徹底的にメロドラマを排斥した非スポ根映画の傑作。
1974年。ロバート・アルドリッチ監督。バート・レイノルズ、エド・ローター、マイケル・コンラッド。
かつてアメフトの花形選手だったポールは車を盗んだ罪で刑務所に送られる。看守たちのフットボール・チームを育成することにやっきの所長へイゼンはポールにコーチ役を命ずる。やがてポールは看守チームの相手となる囚人チームの結成に同意し、荒くれ者たちを次々とメンバーにしていく。かくして看守チーム対囚人チームが激突することに!(映画.comより)
おはようございまうs!!!!!!!
だあああああああああああ腹立つわー。自分の誤字率に。なんでいつもこんなことになるんだ。俺ばっかり。
ちなみに、わざと誤字ったわけじゃないですよ。わざと誤字ったところで何のメリットもないですからね。面白くもなんともないし。
私は「ありがとうございます」を尋常じゃない確率で誤字ってしまうから「アリス」と省略しているわけだけど、ついに朝の挨拶まで省略せねばならないというのか。
というわけでオハス。
本日は柄本佑の生涯No1映画としてのお馴染みの『ロンゲスト・ヤード』です。
この映画は、名匠ロバート・アルドリッチという、いつものように軟派に語ることのできない人の作品なので、ちょっぴり硬派な文章で論じて候。
ていうか今後、このブログにコメディだけを求めている読者の期待をガシガシ裏切っていくつもりです!!
伊達や酔狂じゃねえんだっ。
読者数なんか減れ!
◆野郎臭全開の男映画◆
数年前にロバート・アルドリッチをまとめて観た際に「こりゃあ骨が折れる」といって評論を放棄した。私ともあろう男がヒィヒィいいながら逃げ出したのだ(信じられる?)。
したがってアルドリッチについて語るのは今回が人生初である。
というのも、アルドリッチは分厚い。そして硬質だ。
おいそれとは語れない。アルドリッチという硬い地殻を掘り進めても、その先にはマグマに覆われた分厚いマントルが待ち構えている。そのマントルを突破することで、ようやくアルドリッチの本質に触れられるのだと思います。どうですか。違いますか。
アルドリッチは映画作家にしてはやや珍しく、キャリア後期に代表作が密集している。
『ワイルド・アパッチ』(72年)、『北国の帝王』(73年)、『カリフォルニア・ドールズ』(81年)、そして『ロンゲスト・ヤード』。
基本的には男性観客に好まれる作家だが、わけても本作は野郎臭全開の男映画だ。
何しろ、このもっさいパッケージである。
バート・レイノルズが腰に手を当ててニカッと笑っている。風情もヘチマもない。
そして内容自体もアメフトを題材にしており、画面に現れるのはむさ苦しい男、男、男…。
こうなるともう故意に女性客を撥ねつけているようにしか思えないのだ。
◆アルドリッチ的世界にあって、男と女は「男性と非男性」として描かれる◆
実際、アルドリッチの映画では「男と女が等価として画面におさまる」ことは決してない。
『特攻大作戦』(67年)や『北国の帝王』のように、基本的には男ばかり出てくる映画を手掛けることが多く、それらの映画において、女はもっぱら「女性」ではなく「非男性」として、いわば性すら剥奪されてしまうのである。
逆も然りだ。そんな男性映画のアルドリッチだが、『何がジェーンに起ったか?』(62年)や『ふるえて眠れ』(64年)といった「ほぼ女性オンリーの女性映画」も数多く手掛けている。そこでもやはり、男は「男性」としてではなく「非女性」として性が剥奪されてしまうのである。
ちなみに映画評論界の重鎮こと蓮實重彦は、アルドリッチの映画が「男性的」と呼ばれていることに対して半ばキレ気味に訂正を促している。
アルドリッチ的世界には、まるでイヴがアダムの肋骨からこぼれ落ちる以前の、「性」が人間の記憶にのぼることすらなかった時期に見られるような、美徳と悪徳を超えた事件が展開される。あるいはアダムから生まれ落ちたのがいま一人のアダムであったとでもしようか、とにかく神の造化の失敗によって、「女性」の意識すらが人類から欠落してしまったような世界こそがアルドリッチ的なのであり、それを無理に男性的と呼ぶには、神がいま一度はじめから天地創造をやり直さなければなるまい。
『映像の詩学』より
まぁ、そんなわけなので、女の豪邸でジゴロな生活を送っているB・レイノルズが、ベッドで二度目の性交渉をせがむ女を突き飛ばして、ジンを瓶ごと煽りながら勝手に女の車に乗ってどこかへ行ってしまうファーストシーンを観ても、われわれはそこに「痴情のもつれ」など微塵も疑わない。ここには「男性」と「非男性」しかいないからだ。
かくして、女が「車を奪われた!」といって警察に通報したことで、いとも容易く逮捕されたB・レイノルズは刑務所にぶち込まれてしまう。
ここでは刑務所長の趣味で看守チームと囚人チームがアメフトをするという恒例行事があり、かつてアメフトの花形選手だったB・レイノルズは囚人チームの育成を命じられる。
物語はこのあと「仲間集め→特訓」や「刑務所内でのアメフト試合」といったスポ根的な展開を迎えるのだが、アメフト…というかスポーツ全般にまったく興味のない私が「おもしろー」と感じたのは、むしろこのファースト・シーンの方だ。
女を突き飛ばして無断で車に乗って逮捕される…という、並みの映画であれば「くだらない痴情のもつれ」でしかない一幕が、アルドリッチの手に掛かればアクションとカーチェイスになってしまうのだから。
ヒステリーを起こして騒ぐ女をB・レイノルズがバシバシ殴るというアクション!
