2016年。タロン・レクストン監督。クセニア・ソロ、マリア・ベロ、メアリー・リン・ライスカブ。
男の子とキスをしたこともなく、働いたことも友人をもったこともない20歳のルーシーは、唯一の理解者である母のクレアに守られ、世間を知らずに育ってきた。ある時、母が末期ガンに侵されていることを知り、自立を決意したルーシーだったが、なかなかうまくはいかない。そんな折、きらびやかで怪しげな劇場でフェリーニの映画を見たルーシーは、すっかりその世界に心を奪われ、いてもたってもいられずフェリーニを探してイタリアへと旅立つ。(映画.comより)
おはぼん。爆裂。
本日取り上げるのは昨日の『グッバイ・ゴダール!』と似たような作品で、いわば映画監督についての映画です。その名も『フェリーニに恋して』。フェデリコ・フェリーニですね。皆さん、フェリーニに恋してますか?
フェリーニといえば映画好きの人間がステージⅢでハマりだす監督です。
ちなみにステージⅠでハマるのはキューブリックやタランティーノ。
ステージⅡではイーストウッド、スコセッシ、リンチ、デパルマあたり。
ステージⅢになるとうわ言のようにフェリーニとかベルイマンとか言い始めます。
ステージⅣは完全に末期で、ルビッチとかアンゲロプロスにハマってみたり、侯孝賢のような中国語圏に手を出してみたり、「一周回ってヒッチコック」とか言い出すわけです。
このことから分かるように、映画好きというのは立派な病名なんですよ。本来は趣味の欄ではなくカルテに書かれるべき言葉なのです。
ほな、フェリーニに恋していこか!
◆フェリーニだけに『崖』から突き落とされたような気分◆
観るまえはウサギのように心が飛び跳ねていた。とっても楽しみだった。
本作はフェデリコ・フェリーニへの愛に貫かれたオマージュ映画という、ある種の人間の心をピンポイントでくすぐるような作品なので、「sさんとハペちゃんにだけ分かってもらえればいい」というつもりで一歩踏み込んだフェリーニ論を展開しようと意気込んで鑑賞したのだが…
フェリーニの話をする暇もないほど映画としての瑕疵を論わねばならないという想定外の事態が発生。
したがって、sさんやハペちゃんのようなフェデリストにとってはまったく読み応えのない文章をぷんぷん怒りながら綴っていくことになる。フェリーニ論なんて書いてる場合やあらへん。やめじゃやめじゃ!
過保護な母のもとで純粋培養されたクセニア・ソロは、20年間ほとんど家から出ずに『素晴らしき哉、人生!』(46年)とか『ロミオとジュリエット』(68年)のようなアメリカ映画ばかり観て育ったオレみたいな女の子。
ある日、ふらっと入った映画館でフェリーニの『道』(54年)を観た彼女は、これまで慣れ親しんだハッピーエンドとは違う、生々しく不可解に作られたフェリーニの世界観に魅了され、フェリーニに会うために単身イタリアに旅立つ…。
概説がめんどくさいので公式サイトから引用すると、「フェリーニファンにはたまらない、 16作品以上の名シーンへのオマージュ! 無垢な少女が『道』、『甘い生活』、『8 1/2』など名作の登場人物たちと出会いながら、ローマ、ヴェネチア、ヴェローナといったイタリアの美しい都市を巡る旅をする」映画となっている。
たぶんこれだけ聞くと、sさんのハートは爆裂ビートで鼓動し、ハペちゃんはウレションしたのちに「ハイテンショーン」と言い残して卒倒するだろう(彼の口癖です)。
実際、私もそうだった。ウキウキしすぎて心拍数上昇→失禁→卒倒→ハイテンショーンのコースを辿ったのだ。
だがしかぁぁぁぁし。
この作品はわれわれ3人のようなフェデリストが『8 1/2』(63年)のラストシーンのように手をつないでランランランと躍りながら祝福するようなものではなかった。まぁ、sさんとハペちゃんがどう思うのかはわからないけどね。少なくとも私はそうだった。
まさに『崖』(55年)から突き落とされたような気分を味わったので、次の章ではその理由について懇々と述べる。
◆怒リコ・ディスリーニ①◆
まずもって、「たまたまフェリーニにハマった女の子がイタリア旅行をする」という大筋以上のものがないこと。
たとえばゴダールオマージュに満ちた『グッバイ・ゴダール!』(17年)のように、ゴダールの人となりを詳らかにしたり演出を模倣するといった一歩突っ込んだ表現があればオマージュ映画としての値打ちもつくというもの。まぁ、『グッバイ・ゴダール!』に関してはゴダールの妻目線から描いていることに疑問を呈したものの、『中国女』(67年)から『東風』(70年)までの撮影秘話や私生活をスクープするという付加価値はあったのでね。
対して本作は なーんにもねえの。
ただフェリーニ作品に出てくるザンパノとかトレヴィの泉がポンポンと登場するだけで、この映画独自のフェリーニへの眼差し(視点・論考・解釈)をいっさい加えておらず、ただ「乱痴気騒ぎ」とか「退廃的なローマ」といったフェリーニっぽい映像が「こういうことすればファンは喜ぶんでしょ?」という志の低さで羅列されるだけ…。
フェデリストなめんなよ!
