87歳、ホドロフスキーが咲き誇る超絶爆裂映画。
2016年。アレハンドロ・ホドロフスキー監督。アダン・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、ブロンティス・ホドロフスキー。
アレハンドロは故郷トコピージャを離れ、家族と共にチリの首都サンティアゴに移り住む。まだ若い彼は自分に自信が持てず、息子を支配しようとする両親との関係に苦悩しながら進むべき道を模索していた。ある日、アレハンドロは従兄リカルドの案内で芸術家姉妹の家を訪問し、さまざまな芸術家たちと接する。 (Yahoo!映画より)
やぁ、みんな。
じつは私は炊飯マスターとしての顔も持っていて、お米を炊くことに関しては一日の長があるのだけど…
まぁいいや、この話はよそう。くだらねえ。
今回俎上に載せたる映画は、たぶん多くの人にとってはほとんど関係がなく、また興味もないであろう映画だろうけど、私にとってはこの世で一番好きな監督の最新作なので、死に物狂いで理性を保ちながらどうにかこうにか書き上げました!
そんなこって『エンドレス・ポエトリー』です。参る。
◆狂ってるのは俺か? お前らか?◆
4年前の話になる。京都シネマで『リアリティのダンス』(14年)を観終えた帰り、「いま死ねたら最高だろうな」と思って赤信号の道路を渡ってやろうかと考えた(轢いた人に申し訳ないのでやめた)。
もしも「寿命分け与えマシン」というのが存在したら、私はアレハンドロ・ホドロフスキーに20年分の寿命を贈呈するだろう(ほかの監督にも分け与えたいので20年が限界なのです)。
彼の映画にどれほど人生を狂わされ、五感を犯され、感性を乗っ取られたことか。
分かりやすく言えばこういう世界観の人。
私の映画人生に火を灯したのは『エル・トポ』(69年)だった。この映画にはじめて私は肯定された気がする。
私が『エル・トポ』に出会ったのは、美術高校で絵を描きまくっていた時期だ。そのあと美大に進学したので合計すると7年間に渡って芸術を学んだことになるのだが、毎日イライラを募らせた怒りの7年間だった。
あの頃の私は割にギラギラしていたので「ある教師はイイと言い、べつの教師はダメと言う。われわれ生徒の作品を採点するならその基準を明確にしろ」とか「そもそも芸術ってNANI?」と美術教師に突っかかって、職員室で小一時間口論したこともあれば、何者かになろうとして何かをはじめて挫折したこともあった。
いろんな人やいろんな物事にもイライラして、しまいには宇宙に対して腹を立てた。
このわけのわからない世界で狂ってるのは俺か? お前らか?という疑問にケリをつけたかったのだ。
これ以上絵を続けるとゴッホみたいに耳を切り落とすみたいなファンシーな結末に行き着くのは目に見えていたので、絵筆を折るかわりに字を書く方の筆を持った。情熱から理性、つまり「芸術する側」から「芸術を批評する側」へと回ることで、芸術に対する私の復讐劇が始まったのです。
そんな芸術への愛憎相半ばする思いを、ホドロフスキーは、赦し、認め、包み込んでくれた。だから『リアリティのダンス』の鑑賞後に「いま死ねたら最高だろうな」と思ったわけだ。
現在のホドロフスキー(右)が幼少期の自分(左)を回顧した自伝映画『リアリティのダンス』。
◆超絶爆裂映画!◆
そして本作は『リアリティのダンス』の正統続編。
すべての表現者、および何者かになりたい人は必見の作です。
どちらもホドロフスキーの自伝映画で、『リアリティのダンス』では幼いホドロフスキーを支配する鬼のような父を描き、本作では父の支配から解き放たれたホドロフスキーの青年期が描かれる。
「昔よりも落ち着いた作品」と言ったレビュアーもいるが、そんなことはない。
ホドロフスキーが故郷のチリでアート集団と交流を重ねながら詩人やパントマイマーとして自己表現した青春が綴られているが、彼が出会ったアート集団というのが強烈な個性派揃いなのである。
「超絶ピアニスト」として紹介された男は「あ゛あ゛あ゛あ゛ー」と慟哭しながらムチャクチャに演奏したあと、ハンマーでピアノを叩き潰す。これぞ超絶。
