ルーニー&ラーソンの共演作なのに缶コーヒーが全部かっさらって行きよったでぇ。
2009年。フランチェスカ・グレゴリーニ、タチアナ・ボン・ファーステンバーグ監督。ルーニー・マーラ、ジョージア・キング、ブリー・ラーソン、エイミー・ファーガソン。
フェルナンダは、ニューイングランドにある全寮制の女子校タナー・ホールで最終学年を迎える。彼女は仲のいいケイトやルーカスタらと楽しく過ごしていたが、幼なじみのトラブルメーカー・ヴィクトリアが入寮してくる。ヴィクトリアの奔放な行動に刺激され、フェルナンダたちの生活も変わりはじめ…。
おはようございます、おまえたち。めっきり寒くなってきたように感ずるわぁ。
今月の27日に、先月のスットコドッコイ台風で繰り越しになった餃子パーティーを開催する予定なので、この日は確実に更新をお休みします。
とはいえ、またくだらないハプニングが起きて予定が先延ばしになるかもしれないけど、たとえそうなっても27日は更新しません。意地でも更新しない。テコでも更新しない。むかつくから。「また予定が飛んじゃって時間ができたので更新します」とか神に誓ってしません。そんなことをするぐらいなら死んだ方がマシだ。
というわけで今回は『タナーホール 胸騒ぎの誘惑』 という、大好きなルーニー・マーラ主演の映画です。ちなみに次回もルーニー・マーラの主演作を取り上げます。プチルーニー祭りを楽しんでいってください!
まぁ、貶してるんですね。
いちばん背が低いのがルーニーやで!
◆あたかもいない、みたいなダマしはやめろ◆
ルーニー・マーラとブリー・ラーソンが女子高生を演じた女子寮青春映画と聞いて「そんなわけアルカイダ」と思った。ルーニー・マーラは33歳だし、ブリー・ラーソンは29歳。日本の映画やドラマならまだしも、アラサーに女子高生を演じさせるほどアメリカ映画はトチ狂ってはいまい。
映画は全寮制の女子校へと向かうルーニー・マーラの横顔に始まるが、あり得ないほど顔が若い。それもそのはずで、本作は2009年の作品だったのである。
そう、これはルーニー・マーラが『ドラゴン・タトゥーの女』(11年)でタトゥタトゥしたり、ブリー・ラーソンが『ショート・ターム』(13年)でタムタムする前の無名時代に出演したインディーズ映画なのだ。
そんな本作が今年7月にようやく日本公開されてDVDになった。その間じつに丸10年である。おっそ。いわばとうに死んでしまった作家の初期作を「生誕100周年を記念して今だから言うけど、実はこんな作品もありまんねん」つって今さら発表されたときのような複雑な心境だ。
嬉しいけどもっとはよ出せや、という。
また、日本版のポスターやスチールを見る限りではルーニー&ラーソン演じる親友二人組の映画のように思うが、実際は女子4人組の話である。
ちなみにこちらが日本版ポスター。
「ポスターに4人全員映すより売れっ子2人だけに絞った方が訴求力あるでー」という配給会社のカスどもの邪悪な思惑によってルーニー&ラーソン以外の残り2人があたかもいないみたいな売り出し方がされたのだ。
ダマしはやめろ。
無名とはいえエイミー・ファーガソンとジョージア・キングもメインキャストなのだからしっかり映していけって話だよ。あたかもいないみたいな扱いはやめろ。
ちなみにエイミー・ファーガソンという女優はケイレブ・ランドリー・ジョーンズと瓜二つで、そのケイレブ坊は現在のマコーレー・カルキンに似ているため、鑑賞中に「誰これ。ケイレブ坊? カルキン坊? でも女子校の話だから女優だよね。だとしたら誰?」と軽度のパニックを起こしてしまった。失礼な話である。
エイミー・ファーガソン(左)とケイレブ・ランドリー・ジョーンズ(右)。似てない?
