シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

数に溺れて

私の2019年を台無しにした作品。

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1988年。ピーター・グリーナウェイ監督。ジュリエット・スティーヴンソン、ジョエリー・リチャードソン、ジョーン・プロウライト。

 

「シシー・コルビッツ」という同姓同名の3人の女。祖母、娘、孫娘という関係であり、固い絆で結ばれた彼女たちにはそれぞれ夫がいるが、それほど愛を感じていなかった。というよりもむしろ夫を既に必要としていない彼女たちは、ゲームのように夫たちを次々と溺死させてゆく…。

 

おはよう、ありがとう、ご苦労さん。どうか気をつけて。

ここ1週間ほど、左目の筋肉が日に何度もピクピク痙攣します。何かの病気でしょうか。リップクリームを塗れば治るでしょうか。

たぶん傍から見たら半ギレの奴みたいに映っているので、申し訳ない気持ちでいっぱいです。

まぁ、半ギレなのは事実なんですけどね。私は365日、常に何かしらのことで腹を立てています。映画を観ている間も「なぜこの役者はシワだらけの服を着ているんだ。撮影前にアイロンぐらい掛けるだろ普通」なんつって衣装係のずさんな仕事に腹を立て、好きな音楽を聴いているときも「とっととサビ来い」とAメロに腹を立てる始末。

さくらんぼうに対しても「なんでニコイチなっとんねん」と腹を立てる私は錯乱坊。

 左目の痙攣もやむなし!

心穏やかに日々を過ごしたいものであるよなぁ。

そして本日は『数に溺れて』。またしてもぷりぷり怒っています。

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◆謎のカウントアップ◆

寡聞にしてピーター・グリーナウェイ『コックと泥棒、その妻と愛人』(89年)しか観ていないのであまり知ったようなことは言えないのだが、この映画は1月1日に観て新年早々バッドな気持ちになったのでコテンパンにぶちのめすつもりでいる。


夜。ひとりの少女が家の前で数を数えながら縄跳びをしている。ちょうど100を数え終えたときに少年が現れて「何を数えているの?」と訊ねると、少女は天を仰ぎながら「夜空の星を100まで数えているのよ」と答える。「どうして100までなの?」と少年がしつこく訪ねると、少女は「100から先は全部一緒だもの」と言った。なかなか良いことを言う。

場面転換。ヘベレケになった中年の男女がげらげら笑いながら帰路につき、互いに服を脱がせ合ってブリギで作られた二つのバスタブに浸かった。それぞれのバスタブには「1」「2」と書かれている。

やがて男の妻と思しき熟女ジョーン・プロウライトが現れ、バスタブに浸かってうたた寝をしている夫の頭を手で沈めて溺死させる。その近くには巨大な蛾が一匹止まっていて、胴体に「3」という数字が書かれていた…。

彼女には娘のジュリエット・スティーブンソンと孫娘のジョエリー・リチャードソンがいて全員が既婚者なのだが、祖母のジョーンを皮切りに次々と自分の夫を溺死させていく。

画面の端々には「4」とか「5」といった数字が隠されており、映画が進むにしたがって数字がカウントアップされ、ついにラストシーンで100を迎える…という作りになっている。少女が数えた星のように。

まさに『数に溺れて』

 

舞台はイギリスの片田舎だと思うのだが、そこには悪戯好きのガキとか少し発情した検死官といったユニークな連中が暮らしていて、彼らはいつも何かしらのゲームに興じている。庭や海辺でできる簡単なアウトドアゲームだ。

この「夫殺し」と「謎のカウントアップ」と「ゲーム」がひたすら続く…という不思議な映画である。

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フェリーニの真似っこといった感じ。


◆怒りのカウントダウン◆

意味はよくわからんが「ちょっとシュールで遊び心に満ちた映画」として観ることならできる。

鑑賞中に思い浮かんだ人物はジャン=ピエール・ジュネウェス・アンダーソン。ちょうど『ミックマック』(09年)ザ・ロイヤル・テネンバウムズ(01年)と似たような血が流れた作品なのだ。

そしてこれらの共通点はボイスオーバーが多いこと

劇中のキャラクター、もしくは実体のないナレーターの声で(特に知らなくてもいいような)登場人物のバックグラウンドを詳細に語る…という設定資料集的な演出なのだが、個人的には饒舌な映画をあまり快く思わないので、この時点で私の脳内で怒りのカウントダウンが始まるわけだ。99、98、97…。


