マンは青い。
2006年。マイケル・マン監督。ジェイミー・フォックス、コリン・ファレル、コン・リー。
合衆国司法機関の極秘情報がドラッグ密輸コネクションに漏洩する事態が発生。それを受け、マイアミ警察特捜課の刑事コンビ、ソニーとリカルドは南米に飛び現地の犯罪組織と接触し、情報が漏れた原因を見つけ出す任務を任された。 (映画.comより)
おはよ。リクエスト回です。
本日語るのは『マイアミ・バイス』。
コリンきちがいのGさんから頂いたリクエストですが、当初は「またコリン・ファレル? 懲リンなぁ。年末に『タイガーランド』(00年)を取り上げたばかりじゃん…」と言って露骨にイヤな顔をしていたのだけど、今回はコリン・ファレルではなく「マイケル・マンを語ってほしい」との事だったので「じゃあ許す」つって取り上げることにしました。
俳優でリクエストがくることはあっても監督のリクエストがくるのは久しぶりです。良いリクエストをGさんはしました。
◆マンは大人◆
1984年から89年にかけて放送されたテレビシリーズ『特捜刑事マイアミ・バイス』の映画版で、メガホンを取ったのはテレビシリーズの製作を務めていた大家マイケル・マン。
名は体を表すとはよく言ったもので、マンといえば男性映画の名手である。アル・パチーノとロバート・デ・ニーロが共演した『ヒート』(95年)は全世界の男性観客によって神話の域まで祭り上げられているし、個人的に『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』(81年)は生涯ベスト50にどうにかねじ込みたいと思っているほど激烈にシブい作品である。
また、『コラテラル』(04年)の傑作性を理解していない人民があまりに多いので、私は折に触れて『コラテラル』の話をよくするタイプの人間でもあるからどうぞよろしく。
じつはGさんから「マイケル・マンをリクエストしたいので『マイアミ・バイス』を語ってちょ」と言われたとき、内心「どうせなら『コラテラル』リクエストしてこいよ!」と思ってました。リクエストして頂いた人にこの仕打ち。
マンの話は後述するが、最も過小評価されている名匠だということだけ先に述べておく。
さて、泣いても笑っても『マイアミ・バイス』。
当時人気絶頂だったジェイミー・フォックスとコリン・ファレルによるバディということで、世界中のファンはこの二人が「ファッキューメーン」などと叫びながらマイアミで暴れまくる痛快刑事アクションを期待したわけだがそういう映画ではないという裏切り。
もっともマイケル・マンという作家を知っていれば裏切りもヘッタクレもないのだが、非常にタフでムーディでアダルティな作品なのである。いわゆるハリウッド然とした豪華で軟派な映画ではないし、むやみやたらに銃を撃ったり車が爆発したり人がはじけ飛ぶこともない(それをやるのはマイケルはマイケルでもマイケル・ベイの方)。
マンはリアリズムの作家なので、二人の潜入捜査の過程をじっくりと見せていく。ともすれば単調とも言われかねないほど落ち着いた作品で、実際、世間の評価もあまり芳しくない。某ド腐れ映画評論家のように「オリジナル版へのリスペクトがない」と酷評するような原作ファンの向かい風も受けて大コケしてしまった作品である。
かくいう私も10年前に書いた評を読み返すと、それなりに楽しみつつもあまりに硬派な作りに戸惑っていた。当時、映画の意味すらまるで理解していない無知まるだしボーイの私にとってマイケル・マンの映画はあまりに大人過ぎたのだ。
今の若い音楽好きにB.B.キングのギターを理解しろと言ったところで土台無理な話。
映画の色気が分からないとマンは見落としてしまう。
そういう意味では「観る」ことがきわめて難しい作家である。だから過小評価されてんだろうな!
しかし、いま観返すと死ぬほど気持ちいい映画であった。デジタル撮影の粒状ノイズ、ステディカムのなまめかしい動き。何より青と夜の艶だが、これについても後述!