監督をアリアリ言いながら殴りたい。そしてすかさず「アリーヴェ・デルチ」と言いたい。
だから、べつにフェリーニである必要がないのだ。
結局のところ、本作の売りはフェリーニ・オマージュではなくイタリアロケなんでしょ? だったらイタリアの映画作家であればロッセリーニでもヴィスコンティでも成立するんじゃないの? と。
ちなみにレビュー界隈では「うーん、いまいち。先にフェリーニの作品を観ていたらもっと楽しめたかも…」と反省して魂をしょぼしょぼさせているレビュアーが結構いたが「そんなことないよ」つって肩を叩いて慰めてあげたい。
守ってあげたい。
You don't have to worry, worry,
だってこの映画、フェリーニを観ていようがいまいが関係ねえもん。
むしろ、なまじフェリーニを観ているだけに怒りが収まらねえよ!
◆怒リコ・ディスリーニ②◆
構成がむちゃむちゃ下手くそということが言えると思います。
ヒロインのソロちゃんは俗世間から隔絶させた家で映画ばかり観て20歳を迎えたので、恋愛経験も職業経験もなく、一人では何もできない女の子。
良くいえば純粋、悪くいえば世間知らず。
これは彼女がフェリーニに惚れるきっかけとなった『道』におけるジュリエッタ・マシーナの役をモチーフにしているわけだ。
そんなソロちゃんが母親のマリア・ベロが末期癌であることを知って、自立せねばという思いからフェリーニに会うためにイタリアへと旅立つわけだが(自立=憧れの人に会いに行くという思考回路がよく分からないけど)、なぜか映画はベロ母ちゃんの妹であるメアリー・リン・ライスカブのナレーションによってベロ母ちゃんの出自から語られていく。
え、これってソロちゃんがイタリア旅行する映画でしょ?
ベロ母ちゃんの出自とかどうでもよくない?
そんなわけで、ソロちゃんがイタリアに旅立つまでが まぁ~~~~長い。「この娘、いつになったらイタリアに行くんだろう?」と思うぐらい、待てど暮らせど旅立たねえの。その間 40分ぐらいですかね。
さっさとイタリア行けよ!
パスタだったら伸びきっとるぞ!
ベロ母ちゃんと一緒に映画を観てるソロちゃん。はよイタリア行け。
そしてようやくイタリア旅行が始まると、例によって浅っさいフェリーニ・オマージュが白々しく繰り返されるのだが、オマージュシーンのあとに実際のフィルムをいちいち流すという答え合わせの無意味さにグラッツェ。
たとえば、ソロちゃんが迷い込んだナイトクラブで半裸の女たちが騒いでいるシーンのあとに、それと似たような『サテリコン』(68年)のワンショットが引用される…という具合に「似てるっしょ? 似てるっしょ?」という作り手の再現自慢&答え合わせに付き合わされることになる。
一言いいですか。
野暮っ。
通常、オマージュシーンというのは目配せと同義である。わかる人にだけ察知できる合図。また、わからない人もわからないなりに「あ、今のは何かのパロディなのかな?」と感じるようなさり気ない引用であって、その都度元ネタを披瀝するなど下品の極み。
そもそも答え(元ネタ)を示したところで、観客が元ネタを知らなければ結局意味がないのだし。意味のわからない映像が二回続くだけだよ!
