ゴダールアレルギーを貫通した「踊らないミュージカル」。
1961年。ジャン=リュック・ゴダール監督。アンナ・カリーナ、ジャン=クロード・ブリアリ、ジャン=ポール・ベルモンド。
キャバレーの踊り子アンジェラは一緒に暮らす恋人エミールに、今すぐに子どもが欲しいと言い出す。エミールはそんな彼女に戸惑いを隠せない。そこへ、アンジェラに想いを寄せる青年アルフレッドが現れ…。(映画.comより)
ついこないだ2020年になったばかりだっつーのに言うてる間に3月になるという現実をどう受け入れていくかについて皆さんと膝を付き合わせて真剣に話し合っていく必要があるなんて考えてるうちに2月24日を迎えたる私が憂鬱な表情で朝の挨拶をカマしていくわけです。おはようございます。
それはそうと…
これまで私はTwitterのことをトゥイッターと言ってきたけど、今後こういう呼び方はせず、普通にTwitterと言っていくことを宣言しますっ。
トゥイッターという呼び方は自分で見つけた言葉なのでオレ語として認定してたんだけど、どうやら既に世間ではわりと浸透してる言葉らしいじゃん。最近知って「恥ずー」と思ったよ。私はみんなが使ってる俗語やネットスラングに背を向けて「自分の言葉」を紡ぐことがかっこいいと思ってる結構イタい人間なので「みんなが使うなら僕は使わないよ」と、天邪鬼になっちまうわけです。
たとえば私は、マイケル・ケインの映画を扱ったときには「枚挙に暇がナイケル・ケイン」という一級ギャグを駆使して読者から愛想笑いを搔き集めているのだけど、万が一よ? 万が一、このギャグが流行って皆が使い始めたら途端に使う気をなくしてしまうんだ。「ああ、もうこの言葉は皆のモノになってしまったんだ…」と切なさを感じながらも「よかったじゃないか、ナイケル・ケイン。あっちに行っても元気でやっていくんだぞ」と心から祝福して笑顔で送り出すみたいな、まるで娘を嫁に出す笠智衆マインドに涙がほろり、なのさ。
矛盾するようだが、そんな私も人の言葉を使いまくっている。
実際、どれだけ「自分の言葉」と豪語しようが、発した瞬間に「みんなのモノ」になるので、言葉の使用に規制も紛糾もあってはならない、とも思っている。
むしろ「いいな!」と思ったフレーズはどんどん使っていくべきだし、それで言語表現が豊かになるならそれに越したことはないわけだろ。引用もパクりもヘッタクレもねえんだよ。「差別用語だ!」、「禁止用語だ!」。うるせえよ。狩られる前に使っちまえ。背伸びして使った言葉はどうせバレるからいいんです。言葉には寿命があるし、早い話が使ったもん勝ちだ。
何が言いたいかというと、みんな私の名言を広めてください。
ババ滑りしたこちらのゴミ記事を参考にして、明日からお友達にブチかましていこう!せっかく書いたのに反応が薄かったので二次利用して元を取っていくスタイル。
そんなわけで本日は『女は女である』をお送りしていくでー。
◆ゴダールが親しめすぎる◆
昨年12月14日、アンナ・カリーナがこの世を去った。
ココ・シャネルから芸名をもらったこの女優はジャン=リュック・ゴダールの公私に渡るパートナーであり、ヌーヴェルヴァーグのミューズであり、60年代フランスのファッションアイコンでもあった。
美人というタイプではないが、人後に落ちぬ可愛さと、何をやってもサマになるフォトジェニックな四肢を持った奇跡の女だ。
ちなみに当ブログのヘッダ(PCからしか見れないかも)には『気狂いピエロ』(65年)のアンナ・カリーナの画像を使っているが、やはりゴダールなくしてカリーナは語れない。逆にカリーナなくしてゴダールを語ることはできるが、どうせなら両方語っちゃおうということで『女は女である』である。であるの二乗。
『気狂いピエロ』のアンナ・カリーナ。
このジャン=リュック・ゴダールの監督3作目は、のちに『シェルブールの雨傘』(63年)や『ロシュフォールの恋人たち』(67年)でフランス映画音楽の大家となってゆくミシェル・ルグランが初めてスコアを書き下ろしたミュージカル映画だ。
うんにゃ。正確には歌ったり踊ったりしないミュージカル映画なのだ。
役者たちは踊りそうで踊らず、歌を途中でやめてしまい、ルグランの曲はあちこちでブツブツ途切れる。「ミュージカルが成立しない条件」を端から端まで網羅した反ミュージカル的ミュージカルちゅうわけ。ゴダールなのでこれくらいのことは平気でやってしまうわけです。
画面に字幕が入ったり、時空があられもなく引き裂かれたり、恋愛談義の途中で形容詞に関する議論をしたり、ゲリラ撮影に迷惑する通行人の不愉快そうな眼差しがカメラに向けられたりも平気でする。人が「ハイきたー。これだからゴダールって苦手なんだよなぁ」と思うことをキッチリぎっしり網羅した紛うことなきゴダール映画でござーる。
にいいいいも関わらず!
