「世の中にはツキなんてねえのさ」
1970年。ジャック・ドレー監督。ジャン=ポール・ベルモンド、アラン・ドロン、ミシェル・ブーケ。
1930年代のマルセイユ。3カ月の刑期を終えて出所したロッコは、自分の女であるローラをめぐってカペラという男と殴り合いになるが、その喧嘩沙汰をきっかけに2人の間には奇妙な友情が芽生える。ギャングとしての野望を達成するため、ロッコとカペラは街の大物ギャングたちを翻弄し、マルセイユを手中に収めていくが…。(映画.comより)
どうも皆さんこんにちは。
僕はけっこうポケモンが強いんですよ。
というわけで本日は『ボルサリーノ』です!
◆河原で殴り合うヤンキーと同じ地平◆
出所したばかりのギャングが自分を売った密告者のバーを燃やしたあと、自分の女を迎えに行けば彼女はすでに別の男のものになっていた。一言も言葉を交わさず殴り合う男二人だが、最後には肩を組んで笑い、同時に気絶する。
『ボルサリーノ』とはどういう映画か。このファースト・シーンがすべてを物語っている。
出所した男はアラン・ドロンだ。密告者のバーに立ち寄り、ショットグラスから酒が溢れ出てもなお注ぎ続けたドロンは、火をつけて一口吸った煙草を酒に投げ入れて店をまるごと燃やす。
なるほど、失禁するほど格好いい。男ならぜひ一度はやっておきたいが現住建造物等放火罪でヤバいことになるので真似できない。さすがドロン。俺たちにできないことを平然とやってのける。そこにシビれる! あこがれるぅ!
だが、女をめぐって殴り合うシーンはどこかユーモラスで間が抜けている。ドロンと拳で語りあって仲良くなる男はジャン=ポール・ベルモンドだ。
「なかなか良いパンチだったぜ…」
「お前もな!」
ちょっと殴り合っただけで無二の親友になった2人は、義兄弟の契りを結んでマルセイユの裏社会でのし上がっていく…。
もう完全に河原で殴り合うヤンキーと同じ地平の映画なのである。
『ボルサリーノ』はクールとユーモアが同居したギャング映画である。
ダブルブレストのスーツを着こなすドロンはマネキンのように美しく、ボルサリーノのハンチング帽で葉巻をくわえるベルモンドはどこまでも洒落ている。
だが、陽気なテーマ曲がチャンチャラ鳴り響き、どこか「マフィア映画ごっこ」のような気安さがフィルムから緊張感を奪うかわりに無償の楽天性を附与している。良くも悪くもね。
あ、あと『世界の果てまでイッテQ!』で出川哲郎がベルモンドとツーショット写真を撮るためにパリに行くという企画があって、そのとき好きな映画に挙げていたのが『ボルサリーノ』だったな(出川哲郎は映画専門学校出身の映画マニア)。
◆二大スター共演!◆
ヌーヴェル・ヴァーグを代表する俳優、ジャン=ポール・ベルモンド(左)。
銀河系最強クラスの色男、アラン・ドロン(右)。
本作はドロンがベルモンドにラブコールを送って実現した夢の共演だ。二人はオールキャスト戦争映画『パリは燃えているか』(66年)にも出演しているが、がっぷり四つに組んで共演するのは今回が初。
ゴダールの『勝手にしやがれ』(59年)や『気狂いピエロ』(65年)でしかベルモンドを知らない人にとってはヌーヴェルヴァーグの代表的役者と思うだろうが、本来は娯楽色の強いアクション・スターだし、商業映画の否定の上に成り立つヌーヴェルヴァーグとは相容れずにゴダールと決別している。
一方のドロンは、『太陽がいっぱい』(60年)、『冒険者たち』(67年)、『さらば友よ』(68年)など、鬼のような勢いで傑作を世に送り出しフランス映画の頂点にデデンと君臨。日本でも絶大な人気を誇っていた。そして本作あたりから製作にも携わるようになり、『ボルサリーノ』では自分の見せ場を削って先輩のベルモンドを立てている。
ちなみにドロンが演じたロッコという役はルキノ・ヴィスコンティの『若者のすべて』(60年)におけるドロンの役名と同じ。お人好しのせいで苛烈な現実に突き落とされた『若者のすべて』のロッコが、のちに擦れてマフィアの道に歩んだ…という妄想スピンオフ的な見方をすれば楽しさ1.2倍増し!