◆事情は事情、蛮行は蛮行!◆
さてそんな本作。
夏休みが終わって高校の寮に戻ってきたルーニーを、親友のラーソンとファーガソンが発狂しながら出迎えてくれた。この3人は異常に仲のいい発狂トリオだったが、彼女たちの寮にジョージア・キングという缶コーヒーみたいな名前の女が転入してくる。
缶コーヒーはルーニーの幼馴染みなのですぐに発狂トリオと打ち解けた。ところが幼馴染みのルーニーだけが缶コーヒーの本性を知っていたのだ。腹黒い性悪女ということを…。まさにブラック缶コーヒーだったのである。
まるでソフィア・コッポラみたいな映画だ。
全編に渡って青春を謳歌する少女たちの躍動感のみが無反省に刻まれている。走るJK、踊るJK、騒ぐJK、恋するJK…。
そうした少女たちの一挙手一投足をいかに瑞々しく切り取るかという篠山紀信じみた動機だけが先走った少女フェチ映画なので、当然シナリオには何の魅力もなく音楽の使い方もデタラメ。レズビアンを公言している監督フランチェスカ・グレゴリーニ(リンゴ・スターの義理の娘!)とタチアナ・フォン・ファステンバーグを表現へと駆り立てるのは「映画」ではなく「少女」なのだろう。
共同監督にして公私に渡るパートナー。
悪戯心から男性教師を誘惑するラーソン、絵を描くことが好きで面倒見のいいファーガソン、そして既婚のおっさんに恋してしまうルーニーのささやかな日常は、邪悪な缶コーヒーを輪の中に入れてしまったことで少しずつ毒に侵されていく。
校長各位をダマして門の鍵をゲットした缶コーヒーは、甘言を弄してルーニーたちを誘い、夜中に学校を抜け出して夜遊びに興じるのだ(のちにバレてどえらい目に遭う)。
これだけならまだいいが、缶コーヒーはルーニーと既婚親父の関係をめちゃめちゃに妨害し、実はレズビアンだったファーガソンの純情を弄ぶ。それでいて傍目には善人に映るような裏工作にも抜かりがないので、ほかの教師や生徒らは缶コーヒーのことをグッドなJKと信じて疑わないのである。こんなに邪悪な顔をしているのに。
見るからに歪んだ心を持っていそうな缶コーヒー。アゴがすでに歪んでるからね。
だが、缶コーヒーがこんな人間になってしまったことには一応の理由がある。どうやら毒親に罵倒やネグレクトを受けて育ったことですっかり魂が穢れちまったんだと。
ルーニーは真夜中のシャワールームで缶コーヒーが泣いている姿を目撃して「こいつもこいつで色々と苦労してるのね…」などと同情を寄せる。
あぁ、出た…。
嫌いなんですよ、このパターン。
「最低なキャラだけどこの人なりに事情がある」とか「元を辿れば親のせい」というエクスキューズで観客の同情心をあおって蛮行の数々を帳消しにする…みたいなゴリ押しのフォロー。
さんざん他人を傷つけた蛮行に事情もヘチマもあるかい!
たしかに缶コーヒーをこんな人間にしたのは毒親かもしれないが、蛮行の数々は缶コーヒーの意思でやったことだから、それとこれとは話が別。ましてや罪が帳消しになるわけもない。事情は事情、蛮行は蛮行である。
腹立つ。もう金輪際 缶コーヒーなんか飲むか!
缶コーヒーのせいでほかの三人が割を食う。
◆『ヴァージン・スーサイズ』とかが好きな人は観ればいいと思う◆
事程左様に、ルーニー&ラーソンよりも缶コーヒーが目立ってしょうがないという缶コーヒー中心の女子寮映画なのである。全部かっさらって行きよったでぇ。
ラーソンはシャレでたぶらかした男性教師をその気にさせてしまって辞職まで追い込むわ、ルーニーは初恋相手の既婚親父からヤリ逃げされるわ…と、けっこうブラックな映画です。缶コーヒーだけに。
映画的にもちょっとどうかなぁ。舞台がほぼ学内にも関わらずメイン4人以外の生徒がほとんど映らないという不思議な過疎現象が気になる。彼女たちが普段なにを考えてどんな一日を送っているのかということも描かれなければ、制服や小物といった美術にも特にこだわりを感じないのでオシャレ映画にもなっていないという。
ニューイングランドの寂寥感はよく出ているが、もともとニューイングランドはアメリカ最古の地域なので誰が撮ってもサマになるという映画向きの土地である。誰でもおいしく作れるカップヌードルのように。
というか、この映画のニューイングランドの景色よりもグーグルで画像検索したニューイングランドの方がすてきだったりするわけだ。
ならば、かろうじて本作を擁護しうる要素がどこにあるのかと言えば、そりゃあやっぱり透徹した眼差しで女優陣を切り取ることに関してだけは他の追随をぜんぜん許さねーといった少女フェチ映画としての甘美さザッツオールである。ソフィア・コッポラの『ヴァージン・スーサイズ』(99年)とかが好きな人に見せてあげるとバク転するほど喜ぶかもしれない。
それにルーニー・マーラとブリー・ラーソンの共演という、ただただ私が得をするだけのキャスティングも非常にありがたい。もしかしたらこの映画は私のことを狙い撃ちしているのかもしれません。わざわざ私のために作ってくれたのかも。どうもアリス。
ルーニー・マーラの儚くも奥ゆかしい翳りと、ブリー・ラーソンの輝かしい笑顔によろめき通しの95分でした。
惜しむらくは缶コーヒーが邪魔すぎる(最後まで邪魔だった)。
画面奥から、エイミー・ファーガソン、ブリー・ラーソン、ルーニー、マーラ、そして缶コーヒー(ブラック)。