二通りの目線を通して描かれるDQN親子のモーテル生活譚。
2017年。ショーン・ベイカー監督。ブルックリン・キンバリー・プリンス、ブリア・ヴィネイト、ウィレム・デフォー。
定住する家を失った6歳の少女ムーニーと母親ヘイリーは、フロリダ・ディズニーワールドのすぐ側にあるモーテルでその日暮らしの生活を送っている。周囲の大人たちは厳しい現実に苦しんでいたが、ムーニーは同じモーテルで暮らす子どもたちとともに冒険に満ちた日々を過ごし、管理人ボビーはそんな子どもたちを厳しくも温かく見守っていた。そんなムーニーの日常が、ある出来事をきっかけに大きく変わりはじめる。(映画.comより)
テ・テ・テ・テッテ、テッテテーン。
阿ー呆っ♪
テ・テ・テ・テッテ、テッテテーン。
阿ー呆っ♪
それではさっそく映画評に参るとしましょう。前置きなんて書いていられるほど私は暇ではない。
本日取り上げたるは『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』。
今回は技術論めいた話に終始した若干カタめの文章なので、オープニングで流れるクール&ザ・ギャングの大ヒットファンクナンバー「Celebration」を聴きながら軽く読んで頂くのがいいのとちがいますか。
テ・テ・テ・テッテ、テッテテーン。
阿ー呆っ♪
◆腐れ外道の巣窟◆
ローアングル(仰角)とローポジション(低位置)が世界の広さを誇張してみせる。まるで広角レンズを通して景色を眺めたときのように、ゾッとするほど世界が広い。
もちろんこのカメラワークは本作の主人公であるキッズの目線に立つからこそ要請されたものだ。ばかみたいに明るいフロリダの晴天や、ばかみたいにどぎつい原色を使ったモーテルの色彩も、ひょっとすると「キッズの目にはこう見えている」という補正が掛けられているのかもしれない。
というのも、この映画の舞台はプロジェクト(低所得者向けの集合住宅)。人々を吸いこんでは吐き出す巨大なモーテルでの営為が描かれた、紛うことなきモーテル映画なのである。
そこで暮らすブルックリン・キンバリー・プリンス演じる6歳の少女は2人の男の子といつもつるんで遊んでいるが、その「遊び」というのが凶悪極まりないのである。
モーテルの二階から駐車場の車に向かって唾を吐きまくる。
車を唾だらけにされた持ち主のおばさんが「何してけつかる。下りて来い!」と怒鳴ると、中指を立てたキッズは「うるせえバーカ!」、「死ねババア!」と叫んでゲラゲラ笑いながら逃げていく。鬼畜の所業、ここに極まれり。
カンカンに怒ったおばさんが、鬼畜嬢プリンスが住んでいる部屋のドアを叩いて「おたくの娘が私の車に唾吐いたのよ!」と抗議すると、中から出てきた母親ブリア・ヴィネイトは全身刺青だらけで髪が青かった。
「何が悪いのさ? 元気がある証拠じゃーん」
その瞬間、私は「あ…、DQN」と思った。本作はDQN親子を描いた作品なのだ。
ブリア演じるマミーは自分の娘が人に迷惑をかけても叱らないどころか、その相手に謝りもしないような良識クラッシャー。特技は逆ギレ。昼間は卸業者から安く買った香水を観光客相手に高値で売りつけて日銭を稼ぎ、夜は鬼畜嬢プリンスを寝かしつけたあとに夜遊びに出掛ける。
その血を立派に受け継いだ鬼畜嬢プリンスは、モーテルのブレーカーを落として騒ぎを起こしたり、廃家に火をつけて火事を起こすなどして日々楽しく過ごしている。
まぁ、はっきり言って腐れ外道の巣窟なのだが、そんなモーテルにとって唯一の良心といえるのが管理人のウィレム・デフォーである。
小まめにモーテルを巡回するデフォーは、悪戯好きのキッズを見張り、ブリアマミーから家賃を取り立て、敷地内に忍び込んだ変態親父を追い返すなど実にナイスな管理人。管理の鬼である。
そんなモーテルの、ときに平穏、ときに不穏な日常がコラージュされたのが『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』というわけだ。わかりましたか。
◆子供目線と大人目線を同時に描く◆
監督のショーン・ベイカーは全編iPhoneで撮影された『タンジェリン』(15年)で高く評価された新人監督だが、寡聞にして『タンジェリン』は未見。観よう観ようと思いつつも心のどこかで一抹の反発心を抱いていた。「新しさを追求するのは結構なことだけど、全編スマホ撮影は…さすがに映画ナメてない?」というか「それをやるからにはよっぽど映画の基礎が出来てるんだろうな?」という不信感だ。
だがそうした不信感を『フロリダ・プロジェクト』は取り払ってくれた。
少なくとも、全編一人称視点の『ハードコア』(15年)や、全編セリフ、音楽、字幕、ナレーションなしの『ザ・トライブ』(15年)よりも遥かに映画なのである。
往々にして画期性を狙った作品の多くは「とにかく斬新なことをして目立てばいい」とか「誰もやってないことをやればいい」といったパイオニア神話に基づいて斬新という名のただのデタラメに終始したものばかりだが、そうした作品のことを「斬新な映画」ではなく「斬新な自慰」と呼ぶ。