監督のジャック・ドレーは、のちにドロンの専属監督として『友よ静かに死ね』(76年)や『フリック・ストーリー』(75年)を手掛けている。とは言えドレー作品のほとんどはドロンが製作としてクレジットされているので、実質的にイニシアチブを取っているのはドロンである。
だから、ジャック・ドレーというよりジャック奴隷なんだよ。
◆コイントスで語られる無言の友情◆
撮影、演出、脚本。どれを取っても二流である。
はっきり言ってそんなに面白くないっす。この映画。
第一に「ジャン=ピエール・メルヴィルのような薄暗いノワールとは真逆のマフィア映画を打ち出したーい」と思ったのか、のどかな日中のシーンがやけに多いのだ。
気持ちのよい地中海の陽光をたらふく浴びながら、報復、疑心、暗殺とかやられても「冗談でしょう?」と。
しまいには男二人で変な水着をきて海水浴とかしてるからね。
ではどこを楽しむべきかといえば、これは2つあって、まず最初は粋であること。
ベルモンドは、ドロンと意見が対立するたびに「コインで決めよう」と言ってコイントスをする。そして毎回勝つのはベルモンドだ。
敵対勢力の連環計によって一時は仲違いさせられながらも、どうにか大親分を消してマルセイユを牛耳った二人はのし上がり成功記念パーティーを開く。今にもmihimaru GTを歌い出しそうなほど気分上々↑↑のドロンだが、なぜかベルモンドは少し憂鬱げ。
「おまえは最高の相棒だが、すべてを手にしたいま、今度は俺たちが狙われる番だ。やがて二人で殺し合うことになるかもな…。だから俺は街を出ていく」
そう言って立ち去ろうとするベルモンドに「だったら俺が街を出る!」とドロン。本当に仲がいいんだからぁ。両者譲らぬ街出るアピール。
「コインで決めよう。外れた方が街を出ていく」
ベルモンドに最後のコイントスを挑まれたドロンは「裏っ、裏っ、裏っ」と山本リンダばりにウラウラ言って狙いうち。
ポケットからコインを取り出したベルモンド、宙に弾いて、キャッチ! 目視!
「裏。ということは、また俺が勝ったようだな」
そう言ってベルモンドがポケットにしまう前にもういちど宙に弾いたコインをすかさずキャッチしたドロン、「二枚あるんだろう?」と言ってコインの柄を確かめれば、両面とも同じ柄…。
驚いた様子のベルモンドは「最初から知ってたのか…」と呟き、ポケットからもう一枚のコインを取り出した。
これぞ粋!
ベルモンドのコイントリック自体も粋だが、何より粋なのは最初からトリックに気付いていたにも関わらず、ずっと騙されたふりをしてわざと負け続けていたドロンの方だ。
二人は意見が対立するたびにコイントスで決めていたが、それはベルモンドが必ず勝つように仕組まれた出来レース。それにドロンが毎回つき合っていたということは相棒の意見を尊重し、彼に命に預けていた…ということだ。
これぞ無言の友情。
男泣きからの咽び泣き。
コイントリックを看破されたベルモンドが、ばつが悪そうに吐き捨てたセリフもまた名言。
「世の中にはツキなんてねえのさ」
◆「所作の同期」と「ドロンのホモ期」◆
そして本作を楽しむ2つめのポイントはホモ。
ホモと言ってもホモセクシュアル(同性愛)ではなくてホモソーシャル(男性的連帯感)の意であるから、いちいち怒ってこないでね、LGBT団体のひと!
ドロンとベルモンドは異常に仲がよくて、二人の運命共同体ぶりを表現するために所作を同期させるということまで執拗にやっている。
たとえば銃を構えるポージング、横並びで歩く時の歩幅、ポスターにもなっている車上の二人。片方が笑ったらもう片方も微笑むし、走り方から殴り方までまったく同じ。もう一卵性双生児かと。実際、劇中では左右対称の構図が頻繁に使われている。
ベルモンドのトリック同様、この二人はコインの裏表ではなく両面とも表(または裏)の運命共同体なのだ。
そこまでして似た者同士の二人を描いてきたからこそ、別々の道を進むラストシーンがしたたか胸を打つ…。
ちなみにアラン・ドロンは、セクシャルな意味でもソーシャルな意味でもホモを演じることが多い。というか代表作はすべてホモ映画だ。
『冒険者たち』は同じ女を愛した男二人の友情に着地するし、『さらば友よ』に至っては密室に閉じ込められた男二人が裸で汗だくになる映画。
ドロンが親友を殺害する『太陽がいっぱい』は、「彼は殺した親友を愛していた」ということが淀川長治先生の評論によってつまびらかになった(淀川先生もゲイをカミングアウトした評論家なので、当時大っぴらに描かれなかった同性愛描写をめざとくキャッチする天才だった)。
実生活ではあまりに派手すぎる女性遍歴を持つドロンだが、スクリーンの中では恋より友情!
もしかすると、世界最初の腐女子というのはアラン・ドロンの女性ファンかもしれない。
というわけで、『さらば友よ』に続いてまたしても腐女子に媚びを売るような評になってしまったことに忸怩たる思いを抱えながら、最後にこのレコメンドを残します。
「腐女子の皆さん、必見です!」
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