したがって本作は、オマージュ→本家の映像→オマージュ→本家の映像が無反省に繰り返されるので、これはストーリーテリングの妨害でしかなく、手際が悪いと断じざるをえない。
この際 もう言ってしまうが…
オマージュでもパロディでもなくフェリーニごっこに興じてるだけ。
監督をボラボラ言いながら撃ちたい。そしてすかさず「ボラーレ・ヴィーア」と言っていきたい。
◆映画を無国籍化したソロちゃん◆
このまま地滑り的に酷評してもいいのだが、唯一の救いを主演女優に見たので、公平を期すためにも褒めるべき点はきちんと褒めておく。
純粋=世間知らずなイタリア旅行者を演じたクセニア・ソロがばちくそカワイイ。
「カワイイ」なんて言うと「おまえの好みじゃねえか。主観でモノを言うな」と思われるかもしらんが、さにあらず。
まぁ実際、主観的な好みでかわいいと思っているのは事実だが、たぶん客観的に見ても称賛に値する芝居だと思います!
ソロの奇妙な冒険。
真面目に語るならクセニア・ソロの国籍に触れねばなりません。
彼女はラトビア出身の新人女優なのだが、ラトビアと聞いても地理に疎い私なんかは全然ピンとこない。どうか笑ってやってくださいよ。目の前に地球儀を置かれて「ラトビアを示せ」と言われても「ンーフ~ン」と言いながら地球儀をぐるぐる回すことしかできない。
そもそもラトビアってなんじゃ。
知るか。
滅べ!
そんなラトビア人のソロちゃんがアメリカの片田舎からイタリア一人旅へと繰り出すので、本作には不思議な無国籍性が漂っているのである。
初めてこの映画を知ったときは、フェリーニをモチーフにしていることから「イタリア映画なのかな?」と思ったのだが、ポスターに写っている主演女優を見るにつけ「フランス人?」とも思うわけで、「でもイタリアの女優に見えなくもない…」などと判断を留保したままいざ映画を観てみると劇中ではアメリカ人という設定。「そんなバカな」と思ってあとで調べてみると「ラトビア人かい! ていうか何処やそれ。滅べ」と言ってラトビアの滅亡を願うに至れり。
要するに、フェリーニを扱っている以上はイタリア映画であるべきなのに、実はアメリカ資本で、主演女優はラトビア人(フランス人にも見える)…という、多国ごった煮状態=もはや無国籍…といった不思議な空気が漂っている作品なんである。
映画を観るわれわれは普段ほとんど意識しないが、アメリカ映画を観るときはアメリカの風土を、フランス映画を観るときはフランスの風土を無意識に感じ取りながら、そこに安心感なり諦めを覚えてアメリカなりフランスの風土に身を任せながらその国の映画に浸っているわけだが、たとえば日本映画でも黒沢清がまさにそうであるように、無国籍映画というのは国籍という足場が奪われた映画群を指すので、観る者は寄る辺ない不安感とか浮遊感に身を委ねることになる。
音楽に置き換えると分かりやすいと思う。われわれは曲の言語とかリズムによって洋楽なのか邦楽なのかを判断しているし、どちらにも当てはまらない曲はだいたい中東とかその辺というふうに国によって識別しているが、そのいずれにも該当しない曲を耳にしたときにわれわれが何を感じるかというと無国籍を感じるのである。
無国籍=国単位で判断できない無根拠な酩酊感覚。
そして本作は、出発点のアメリカと目的地のイタリアの往還者として、そのいずれにも属さない「限りなくフランス人に見えるラトビア人」のソロちゃんを起用することによって、まさにフェリーニ作品のような寄る辺ない幻想世界を表現したのではないか…という深読み試論をしてみた。どう?
というわけで「フェリーニ」という部分にあまり反応しなければスッと楽しめる映画なのかもしれないが、とは言えこれだけフェリーニ推しなのに「フェリーニに反応するな」って条件を呑まないと楽しめないような映画にいかほどの価値が? とも思うわけで。
ひとまず私はクセニア・ソロという新人女優をチェックできたので良しとします。
ソロちゃんがかわいいのでゆるす。
『フェリーニに恋して』ゆうてるのによその男に恋しとるやないか。