサンダー』(04年)で共演したときにアンジーに惚れて「キスしたい」と思っちゃったのだ。

曰く「アンジェリーナにキスしたくてしょうがなかったよ。彼女にガルフストリームのジェット機を買い、虹を背景にV+Jって空に描きたかったぐらいだ」と過去の感情を振り返っている。

知らんがな。

百歩譲ってアンジーとの交際報道が出た暁に「実は昔から好きでキスしたかった」と告白したなら「へえ、実ってよかったじゃん」と祝福のひとつも出来ただろうが、べつにキスも交際もしてないからね。ただ願望を呟いただけ。夢見てるだけ。田舎の中坊が仲間に漏らす「本田翼と付き合いてー」と同じ地平だよ。それが「衝撃告白」として記事になる。暇なんか?

片や、フランスの大物俳優ジェラール・ドパルデューは「ライオンを射殺して食べた」と衝撃告白。

ライオンを射殺して食べたん!?

 

アッと仰天したところで、本日は『幸せなひとりぼっち』です。

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◆“無国籍”スウェーデン映画◆

スウェーデン映画と聞いてまず最初に思い浮かべるのはイングマール・ベルイマン。次いで撮影監督のスヴェン・ニクヴィスト。俳優ならグレタ・ガルボだ。俗にいう「北欧映画」という言葉がそれとなく含み持つ厳かなまでの美的矜持を感じはしまいか。するね?

ノルウェー映画より厚い歴史を持ち、デンマーク映画より幽妙な気配を漲らせ、フィンランド映画より人口に膾炙した北欧映画の総本山、スウェーデン。

残念ながらベルイマン亡き後はぺんぺん草も生えず北欧映画神話はぐしゃぐしゃに崩れ去ったが、そんな中でも細々と撮られた個々の作品を観るにつけ、未だスウェーデン映画は生き続けているようだ。相変わらず「スウェーデン映画的」としか言いようのない神秘のヴェールに庇護された独特の空気感を保持しながらも、しかしスウェーデンという国のイメージをあえて打ち破ったところに活路を見出しているご様子である。

ほとんど血と雪の色彩戦略のみでショットを成立させてしまった『ぼくのエリ 200歳の少女』(08年)、メルヘンな風土をゴスとメタルとインダストリアルで逆張りした『ミレニアム ドラゴン・タトゥーの女』(09年)、限りなく白い画面に黒いユーモアを塗した『フレンチアルプスで起きたこと』(14年)など、元来スウェーデン映画の優位性であった清廉で思索的なイメージ=神秘のヴェールを逆手に取った映画群が台頭し始めている。

まぁ、スウェーデン国内には未だにベルイマン・シンドローム的な純スウェーデン映画が大量に作られてるのかもしれんが、少なくとも海外で人気を得るのはスウェーデン性を半分捨てたスウェーデン映画なのだ。これについてはアメリカでウケる日本のカルチャーを想像してもらえればいい。早い話がコテコテの演歌よりもワンオクやベビメタが売れる、みたいなことだ。

 

さて、2015年12月25日に本国で公開されると瞬く間に口コミで評判が広まり5ヶ月を超えるロングランとなった『幸せなひとりぼっち』はスウェーデン人口の5人に1人が観た爆裂大ヒットとなり、公開から約1年半後にはアメリカにまで評判が伝わってトム・ハンクス主演でハリウッドリメイクされることが発表された。

気になる中身は、妻に先立たれ職も失ったことで見るものすべてに八つ当たりしてきた人格破綻ジジイが隣家に越してきた4人家族と交流するうちにニッコリジジイになっていくさまをほっこり描いたハートウォーミング近所付き合いヒューマンドラマである。

一見するとそこまでヒットする理由がよく分からないというか、割とありがちな人情劇に思えるが、話の語り口…というより泣かせの手口が結構ヤラしいのだ。泣きのツボの最大公約数を親指でグリグリ押してくるのでお国柄や人種関係なしに誰が見ても感動できる作りになっていて、早い話が力任せに涙をむしり取っていくスタイル…通称涙の恫喝を良しとした剛腕映画なのである。

この映画の問題は、その剛腕ゆえにもはやスウェーデン映画とは呼べないという映画の無国籍化現象にあって、いわば「日本映画だ」と言えば言えてしまうし「アメリカ映画だ」と言えばアメリカ映画になってしまうような“どこの国の映画でもない最大公約数のメロドラマ”が116分続くわけである。

そして「どこの国の映画でもない本作」が多くの国から絶賛されたという限りなく吉報に聞こえる凶報。うーむ。

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心の敷地に人を招こう◆

小さな集合住宅がギュッと並んだスウェーデン郊外で、かつて自治会長を務めていたロルフ・ラスゴードが車の侵入やペットのうんこに逐一キレながら町内を見張っていると、向かいの家にイラン人女性のバハー・パールとその家族が越してくる。だがロルフは無関心。なぜなら半年前に癌で先立たれた妻のあとを追って首吊り自殺するつもりでいたからだ。