「爆裂画家」なる男は、全身に絵の具を浴びて「あ゛あ゛あ゛あ゛ー」と絶叫ながら巨大なカンバスにタックルして絵を描く。まさに爆裂。
ホドロフスキーがバーで出会った詩人の女は、周囲の客に「おまえらは無だ!」と叫んで2リットルのビールを一気飲み。ホドロフスキーがゲイバーでカマを掘られそうになると「復讐のヴァギナにひれ伏すがいいっ」と叫んで男たちをぼこぼこ殴るような女傑。
店に入るや否や「お前らは無だ!」と叫ぶ赤毛の詩人、パメラ・フローレス。かっこいい。
ホドロフスキーは、のちにラテンアメリカ文学ブームの旗手となるエンリケ・リン(演:レアンドロ・ターブ)と親友になり、何があろうと直進し続ける散歩に繰り出す。
目の前に民家があると「われわれは直進しかしないと決めたのです」と家主に事情を説明し、家の中に入れてもらって窓から出ていき、立入禁止の看板があると「詩人は何物にも縛られない。立入禁止を逆に禁ず!」と叫んで立入禁止区域に突っ込んでいく。
何があろうと直進し続ける散歩に繰り出すホドロフスキー(右)とレアンドロ・ターブ(左)。
そしてホドロフスキーの映画に必ず出てくるのが小人症の人々(マイノリティの象徴)。
とりわけ本作は小人描写が強烈で、盗みを働いた小人が殴る蹴るの暴行を受けたあとに道の真ん中で全裸にされて通行人に嘲笑されたり、助けてくれたお礼として小人の女性とホドロフスキーがセックスしたりなど、被差別者に対する狂おしいほどの愛が横溢している。
ホドロフスキーが偏執的に描き続ける「畸形」、そこには二人羽織というモチーフが底流している。たとえ両腕がなくても、後ろの友が腕のかわりになってくれるというイメージは『サンタ・サングレ/聖なる血』(89年)に顕著だが、本作でも両腕を失った男が「愛する妻を愛撫したい」と言えば、有志の人々がその男に代わって妻の身体を撫でまわすのだ。
おそらく、普通の世界で生きている普通の人間の感覚からすれば、この映画のいっさいはキチガイ沙汰に思えるだろうが、そういう人たちは「あちら側のまっとうな人間」なので、ホドロフスキーの愛と表現の世界を無理に理解する必要はないと思う。
なにせ、『リアリティのダンス』では母親がペストで死にかけている父親の顔に跨って尿を浴びせて全快させるのだから。この程度でドン引きするような観客にホドロフスキーは理解できまいて!
放尿によって奇跡を起こしたホドロフスキーの母パメラ・フローレス(右)。オペラ調で日常会話をおこなうという常時ミュージカルモードの女(「お前らは無だ!」と叫んだ詩人役も一人二役で演じている)。
そして画像右はホドロフスキー映画に欠かせない小人。
◆捏造された自伝映画◆
ホドロフスキーがおもしろいのは、自身の映画に息子たちを起用するという謎の血統主義だ。
『エル・トポ』ではホドロフスキー自身が主人公を演じ、その息子役に長男のブロンティス・ホドロフスキーを使っている。
そして本作でホドロフスキーの青年期を演じているのは四男であるアダン・ホドロフスキーで、ホドロフスキーの父親を演じているのが長男のブロンティス。
実際の息子たちに自分自身や自分の父を演じさせるという逆・親子共演。
そしてホドロフスキー自身も本人役として登場する。アダンが演じているのは青年期のホドロフスキーで、ホドロフスキー自身が演じているのは現在のホドロフスキーだ。
現在のホドロフスキーが急に画面に現れて、過去のホドロフスキー(演:アダン)に対して「違う。実際はそうじゃない」といって演技指導を始めるというメタ炸裂のシーンまであるのだ。
こうして言葉にするとひどくややこしく感じるだろうが、実際に映画を観ると「一族総出でホドロフスキーの自伝映画を作っている」というシンプルなイメージにおさまります。
ホドロフスキーの父親を演じた長男ブロンティス(左)、ホドロフスキーの青年期を演じた四男アダン(右)。この二人を主演に自伝映画を作って「違う。実際はそうじゃない」といって劇中で演技指導を始めるホドロフスキー(中央)。
そして「自伝」というのがまた訳ありで、正確を期すならば『リアリティのダンス』と『エンドレス・ポエトリー』は捏造された自伝映画と呼ぶべきだ。
