アニメ剥き出し、亀映画。
2016年。マイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット監督。アニメーション作品。
嵐で荒れ狂う海に放り出された男が、九死に一生を得て無人島に漂着する。男は島からの脱出を試みるが、不思議な力で何度も島に引き戻されてしまう。そんな絶望状況の中、男の前にひとりの女が現れ…。
どうもおはようございます。本日はsさんから頂いたリクエストにお応えして『レッドタートル ある島の物語』を取り上げたいと思います。
過去に書いた評をまるっとコピペして申し訳程度に加筆修正しただけなので『シネ刀』でのマイルドな文体に比べて若干尖ってるうえに、文章的にも少し読みにくいかもしれません。サービス精神とか一個もないですから。
「それでもいいから載せろ。このハッピーへっぴり腰」と言われたので命令に従いました。sさんを怒らせると怖いからね。DVDケースの角で後頭部をカツカツ叩いてきますから。「カツカツやめて」と言っても、ずっとカツカツしてきますから。日がな一日。
ジブリファンの神経を逆撫でするようなこともチラチラ書いてるので叱られるかもしれないけど、まぁいいでしょう。レッツゴー!
◆ジブリとジブリファンの断絶◆
先に断っておくと、私は映画だけでなくアニメも観ているとは言え、決してアニメ好きと言えるような人間ではない。いわばアニメシーンを冷めた視点で観察している覆面調査員なのだ。
したがって、私にとってアニメとは「萌え」や「燃え」を提供してくれる世界に誇る日本のカルチャーではなく、あくまでカルチュラル・スタディーズ(文化研究)の対象なのである。
どうですか。すこぶる面倒臭いでしょう?
そんな面倒臭い私が昔からずーっと感じているのはジブリとジブリファンは噛み合っていないということ。なんというか、曰く形容しがたい断絶を感ずるのである。
たとえば『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明とエヴァファンは、お互いについて深く理解し合っていると思う。さながら熟年夫婦のような阿吽の呼吸。
ところがジブリは市民権を得すぎたせいか、まったくといっていいほど理解されていない。宮崎駿が映画に込めた意味、あるいは高畑勲がすばらしく狂った人間であることについて、ジブリファンのみならず映画評論家でさえほとんど何も語らない(語れない?)。
そんな暖簾に腕押し状態に苛立ちを感じた宮崎駿は、分かりやすく呑み込みづらい『崖の上のポニョ』(08年)で日本国民をアジったわけだが、返ってきた反応は「ポニョかわいい」とか相変わらずそんなレベル。
ついにぶち切れた宮崎駿はガキに媚びつつも意味深なファンタジーという従来のジブリ方程式を放棄し、「やってられるか」という引退宣言とともに『風立ちぬ』(13年)を作った。これは宮崎駿が誰に遠慮することもなく「俺の趣味」と「俺の性癖」を思う存分に詰め込んだ作品である。そういう意味で『風立ちぬ』とは宮崎駿の『俺立ちぬ』なのだ。
そして、現時点でスタジオジブリ最後の作品になっている『レッドタートル ある島の物語』が2016年に公開された。
なんというか、行くとこまで行ったという作品である。
◆ジブリ百パーセント◆
さて。スタジオジブリから出た久しぶりの傑作がオランダ人のマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィットというもはや覚える気さえ起きないような名前の男の手から生み出されたことについて、日本のアニメーション作家が何ら嫉妬も焦りも感じず、また日本のアニメファンが何の危機感も覚えていないとすれば、いよいよ動脈硬化した和製アニメに見切りをつけねばならないかもしれない。
いや、先に見切りをつけたのは鈴木敏夫である。
2006年の『ゲド戦記』以降、ジブリが躍起になった後継者育成計画が結果として巨大な負債を生んでしまったことで、あれほど親族内継承に固執していたジブリは海外のアニメーション作家に望みを託した。というか救いを乞うた。
おもしろいのは、「望み」というのが興行的成功ではなく批評的成功に向けられていることだ。
海外アニメ特有の日本人が敬遠しがちな絵柄、寓意的で淡々とした内容、全編セリフなし、わずか81分というミニマムなサイズ…といった作品の諸要素。それに公開日のタイミングを考えても、ジブリ史上最もヒットポテンシャルとは無縁の反コマーシャルな作品として屹立する本作の裏には、いよいよジブリが日本の観客を見放したという好戦的な意趣返しが装填されている。
確かにこの内容では想像力が欠如したジブリファン(日本国民の約90%)の理解など望むべくもない。実際、本作は見向きもされずに散々な興行結果に終わった(もちろん鈴木敏夫にとっては想定内)。
とは言え、これがジブリが求道したアニメの在り方だというのなら、私は最大の讃辞を以て歓待するものよ!