『女は女である』はゴダール史上最高度に見やすく、理解しやすく、親しみやすい作品としてゴダールアレルギーを抱えた人民から温かく歓待されたほとんど唯一の作品なのだ。ゴダールが親しめすぎる!
したがって本稿では、映画好きなら誰もが一度は玉砕し、絶望の淵に叩き落され、混乱と戦慄と半ベソの様相で「この人の映画は二度と観ない…」と悲愴な決意を固めたであろうゴダールへの警戒心を可能な限り解き、その傷ついた魂を慰撫、できれば救済したうえで、依然拗ねたあなたを「うーん、また観てやってもいいかも…」と思わせることを最終目標とした文章を綴っていくぜ。ヘイ。
間違っても「ソニマージュがうんぬん!!」とか「メタポリティクスがかんぬん!!」とか「ジガ・ヴェルトフ集団がちょgるどんガンぬn! フンヌ! 憤怒ーッ!!」みたいな精神錯乱のごとき映画論は展開しないので安心されたい。
アンナ・カリーナの詰め合わせフォト(デラックス版)を作りました。
あらすじを紹介する。
…と書いて驚くのは、これまで別のSNS等で15本ほどゴダール評を書いてきて「あらすじ」という言葉を使ったのは今回が初めて…というほど、本作には「一応のあらすじ」が存在するし、他のゴダール作品には「一応のあらすじ」すら存在しないからである。
所はパリ、天気は曇り。「今すぐ子供が欲しい!」と言い出したアンナ・カリーナに、恋人のジャン=クロード・ブリアリが「子供などいらん!」と言ったことで痴話喧嘩が勃発。以前からカリーナを恋慕していた男友達のジャン=ポール・ベルモンドがこれ好機とばかりにカリーナに猛アタックを仕掛けるが…といった中身である。
ゴダール作品に付き物のワケのわからない映画論や政治論は一切なし。人物がカメラに向かって観念的な話をすることもなければ他の映画やニュース映像の断片が挿入されることもないので、ひとまず僕たちの頭がイカれまくる心配はない。
ヌーヴェルヴァーグ三大俳優のカリーナ&ブリアリ&ベルモンドの最高にポップな恋愛劇に「おしゃれじゃーん」などと下北沢のサブカル野郎のごとき感嘆詞を発し、歌い踊らぬミュージカルに「やばくなーい」などと渋谷の女子高生みたいな驚き方をし、肩肘張らず目くるめくフレンチ60sに目を悦ばせてやればいいのだ。わかりましたよね!?
ポスターにして壁に貼りてえショットの宝庫。こりゃ目に楽しいわ。
◆恋も食事も選択の余地なし◆
さて、どうしても子供が欲しいカリーナは「妊娠できる日絶対わかる装置」を使って今日が絶対妊娠できる日だと知り、24時間以内にブリアリとベッドインしようとするが「そう焦ることもあるまい」と彼。
ここからアパルトマンの一室で痴話喧嘩が始まるわけだが、喧嘩しても余計にベッドインが遠のくだけと思ったカリーナはどうにかして彼の機嫌を直そうとするもことごとく裏目に出てしまう。食卓での会話を見るにつけ、どうもこの二人はあまり相性がよくないように思えるのだ。
「ねえ、あなた。夕食はお魚とお肉どっちがいい?」
「魚だ」
「…お肉だとしたら何の肉がいい?」
「さあね。仔牛かな」
「…仔牛のかわりに牛肉だとしたら、ステーキとローストビーフどっち?」
「ステーキだな」
「…もしローストビーフなら、こんがりと生焼けどっちがいい?」
「生焼けだ」
「あなたツイてないわ…。今夜はこんがり焼けたローストビーフなの!」
運命(さだめ)!!!
どの道こんがり焼けたローストビーフという運命論的献立ッ!