「主観によって過去は変えられる」と述べるホドロフスキーは、この二作の自伝映画にすばらしい嘘を混ぜ込んでいる。
だいたい「超絶ピアニスト」や「爆裂画家」なんて本当に存在したのだろうか? 普通の映画ならまず信じられないが、何しろホドロフスキーなので作り話だったことの方が却って嘘臭いのだ。
そもそもホドロフスキーは、『リアリティのダンス』における「CGで組成されたカモメ」や、船出を見送る人々が立て看板で表現されていたように、「これは映画(嘘)に過ぎない」ということを自らぶちまけるような人なのだ。
ホドロフスキー演じる錬金術師が「これは映画だ。カメラよ、引け!」と掛け声を発するとカメラがズームアウトしてスタッフや撮影機材が画面内に入り込む『ホーリー・マウンテン』(73年)の身も蓋もないラストシーンのように。
全キャラが勢揃いするシーンは黒子が持つ看板で代用するというデタラメぶり(『リアリティのダンス』より)。
かように「実体験の狂騒」と「絵空事の饗宴」が透き通ったポエトリーに乗せて紡がれる128分。
ホドロフスキーは芸術家であると同時にいかがわしい俗物でもあるので、こちらが退屈しないよう徹底的にポップに作られている。
もちろん前作を観てなくても何の問題もないし、ホドロフスキーを一度も観たことがない人すら歓待してくれる(むしろ彼が映画監督になる前の青春期を描いた作品なのでホドロフスキー入門としては持ってこいの一作だろう)。
ホドロフスキーともなれば、もはや全裸でインタビューに答える。
長年、禅の修行、煩悩滅却、タロットカード研究などにうつつを抜かしていたが、23年ぶりに『リアリティのダンス』(13年)で監督業復帰!
◆意味はなくとも生きろ!◆
『リアリティのダンス』のラストシーンには、霧に染まった海の彼方に幼少期のホドロフスキーと現在のホドロフスキーを乗せた一葉の小舟が揺れていた。
本作のラストもまた桟橋からの船出に終わるが、そこに現在のホドロフスキーはいない。パリへと向かう青年期のホドロフスキーがいきなりホームシックに罹ったような物憂げな顔でこちらを見つめているだけだ。
新たな世界の門出にも関わらず、ホドロフスキーは船の進行方向ではなく、それを桟橋から見送るカメラの方を見つめ続ける。ホドロフスキーが見ているのは「未来」ではなく「過去」だ。
彼の映画に影響を与えたフェリーニもまた「過去」を描き続けた映画作家だった。
ホドロフスキーの母親や赤髪詩人(パメラ・フローレス)の体型は、その巨大な胸や尻の円環モチーフに幼児願望を仮託させたフェリーニ映画の女そのものだし、サーカス(『8 1/2』)、快楽と頽廃(『フェリーニのローマ』)、ペンキのような原色(『魂のジュリエッタ』)、畸形の人々(『サテリコン』)など、ホドロフスキーの作品にはフェリーニへの無償の愛がいたるところに散りばめられている。
そして『リアリティのダンス』の横暴な男(父親)がさまざまな犠牲や蹉跌を経て自らの過ちを悔いるという骨子は、ラストシーンが海辺という点からも『道』(54年)に符号する。
サーカス、頽廃、エログロ、畸形!
まぁでも、そんな話はどうでもよろしい。
絶望した青年期のホドロフスキーが、現在のホドロフスキーに人生の意味を問うたシーンで、ニヒリストの私は「そんなもんあるわけねえだろ」と思った。
その直後、現在のホドロフスキーが「人生に意味はない」と言ったので我が意を得たりと思ったが、続けて彼はこうも言った。
「意味はないが、生きろ! 生きろ! 生きろ!」
松岡修造かと思った。
生きようと思った。
ホドロフスキーは、たしか『リアリティのダンス』のインタビューで「次はアクション映画を撮る」みたいなことを言っていたのに、その言葉を反故にして飄々とこんな続編を作るあたり。実にすばらしい。
私はホドロフスキーを観るたびに、些細な事で羞恥心を覚えたり、しょうもないことで遠慮する自分がアホらしくなってくるのだ。オーライ、要するにこういうことだ。
こんなにやりたい放題やってるジジイがいるのだから、もっと無遠慮に生きてもいいんじゃないか?
『エンドレス・ポエトリー』は、87歳のホドロフスキーが咲き誇る超絶爆裂映画だった。
身体の震えがとまらねえよ。