◆マンならでは◆
コリン&ジェイミーがナイトクラブで麻薬組織の動きを見張っているときに仲のいい情報屋から電話がかかってきて「囮捜査中の仲間が敵組織に殺されたぞ」という悲しい報せが届く。驚いた二人はFBIの部長さんと電話して「どうなってんスか。なんでうっとこの正体がバレたんスか」といった話をするのだが、そのためにわざわざクラブの屋上にあがる。
マンならでは!
これね、マンならではなんすよ。
二人は騒がしい店内だと電話が聞き取りづらいので一度外に出たわけだが、通常であれば店を出て路上で電話をした方が自然だし、空間設計の面から考えても合理的である。ところがマンが選んだ舞台はクラブの屋上。
そう、マイアミの夜景をわれわれに見せるための粋な計らいであるっ。
電話を終えた二人は慌てて情報屋のもとにすっ飛んで行くので、それだとやはり店を出て路上を歩きながら電話をした方がはるかに効率的なのだが、わざわざ屋上に留まって2分近くも電話をする。バックの夜景を見せるために。
夜景を見せるためだけの屋上シーン。
マンが映像派と呼ばれる所以はまさにここで、夜景を堪能させるためには多少ストーリーがモタついたり人物が不自然な見え方になることすら厭わないのである。
レビューサイトを閲すると「どうでもいいことに時間を割きすぎて話が進まない」とぷりぷりしてらっしゃるレビュアーがいたが、そもそもマンの映画は無時間化されているのでぷりぷりしてもムダだ。ストーリーの流れに沿って映像を撮るのではなく 撮った映像がたまたまストーリーになるわけで、これは限りなく純粋映画に近い。そして映画とは「画面」を観ることから始まる。
したがって「画面」ではなく「ストーリー」を見ている人にとって、『マイアミ・バイス』はツッコんでもツッコみ足りないほどのアホ映画に映るだろう。
物語が進むにつれて犯罪組織の二番手との攻防が主となり肝心のボスが忘れ去られたまましれっと映画は終わってしまう。あるいは囮捜査が敵にバレたことで「誰かが情報を漏らしてやがんだ!」と憤ったコリン&ジェイミーが内通者探しに奔走するのだが、それも途中で放ったらかしにされて結局裏切者の正体は分からないまま…。
マンならでは!
ラストシーンのコリンは「またひとつ事件を解決しました」といった誇らしフェイスで海を見つめるのだが何ひとつ解決してないからね。
海見つめてる場合やあらへんがな。内通者探してボス倒しに行かんと!
二番手(右)は倒したけどボス(左)は放置されたまま。
それだけでなく、映画中盤を待たずしてコリン&ジェイミーが「敵はコロンビアにあり」とかなんとか言ってめっちゃ速い船に乗ってコロンビアに行ってしまわれる。
『マイアミ・バイス』つってるのにすぐコロンビアに行ってしまうあたり。
モヒート好きのコリンに至っては敵組織の女(コン・リー)と意気投合して美味しいモヒートを飲むためにハバナにも行っちゃう。
めっちゃ速い船ですぐどっか行く。
マイアミへの裏切りがすげえ。
これじゃ『コロンビア・バイス』じゃねえか。『ビバリーヒルズ・コップ』(84年)つってるのに実はデトロイト市警だったエディ・マーフィのごとき地名詐称。
さらに、マイアミといえば抜けるような青空がとっても魅力的だがそれにも一切カメラを向けない。
マンは夜間撮影を真骨頂とする夜の監督で、本作でも大部分が夜間シーンである。青空とか太陽といったものを激しく憎む男なのだ。その結果がマイアミへのこの仕打ち。
すぐコロンビアに行くわ、ハバナにも行くわ、マイアミの青空は撮らないわ、なのにタイトルは『マイアミ・バイス』。このデタラメさ。
マンならでは!