だがこれが男女のリアルなのだ。当ててほしくて答えありきの二択を迫る女、それに誤答し続ける気の利かない男。子供がほしいというカリーナの心を判らないブリアリは、だから就寝時に「パジャマとネグリジェどっちがいい?」と訊ねられて「パジャマ」と即答するが、またしても膨れっ面で「ネグリジェにするわ!」と叫んだカリーナと険悪なムードになってしまう。
かと言って、ベルモンドが彼女の傷心をやさしく癒してくれる王子様なのかと言えばノン。ブリアリとの口論がピークに達したカリーナが「あんた達にはうんざり!」と言ったように、ベルモンドもまた捨て鉢気分のブリアリに「妻と寝てくれ」と頼まれて「いいのかい?」などと半ニヤけで返事するようなお調子者だったのだ。女は女である=男は男である。
ヌーヴェルヴァーグ俳優、ジャン=クロード・ブリアリ。
おもしろいシーンがある。
トンカチでコンコン叩かないとお湯が出てこない不思議なシャワーを見事に使いこなしたカリーナが、服を脱いで湯を浴びる気満々でいると不意に電話のベルが鳴ってこれに応対、ブリアリとの和解を試みるも「何が『ホント』だ!」、「『ホント?』って聞いただけよ!」などと「ホント」の発音が招いた誤解によって再び喧嘩。
ぷりぷり怒ったカリーナがバスローブを着たまま目玉焼きを作り始めると、またぞろ電話が鳴るのでこれに応対、今度の相手はベルモンドだったが「何が『ホント』だ」、「『ホント?』って聞いただけよ」なんて先程と同じやり取りをして、うんざりしながら電話を切る。
つまりカリーナにとってはブリアリもベルモンドも「あんた達」で、多少の個性の差こそあれ男は同じだけスットロいのだ。オラオラ系と王子様系の好対照なイケメン二人に惚れられて…みたいな都合のいい展開はマンガだけ。
夕食を訊かれた男に選択権などなかったように、女もまた恋の選択権を奪われているのである。わーお。
口利かない宣言をしたブリアリと本の文字を使って互いに貶し合う。実に可愛らしいシーンだが、以降ゴダールの政治映画にはこうしたテキスト主義が搭載されていく。
この電話シーンのおもしろさは、カリーナがブリアリからの電話を取る前にはトンカチを、ベルモンドからの電話を取る前にはフライパンを手にしていることである。まさに臨戦時の武器、女にとっての拳銃といったところか。
また、ベルモンドから電話がかかってきたときに目玉焼きを作っていた彼女は、ベルが鳴っている間にフライパンを振り、目玉焼きを宙に放り投げてから固定電話の方に向かい、電話口のベルモンドに「ちょっと待って」と言ったあと再びキッチンに戻って落下してきた目玉焼きを見事にキャッチする。
その間およそ6秒。
目玉焼きの滞空時間。
人が最も苦手とするゴダールのデタラメ編集も、本作ではホラ、こんなにキュート!
キュートといえば、この映画が例外的にゴダールアレルギーを貫通できた要因とも言えるのがファッションとインテリアの多彩さである。
まずもってアンナ・カリーナのバリエーション豊かなヘアスタイルの楽しさ。男たちの前では怒ったポーズを取りながらも、電話に出る前後にはヘタな歌を陽気に口ずさみ、機嫌がいい時には身をくねらせたり片足をピョッと上げてみせる、そのとめどないキューティ!
新聞を読みながら無関心を装うブリアリがいじわるな言葉でカリーナを傷つけながらも彼女のあとを子犬のように追いかけ回す稚気の憎めなさ!
愛を信じてもらえぬベルモンドが「壁に頭をぶつけたら信じてくれる?」と言ってカフェの向かいの店にゴチッと頭をぶつけに行く不可解な冒険!