「アップショットの連発」と「声優第一主義」に堕落した和製アニメを尻目に、ほとんど全編通してロングショットとセリフなしのストーリーテリングが浮遊的とさえ言えるアニメ体験を強要する本作には、かろうじて遠目から目視できる人物の身体運動を通してその場の状況や感情を豊かに表現し、天候や時間帯によって表情を変える孤島の大自然を切っ先のよいタッチで画面に乗せてゆく…という美技が冴える。
絵の精度やアニメーションとしての弾力。横移動を多用した構図と人物の動線。それらが濃密に、あるいは有機的にアニメーションと結びついていて、そうしたアニメの息遣いが非常に心地よい。きわめて純度の高いアニメ作品だと思う。
声優の人気が高まるにつれて必然的にセリフ量も増えてしまう…というのが和製アニメを堕落させた遠因のひとつだが(和製アニメがクールジャパンたりえた遠因のひとつでもあるのだが)、本作のようにセリフなしという制約を設けることで、かくもアニメは自由になれるのだと感心する。
『レッドタートル』はいっさいの装飾や武装を捨てた剥き出しのアニメだ。
ネット上では、カメの正体やその行動原理をめぐる考察が出回っている。男は何者で、島やカメは何の象徴なのか。
私の場合は、男を宮崎駿(に限らず、広く表現者と言ってもいい)に置き換えるとすべての辻褄が合い、筋が通りました。
「何しろ絵柄がムリ」、「こんなのジブリじゃないやい!」、「何しろマジきしょい」と不平不満を垂れて手前勝手な保守的感性の中で昔のジブリを理想化するあの頃はよかった病の馬鹿ピーマンたちは、くだらないことをガタガタ言う前にまず観てください。
『トトロ』しか観ないようなハッピーな親子とか、深夜アニメしか観ないようなハッピーな萌え豚にはあまり響かないだろうが、ただ絵が動いていることに対して原初的な快楽を感じられる人にとっては極上の一品になるかもしれないし、ならないかもしれないのだ。
それでなくとも、この作品はジブリ百パーセントである。あまりにシンプルな物語の内奥に潜む「豊かな寓意」に心地よく振り回される…という楽しみ方こそがジブリの精髄なのだから。
…でも、だからこそ、日本、フランス、ベルギーの三ヶ国合作で、オランダ人のアニメーション作家がこれ(ジブリ百パーセント)を作った…という事実がむず痒くもあり。
本来なら宮崎五郎か米林宏昌がこれをやらねばならなかったのだが。
追記
べつにアニメ好きでもジブリ好きでもない私は、近年ようやく宮崎駿のすごさに気づき始めたかもしんない。
子どもの頃から当たり前のように『天空の城ラピュタ』(86年)や『魔女の宅急便』(89年)を観てきたが、その「当たり前」をやろうとして五郎とか米林がバタバタ討ち死にしてるんだから!
スタジオジブリの30年間は数々の名作を生みだしたが、それと同じだけ死屍累々も築いた。まぁ、当たり前の話だが。血を流さずして表現などあり得ない。