そしてパトカーを振り切ろうとしたB・レイノルズが華麗なハンドル捌きを見せるカーチェイス!
脚本に書かれていることを逐一アクションとして演出せねば気が済まないアルドリッチの荒くれ魂が炸裂している。
まるで近年のトム・クルーズだ。
◆メロドラマの拒否◆
「スポーツに興味のない人間でもスポーツ映画が楽しめること」には2つの理由がある。
ひとつは「本質的にはスポーツ映画ではないから」。
たとえば『ロッキー』(76年)はボクシング映画ではなく、ハナから勝ち目がないと分かっていても立ち向かうことで「負け犬でもここまでやれるんだ」ということを証明する…という人間の自尊心についての映画だ。それがたまたまボクシングだったというだけのことで、別にこれが「金融業界の話」だろうが「大食い大会の話」だろうが、何だって構わないのだ。だから『ロッキー』には普遍的な感動がある。
そしてもうひとつの理由は「スポ根ではないから」。
スポ根とは「スポーツ根性」の略。根性とは言うなれば「精神」。映画において精神は「情緒」として描かれる。そして情緒のことを映画では「メロドラマ」と呼ぶ。
したがって、すべてのスポ根映画は不可避的にメロドラマなのだ。どんなに嫌がっても無駄だ。スポ根映画の時点で、それはもうメロドラマなのである。
その最たる例が、TBSの悪いところがすべて出た人気ドラマ『ROOKIES』だろう。毎話、毎話、愁嘆場の連続。部員同士の軋轢と和解、コーチへの感謝、敗北の涙、GReeeeNの「キセキ」。
まさにメロドラマの洪水である。
だけど、そういう押しつけがましいメロドラマに思いきり鼻白んでしまう私のような人間にとっては、たとえば『がんばれ!ベアーズ』(76年)のカラッとした笑顔や、『スラップ・ショット』(77年)のシニカルな眼差しにこそ本気で感動してしまう。
本作『ロンゲスト・ヤード』も、まさにそんなスポ根(メロドラマ)を拒否したスポーツ映画なのである。
「メロドラマの拒否」とはどういうことか。
具体的には、刑務所のなかで即戦力になりそうな囚人だけを合理的に選抜していき、結成された囚人チームが特に勝利への連帯の意識もなく、絆や友情の類も描かれず、果ては刑務所長に「負けないと刑期を延長するからな!」と八百長試合を強いられたB・レイノルズが、あっさりとチームを見捨てて所長の話に乗っかってしまうのだ。
さらに言うなら、B・レイノルズの右腕として活躍していた便利屋の仲間が看守の手先によって殺されたにも関わらず、葬儀のシーンが事務的な手つきで処理されるだけで、仲間たちはべつだん怒るでも悲しむでもなく、ましてや敵討ちのためにチームが結束するといった感動のシーンさえ涼やかに見送っているのである。
彼らはただ「公に看守を殴れる機会だから」という理由だけでチームに入った極道の集まりなのだ。ハナからメロドラマなど望むべくもない。
だから当然、試合中にメンバー全員のアップ・ショットを頻繁に見せることで情緒を掻き立てていく『ROOKIES -卒業 -』のような身振りはなく、ヘルメットに顔を覆われたメンバーが猛烈なタックルを仕掛けたり喰らったりするさまを、あたかも実際の試合中継のようなロング・ショット主体で見せていく。
誰が誰だかわかんね。
全員が同じヘルメットを被っているので、たとえばB・レイノルズがタッチダウンを決めても、観客はいったい誰がタッチダウンを決めたのかさっぱり分からないのだ。
ただ誰かがタッチダウンを決めた。主人公側が得点した。
その情報しか我々観客には入ってこないのだが、その情報だけあれば充分なのである。「勝つか負けるか」のスポーツなのだから。
またまた引き合いに出して申し訳ないのだが、例えばこれが『ROOKIES -卒業 -』だったら、ヘタッピな桐谷健太がついにホームランを打った瞬間、歓喜と驚嘆が入り混じるメンバー全員の「まさかあいつが得点するとは!」とばかりにカッと目を見開いたリアクション・ショットを挟み込むのだろうが、もちろんアルドリッチの映画にそんなものは存在しない。
「いま得点したの誰? まぁ誰でもいいか。とにかく主人公側が一矢報いたんだ!」という混乱ゆえの高揚感があるだけだ。
それを象徴するのが、円陣を組むメンバーをアオリの構図で真下から撮りあげるフレーミング。
後ろの太陽光で顔がほとんど潰れてしまっていて誰が誰だか識別不能。
だがアルドリッチは言う。
「識別する必要はない」
B・レイノルズ率いる囚人チームは、いわばエネルギーの総体として看守チームにぶつかってゆく。そこでは「個人の識別」や「個々の人格」などかえって邪魔なだけだ。
総体としてのエネルギーがステンドグラスのごとき輝きを発する。それがすべてなのだ。
アルドリッチを観た者は、二度と湿ったメロドラマに涙することはないだろう。
「泣ける」という可能動詞をこよなく愛する女子高生には一生かかっても理解できないし、また理解する必要もない映画作家。それがアルドリッチだ。