こうした芝居の数々がファッションとして画面を彩っていく。
ここで見逃さずにおきたいのは、二人の男がカリーナの言動を模倣するというそれぞれのシーンだ。この模写/擬態は後のゴダール作品に通底する重要な主題なのだが、あー…云々かんぬん言わない約束なので割愛っ。
なんとも微笑ましい相互的模写。まるで役者のインテリア化。
◆愛のトリコロール◆
この映画をもう少し楽しみたい人は色に注目するといいよ、って話をします。
『女は女である』がゴダールのフィルモグラフィの中でもとりわけ重要作である理由は初のカラー映画だからである。
たとえば、フェリーニやヒッチコックやタチやベルイマンやトリュフォーやタルコフスキーのカラー映画とゴダールのカラー映画とでは「カラー」という言葉の意味合いがまるで違う。多くの作家が画面に付けた「カラー」は字義通り色を意味するが、ゴダールの「カラー」は思想であり言語であり政治なのだ。
色を戦略的に用いたゴダールカラーはフランス国旗を形成する青・白・赤のトリコロールになっており、これは『彼女について私が知っている二、三の事柄』(67年)や『中国女』(67年)あたりから顕在化し始めた好戦的な政治映画路線の中で少しずつ深化(つーか激化)していくわけだが、今回のような初期作ではそうした色彩戦略はかなり分かりやすいものとなっておりますよ。
カリーナは赤い服。
ブリアリは青のジャケット。
ベルモンドは茶系のコート。
この使い分けだ。「え、白は?」。白はカリーナとブリアリが身につけているよ~。
つまり“愛のトリコロール”はカリーナ×ブリアリのカップルによって既に(色彩的に)完成されており、ベルモンドはと言うと、爆弾騒動でカリーナの部屋に踏み入った刑事、どのシーンでもアパートの前で恋人と抱き合っている男、あるいは煙草の火種を分け与える通行人たちと同じく茶系の服を身にまとうことでトリコロールから弾き出された恋の惨敗者であることが初めから決定されちょるわけだ。
実際、赤のカリーナがブリアリと喧嘩別れしてベルモンドと親しくしている時でさえ「でも本当は彼が好きなの…」とばかりに青い服(ブリアリの色)を着ているので、こりゃあもう最終的にブリアリとくっ付きますよという大団円が早くも示唆されているのである。
やはり巧いなと思うのは、ベルモンドを白ではなく茶系(トリコロール以外のどうでもいい色)へと追いやったセンスである。映画史にテロを仕掛けた伝説の処女作『勝手にしやがれ』(59年)でウィンウィンの関係を築き、のちに世界的スターとなったジャン=ポール・ベルモンドを徹底して恋のライバル足りえない噛ませ犬に据えてみせた。この映画がオマージュを捧げたMGMのミュージカル『巴里のアメリカ人』(51年)で言えばジョルジュ・ゲタリの立ち位置、『上流社会』(56年)で言えばフランク・シナトラの立ち位置へと追いやられたベルモンド…。せつねぇー。
肩を寄せ合うカリーナとブリアリによってフランス国旗カラー(青・白・赤)は完成されている(画像上)。
その後、ブリアリと大喧嘩してベルモンドと会いながらも、彼女の心が誰に向いているかは服を見れば一目瞭然だ(画像下)。
この映画をもっともっと楽しみたいよーというワガママな人は小ネタに注目するといいかもよ、って話を最後にします。
ヌーヴェルヴァーグ全盛の時期(1961年)にあって、ホットな映画人を続々と画面に引きずり込んだ本作は、ゴダールの重要作である前に映画史的重要作なのである。
映画冒頭では『地下鉄のザジ』(60年)のカトリーヌ・ドモンジョが雑誌の表紙として登場し、トリュフォーの『ピアニストを撃て』(60年)でヒロインを務めたマリー・デュボワがセルフパロディ的に友情出演。
また、何度見ても「嘘だろオイ」と目を剥いてしまうのはトリュフォー作『突然炎のごとく』(62年)を撮影中のジャンヌ・モローだ(後に崩れ去ってしまうゴダールとトリュフォーの友情をここぞとばかりに味わって頂きたい)。
その他、劇中のベルモンドは「家に帰って『勝手にしやがれ』を観ないと」と自らの主演作に言及するし、ベルモンドの役名「アルフレッド・ルビッチ」は当然ながらアルフレッド・ヒッチコックとエルンスト・ルビッチの融合(映画批評家でもあるゴダールやトリュフォーが誌をあげて評価していた作家勢)。
映画鑑賞後に書籍やネットで復習していると『パリところどころ』(65年)の一篇が引用されていたり、ジガ・ヴェルトフ集団期のエルネスト・メンツェルが出演していたりなど、ずいぶん取りこぼした小ネタを後から知って不明を恥じたが、勿論こんな小ネタに気付いたからといって何かがプラスに働くわけではない。せいぜい「ひゃ」もしくは「ひゃあ!」と思う程度だ。でも気付けたら嬉しいね~。
女帝ジャンヌ・モロー爆裂降臨!
結局のところ本作の価値は、ゴダールの…ひいてはヌーヴェルヴァーグの“取っつきにくさ”を取り払った点にあると思う。
大層おめでたいことに、人はヌーヴェルヴァーグの難解性だの芸術性だのといったありもしない幻想も囚われているが(難解映画を難解とすることが難解映画を難解たらしめる。すべての芸術に言えることだ。芸術という言葉を使うこと自体が芸術と距離を取り、我が身を無理解の領域へと後ずさりさせることに他ならないのだ)、そのような幻想を打ち砕いたのが『女は女である』という同語反復、すなわち映画に難解もクソも芸術もヘチマも存在せず、ただ映画は映画であるというバカみたいにシンプルな帰結への祝福なのである。
「んぎゃー! おしゃれでカワイイ!」
この一言にまさる批評はない。おしゃれはおしゃれ。かわいいはかわいい。女は女。男は男。映画は映画。
きみが難解と思ってるもの、真っすぐ見てみると意外と単純かもな。
ウインク。暗転。