山口百恵似の敵コン・リー(右)と結ばれちゃうコリン。空はあくまで曇っている。
◆マンは青い◆
章題の通りである。今日はこのフレーズだけでも覚えて帰って頂きたい。
マンは青い。
はっきり言って青いよ、マンは。夜をよく撮る監督なので「マンは黒いのかな?」と勘違いする人が多いが、マンは青い。
相当青い。
青白い画面がヒヤリとした緊張感を醸した『ヒート』や、より深い青を追求した『インサイダー』(99年)、果てはデジタル撮影によって別の青味を獲得した『コラテラル』という具合に、マンのキャリアは青と暗闇の調合実験の歴史と言っていい。
たしかに『ALI アリ』(01年)は赤かったし、『パブリック・エネミーズ』(09年)は白が基調色になっていたが、その中にも必ずどこかに鮮烈な青を配置する。マンとはそういう奴なのだ。青い奴なのだ。
81年の『ザ・クラッカー/真夜中のアウトロー』から現在に至るまでマンは青い。
気でも触れているのかと思うほど青い。
そして本作に至って「青の巡礼」は一応の終わりを迎える。その集大成たる『マイアミ・バイス』で、マンは画面をほとんど青だけで塗りたくるという暴挙に出ている。
全編青味がかった冷たいショットを前に、犯人逮捕に向けるコリン&ジェイミーの情熱とかコン・リーへの愛欲といったドラマ性は瞬く間に失効してしまうのだ。愛や情熱といった赤い感情はマン的青によって鎮火されてしまう。いわばドラマの火を消す消防隊。そんなマンをどうかよろしく。
口では「相棒」と言い合いながらもコリン&ジェイミーのフレンドシップやチームプレイは一切描かれず、なんなら上映時間の大半が別行動を取っているし、ジェイミーは公私に渡るパートナー(ナオミ・ハリス)が敵組織から大怪我を負わされてもその復讐心は最低限のセリフだけで処理されてしまう。
そしてコリンとコン・リー(ややこしいなオイ!)の立場を超えた禁断の愛もまた冗談としか思えない性急さで成就し、呆気なく訣別を迎えてしまう。コリンが敵組織のコン・リーに溺れていくことについて、相棒のジェイミーはべつだん不満や不信感を募らせるでもなく「程ほどにしとけよ」と忠告する程度で、仲間割れを起こす気配すらない。
要するに、マンという男はドラマやストーリーといったものを徹底して無視する。
無論、感情移入など望むべくもないし、する必要もないという、極めてシステマティックな考え方に基づいて映画を組織するのだ。その冷たい態度が青という色によって視覚化されてもいる。
ジャン=ピエール・メルヴィルとロバート・アルドリッチとサム・ペキンパーの融合体。それがマンかもしれないし、マンではないのかもしれない。
青と夜の蜜月。エンドロールに至ってさえマンは青かった。
お得意のコンバット・シューティングも見所だがアクションシーンは一ヶ所しかなく、基本的にはコリン&ジェイミーの地味な潜入捜査がひたすら描かれる(そもそもマンはアクション映画の作家ではない)。
それにしても夜の艶めきとコリンの長髪がたまらなくエロティックだ。全身の毛穴が広がりそうになった。困る。
編集がいかに素晴らしいかという話もしたいが疲れてきたのでよす。何にせよ、すこぶる心地よい作品でございました。Gさんのおかげで久方ぶりにマンを堪能することができた。
恐らくマンが過小評価されている理由は「ストーリー脳で映画を観てる奴が多すぎること」と「マン=アクション映画という勝手な先入観を持ってる奴が多すぎること」だと思う。何度でも言うがストーリーなど存在しないし、この世の総ての映画はアクション映画。どうかそこに留意して丁髷って感じで、最後に本日のキーワードを発表したいと思います。
マンは青い。