だが、首を吊る直前にバハーからインターホンを鳴らされたり、やっと吊ったと思ってもロープが千切れるなどして結局失敗してしまう。そのたびにバハーに向かって「何事だ、うるさいぞ!」とキレたり、ホームセンターの従業員に向かっ「首も吊れないロープを売るな!」とキレたロルフは偏屈な59歳のロンリーウルフ。

その後も車中で排ガス自殺を試みたりショットガンで自分の頭を吹き飛ばそうとするなど日々意欲的に自殺チャレンジを繰り返すものの、いつも良い所で邪魔が入るので一向に死ねない。

そんなロルフに対し「ご近所のよしみ」を決まり文句に厚かましく物を借りたり車の運転を習おうとするバハーと交流を重ねるうち、次第にロルフの偏屈ハーツがちょっぴり氷解して、やがてバハーの幼い娘たちを世話するような何だかんだ優しいジジイになっていくのであった。

映画後半では多発性硬化症で動くことも喋ることもできない旧友を無理やり介護施設に入れることで政府から補助金をゲットしようとしている邪悪な福祉職員との熱きバトルが描かれる。バトルだぜ!

f:id:hukadume7272:20200410100005j:plain近所の主婦バハーに運転を教えるロルフ。

 

まずもって、ロルフのキャラクターが何から何まで私好みだった。キャラクターを好きになれるとどんな映画でも楽しく観れちゃうから不思議であるよなぁ。

猛り狂わんばかりの倫理観を持ったロルフは、全部で6世帯ぐらいしか住んでない小さな集合住宅の秩序を守る鬼の番人だ。住宅を囲むフェンスが開きっ放しになっていれば「チチィッ」と舌打ちしながら閉じ、放置自転車を見つければ「どらああああ」と即押収、たばこをポイ捨てした奴は「死なすぅー」と言いながらどこまでも追いかけ、他人の敷地内に脱糞させた犬の散歩者には「次やったら犬を潰すぞ!」と脅しつける(犬は潰すべきではない)。そして最後に吐き捨てるのだ。

「バカが」

ルール違反に対する激昂ぶりが尋常ではないので近隣住民からは管理人気取りのクレイジー義憤野郎と思われているし、この映画を観た一部の観客も「主人公が性格悪すぎて不快…」と嫌悪感を露わにしていたが、わたしは彼のおこないを全面的に支持する。実際、自分もロルフとまったく同じことを…………いや、この話はよそう。

たしかに偏屈で尖った男だが、それだけに妻の墓の前でだけ素直になるシーンが印象深いし、何より少しずつ角が取れていくさまが好い。家に寄りつく野良猫を「潰すぞ」と脅して追い払おうとしていたロルフだが、毎日敷地内に入ってくる猫に諦め以上・親しみ未満の感情を持ち、やがて脅し文句はポーズだけのものとなる。

ある時なんかは「たまには優しくするのもいいか…」と考えたロルフが猫にエサを与えに行こうとしたが、すでにその場から居なくなっていたので「チチィーッ!」とばかりに舌打ちした。

過日、怪我した猫が庭でグッタリしていたが、ロルフの家に入れて手当てをさせたのはバハーだった。ロルフは「やめろ、野良を家に入れるな!」と言ったが「うるさい、ドア開けなさい! 毛布持ってきて!」と彼女にドヤされたことで、結果的にその猫を家で飼うはめになったのだ。

この話のポイントは、ロルフは猫に好意を持っていたわけでもなければ積極的に命を救ったわけでもなく、あくまでバハーに言われたから渋々助けたという受動的な態度である。

この映画は偏屈な人間がちょっとしたことで優しい人間に変わるような綺麗事に満ちたヒューマンドラマではない。偏屈なロルフは自分の偏屈さと付き合いながら他者との接し方を学んでゆく。そしてクライマックスでは偏屈さを武器にして福祉職員と戦うのである。ロルフが最後まで偏屈であり続けただけ、本作は他のヒューマンドラマよりも偉いと思う。

大体なぁ、ちょっと人の優しさに触れただけの人格破綻者が別人みたいに心を入れ替えてハッピーエンドを迎えるようなヒューマンドラマなど美談でも何でもない。 ゴミじゃ!!

そんなものは心の成長ではなく人格矯正だ。魂のロボトミー手術だ。大体なんだ「優しさに触れる」って。ユーミンか! そんなもんはTVシリーズと劇場版でコロッと人格が変わるジャイアンのごとき分裂症ザッツオールじゃ。ロルフ見習え!

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ロルフの敷地内に居つくむくむくの猫。

 

本作が「優しさ」などという観念的なモチーフをむやみやたらに蔓延させた醜い映画群と一線を画しているのは、ロルフの他者に対する接し方が変わっていくことに理由があるからだ。

押収した自転車の持ち主に修理の仕方を教えて自転車を返してやったのは、その少年が亡き妻の教え子だと知ったからである。しかもその少年は同級生の女の子に絶賛片想い中で、ロルフは妻との馴れ初めをその青年に重ね合わせたからこそ「心の敷地」に青年を招き入れたわけである!