私はジュネもウェスも好きだが、どうしてグリーナウェイだけ嫌うのかといえば、蛾とか性器をモロ出しするといったエログロな作風が「趣味」の域を超えていないからである。

たとえばジュネのねっとりした頽廃的な色彩とか、ウェス・アンダーソン犬や猫をよく殺すといった性癖は、およそそうしたエログロとは程遠いポップな画面を作り込んでいるからこそ「全体的にはとても可愛らしい映画だけど細部に目を向けると意外とグロいよね」というアンバランスな世界観が立ち上がるわけで。

悪趣味でお馴染みのポール・バーホーベンにしても、ただやみくもにエロ・グロ・バイオレンスを画面に塗りたくるのではなく、人間のサガに対する風刺が理知的に織り込まれている。ゆえにバーホーベンがエロ・グロ・バイオレンスを要請しているのではなく、エロ・グロ・バイオレンスの方がバーホーベンに宿るのだ。ワンダフルである。ビューティホーである。「これぞ強固な作家性」と言いながら祝福するほかはあるまい。

 

ところがグリーナウェイ『数に溺れて』は、極彩色の下品な画面のなかで中年男女の弛みきった裸体とかドロドロの性交の過程が露悪的に描出されてゆくだけ。不快な映像言語を使って不快なことをする…という短絡的な身振り。これを「趣味」と言わずして何と言う。早見優

初期のペドロ・アルモドバルを思わせるただ汚い映画でしかない。怒りのカウントダウンが30を切ったぞ!

また、ゲームをすることと夫を溺死させることには何の相関関係もなく、数を数える行為にもこれといった意味はない。ただグリーナウェイが「面白そう」と思ったアイデアを寄せ集めた趣味のスケッチでしかなく、我々はそんなものに2時間まるっと付き合わされることになる。

一言でいえばド厚かましい。

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ゴダールの真似っこといった感じ。


◆今年はもうダメ◆

最も耐えがたいのは全編に渡る長回しであります。

いや、長回しというよりカットの割り方を知らないためにひたすら遅延されたショットと呼ぶべきだろう。

ひとつのショットのなかで見せるべきものや言うべきことはとうに終えているのに、なぜかその後も10秒…20秒…と持続するショット。その間怠っこさたるやナマケモノ級。

 

~私の心の声~

「え、長っ。いつまで回し続けるの? すでにこのショットの役目は終えているというのに。一体いつになったらカット入るの? え、長っ。もしかして画面止まってる? ウチのDVDプレイヤーが壊れてるだけ? あ、でもいま木が風に揺れたから壊れてないっぽい。元々こういう映像なんだね。え、ていうか長っ。かれこれ1分ぐらいこんな文句を脳内で唱え続けてるんだけど。新年なのに。え、マジで長くない? なにこれ修行?」

 

地獄の2019年の始まりだぁ!!


そして私が最もイライラしたことは落としどころを見失ったラストシーンである。

映画にはここで終わらねばならないという瞬間が何度か訪れる。すぐれた監督というのはその瞬間をパッと捉えてチャッと終わらせることができるが、グリーナウェイはすぐれた監督ではないので「ここで終わるとよい」という瞬間を見逃してしまう。一度ならず二度、三度と…。

数に溺れてるのはこいつ自身だよ!

少年が打ち上げ花火をあげた瞬間や、孫娘が夫を溺死させてプールサイドにあがった瞬間など、素晴らしい落としどころは沢山あるというのに、グリーナウェイはことごとく見逃して映画を続けてしまう。明らかな映画の遅延行為である。

そして「ここで終わればまだ取り返しがつくぞ」というタイミングをすべて逸した挙げ句、そこまでして引っぱりに引っぱった最後のショットが夜の湖畔に浮かんだボートなのだが…黒で潰れとるゥ。

ぜんぜん見えーん。

せんど引っぱった挙句がこれかーい…というので元旦からぐったり、布団にバッタリ、口から魂がボッコリこぼれた私なのでありました。怒りのカウントダウンはとうに0を迎えております。

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この色使い。やっぱりフェリーニの真似っこといった感じ。


うれしい追記

唯一の収穫は、彫刻のような美しさで映画の倦怠感を多少なりとも軽減してくれた若き日のジョエリー・リチャードソン

ここぞとばかりに脱ぎまくっているが、グリーナウェイは脱がせたあとの撮り方を知らないのでぜんぜん官能的でない。最高の被写体を使った最低なヌードシーンだ。

俳優を脱がせる以上は撮る側も一肌脱いでもらわないと困るのです。

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