だが本作はパイオニア神話に取り憑かれているわけでも、斬新な自慰に興じているわけでもない。正しく「映画」を保持しながら「画期性」も狙う…という意味では、どこかグザヴィエ・ドランにも通じる型破りだけど意外と型を持っているというあたりにいたく感心したのである。ぎょぼぼ。
先にも述べたキッズ目線=ローアングル/ローポジションの妙。
これは『ルーム』(15年)にヒントを得た可能性が非常に高いわけだが、あくまで局所的=効果的に使われていた『ルーム』での用法とは異なり、本作ではほぼ全編「執拗」といっていいほどローアングル・ローポジションが貫かれている。まずここがハッタリとしてうまい。
なぜならマミーやデフォーといった「大人」しか出てこないシーンでは、ごく一般的なアイレベル(被写体の目と同じ高さにカメラを構えた構図)で撮影されているからだ。
つまり本作のカメラワークは「ロー」と「アイレベル」に分けられる。
ローのショットはキッズから見た世界、アイレベルのショットは大人から見た世界。本作は2パターンのカメラポジションを使い分けることで大人と子供では世界の見え方が違うということを視覚的に表現しているのだ。
このように本作には「二通りの目線」が共存する。子供の目線は「空想と希望」、大人の目線は「現実と絶望」を世界に見るのである。
もうひとつすごいのは、カメラワークという物理の範疇を越えて、子供から見た世界の中にも「大人の目線」が介在し、大人から見た世界の中にも「子供の目線」が介在する…という立体的な視点の導入である。
たとえば、鬼畜嬢たちがなけなしの金でアイスクリームを買って交互に回し舐めするシーンには友達同士でシェアする楽しさが画面いっぱいに描かれている反面、この子たちが全員分のアイスクリームを買う金もないほどギリギリの暮らしを送っているという経済的困窮も炙り出されている。
あるいは、いよいよ貯金が底を尽きたマミーがファッションショーと称して水着姿になって鬼畜嬢と自撮りした直後に羽振りがよくなる…という不自然なシーン。その間には、鬼畜嬢が風呂に浸かりながら楽しそうに人形遊びをする長回しが何度も挿入される。実は、金に困ったマミーは自撮りした水着写真を出会い系サイトに載せて、娘を風呂場に閉じ込めている間に部屋で売春をおこなって金を稼いでいたのだ。
だが映画はマミーの売春行為を一度も映すことなく、あくまで娘から見た「楽しいファッションショー」と「楽しい風呂場遊び」だけにカメラを向ける。
このように「表面上は楽しそうなシーンだけど実はその裏では…」という両義的なショットによって「大人から見た苛烈な現実」と「子供から見える煌びやかな世界」を同時に描いているのである。
親にとっては売春の下準備でも、子供から見ればファッションショー。
◆結局デフォー映画◆
一見するとアトランダムに配置されたようなシーンの連なりが、実は前後のシーンと有機的に呼応していて苦くも甘美なドラマに濃淡をつけている。
なんといっても、善悪二元論では判断できない中間色豊かなキャラクター群がいい。
マミーの言動はちょっと行きすぎだが、たとえば越していった友達の父親なんかは見るからにドラッグディーラーのようなナリをしているにも関わらず、存外まともな父親なのかもしれないと思わせる。
鬼畜嬢にしても、絶妙なバランス感覚によってキッズ特有の愛らしさと鬱陶しさが等分に描かれている。
そんなキッズの「愛らしさと鬱陶しさ」を受け止めるのが管理人のデフォーだ。
デフォーはモーテルの守護者ではあっても、そこで暮らす人々を守護することに関しては何の能力も資格も持たない。貧苦に喘ぐ親子に干渉できないどころか、自らの仕事として家賃を取り立てねばならないのだ。それゆえに親子からは嫌われているが、われわれ観客はデフォーの陰の努力をよく知っているからこそ、親子の荒んだ暮らしぶりをただ傍観することしかできないデフォーの視点と同化してこのモーテルを見守り続けるのである。
また、子供たちの冒険はほぼ例外なくドリーショットで切り取られる。
鬼畜嬢たちがモーテルを抜け出して近所をうろつく様子を、カメラはフロリダの力強い景色をバックにおさめながら横移動の水平構図で追っていくのだ。しかし、だからといって本作がジム・ジャームッシュやウェス・アンダーソンを安易に模倣しているわけではない。
この映画のファーストシーンとラストシーンは画面奥に向かって全力疾走するキッズの背中を捉えた「奥行きのあるショット」が使われているからだ。
ファーストシーンではモーテルに向かう少年の「帰着」を、ラストシーンではモーテルから駆け出した少女たちの「出発」を祝福した、途方もなく素晴らしいショットである。
ちなみに、賛否両論を呼んだ夢幻的な結末は「誰も観たことがないマジカルエンド」などというわけのわからない惹句で語られているが、どう見てもあのラストはタルコフスキーの『僕の村は戦場だった』(62年)。誰も観たことがないマジカルエンド?
追記
夕暮れのモーテルで煙草を吸ったり、管理人室でデスクワークをしたり、トップレスで日光浴をするババアに「乳を隠してくれ」と注意を促すデフォーがたっぷりご覧頂けます。デフォ顔も満載だ。
それでなくとも、およそ賞レースとは無縁だったデフォーが本作では数々の助演男優賞に輝いている。『フロリダ・プロジェクト』はデフォー総決算といっていいほど記念碑的なデフォー映画なのだ!