また、ロルフの自殺は「心の敷地」に招いた人間によって妨害される…というプロットもなかなかよく出来ている。

ロルフが部屋全体をビニール張りしてパンツ一丁でショットガン自殺に挑んだ夜、引き金を引く瞬間に自転車少年がインターホンを鳴らしたことで狙いを外し天井をドガーン!と撃ってしまい、忌々しそうに「今度は何の用だ!?」と怒鳴りながら外に出てくる。

ショットガン持ったままパンツ一丁で。

f:id:hukadume7272:20200422010016j:plain少年は少しチビった。

 

◆時間軸あんま弄んな◆

言い忘れたが、この映画は現在パートと回想パートが行ったり来たりしながら話が進んでいきます。

回想パートでは父に愛された幼少期~妻と出会った青年期、そして夫婦を襲ったある悲劇を通して、なぜロルフが偏屈なロンリーウルフになったのか…という割にどうでもいい謎が明かされていく。

今から語ることは「良し悪し」ではなく「好き嫌い」の話になるのだが…

現在パートと過去パートが行ったり来たりする系の作劇きらい!

皆はどう。特に気にならないですか。

私はどうも好かんのよな。一度目の自殺チャレンジでロルフがおもむろに自分語りを初めて幼少期パートが始まったときなんて「げぇ、このシステムかぁ~…」なんつってメランコリーになったもん。

過去と現在のパートが切り替わるたびに役者も舞台も状況も変わるので画面がうるさいというか、目が散らかってしょうがないのである。『市民ケーン』(41年)のように2つのパートが有機的に絡み合って「うわっ、なるほどな」と思わず感心しちゃうような見事なテリングならまだしもよォ――ッ!

近年こういう並行モノがヤケに多い気がする。当ブログで扱った中だけでも『ウーナ 13歳の欲動』(16年)然り『ローズの秘密の頁』(16年)然り『君の膵臓をたべたい』(17年)然りよォォ――――ッ!

本作と同じシステムの『ローズの秘密の頁』は、主演がヴァネッサ・レッドグレイヴとルーニー・マーラの二人一役で、現在パートではヴァネッサが、回想パートではルーニーがヒロインを演じるのだが、結局どっちも出番半減してるので役者にとっても観客にとってもあまり美味しくないシステムなんである。高齢化したヴァネッサの負担をケアするための福祉政策か何かかコノヤロー!

藤原竜也と有村架純が街をチョコマカする『僕だけがいない街』(16年)も上映時間の半分ぐらいが回想パートで、どうでもいい子役が幼少期を演じてるので藤原と有村がほとんど画面に映らないというとんだ主演詐欺だった。だったら『藤原と有村がいない街』にタイトル改めろっつーの、コンコンチキ!

そんなわけで、こちらとしてはロルフとご近所さんのほっこり人情劇が見たいのに、映画はクソどうでもいいロルフの生い立ちをイチから丁寧に懇々チキチキと語り続けるのでした。

なお、青年期までの昔話はロルフが観客に語りかけていたのに、妻と出会ってからの話はバハーに向けて語るという途中で聞き手変わってもうとる現象が巻き起こってもいたわ。

f:id:hukadume7272:20200410095659j:plainより正確には、現在パートと過去パートが“二人一役で”行ったり来たりする系が嫌いなんだ。

 

とはいえ映画終盤では回想パートで語られた悲劇があってこその感動が敷き詰められているので「フリ」としては十分機能しているのだが、いよいよ涙の恫喝に出たクライマックスからラストにかけては大仰なメロドラマがやや白々しくもある。感傷的な劇伴、エモを極めたスローモーション、遺された手紙…。

あれ、これ日本映画なのかな? みたいな。

奇しくも先日『今日も嫌がらせ弁当』(19年)評で述べたような「日本映画が大好きな病気、手紙、見送りの豪華フルコース」をここぞとばかりに突き付けてくる和の流儀に前後不覚。本稿のはじめに「もはやスウェーデン映画とは呼べない」と言った真意の半分はこうした理由に依る。残りの半分は別にスウェーデン映画でなくともよい映像の非抒情的な肌触りなのだが、これはいくぶん感覚的な話になってくるので割愛する。

 

もっとも、自動車のバックや車椅子の人物といったモチーフは随所できもちよく活用されてるし、ラストシーンではロルフのルーティンを受け継いだ某キャラクターが開きっ放しになっていたフェンスを閉じる…といった反復法に心を打たれもするので涙の恫喝などせずとも十分感動的な映画には違いないんだよ(それだけに恫喝などしないで欲しかった)。

ちなみにラストシーンでようやく積もった雪は北欧映画のそれではなくアメリカ映画でよく見る雪だった。

大事なことなので最後にもう一度アナウンスするけれども、ひとまずコレはコレとして楽しんだのでアメリカ版のリメイクを楽しみに待ちたい。

この映画の問題は、その剛腕ゆえにもはやスウェーデン映画とは呼べないという映画の無国籍化現象にあって、いわば「日本映画だ」と言えば言えてしまうし「アメリカ映画だ」と言えばアメリカ映画になってしまうような“どこの国の映画でもない最大公約数のメロドラマ”が116分続くわけであるるるるるる。

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