シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

マザーレス・ブルックリン

ぼんちおさむサスペンスとケビン・コスナー症候群が炸裂したほんわかノワール

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2019年。エドワード・ノートン監督。エドワード・ノートン、ググ・バサ=ロー、ブルース・ウィリス、ウィレム・デフォー。

 

障害を抱えながらも驚異的な記憶力を持つ私立探偵のライオネル・エスログの人生の恩人であり、唯一の友人でもあるボスのフランク・ミナが殺害された。事件の真相を探るべく、エスログがハーレムのジャズクラブ、ブルックリンのスラム街と大都会の闇に迫っていく。わずかな手掛かり、天性の勘、そして行動力を頼りに事件を追うエスログがたどり着いたのは、腐敗した街でもっとも危険と称される黒幕の男だった。(映画.comより)

  

うにゃーす。

昨日、KONMA08さんから「はてなブロガーバトン」なるものが回ってきた。

無視しようとした矢先、たしか以前にも何かの企画でご指名を頂き、それを無視してすごくバツの悪い思いをしたことがあったなぁと想起。

その「裏切りの無視事件」を機に、私は身近な読者友だちから、つれない男、暖簾に腕押し男、人情味を欠きすぎた男、という目で見られてる気がしてなりません。実際、KONMAさん自身も「このような企画には返答しないであろう男に微かな希望をこめてバトンを回します」と、また今回も無視されることを見越したような及び腰で私を指名してらっしゃるし。

やりますよ!

やりますとも。僕はもう二度とKONMAさんを無視しないと誓ったんだ。KONMAさんだけでなく、Gさんからのわけのわからないコメントや、やなぎやさんからのわけのわからないTwitterのリプライも無視しないと誓ったんだ。

人を無視してはいけないんだ!

 

というわけで、今、はてブ界隈で話題らしい「はてなブロガーバトン」にお答えします。

なるほど。履歴書みたいなフォーマットがあって、そこに回答を書き込んでいく形式なのね。最後に自分のお気に入り記事を貼っつけて、次にバトンを回したい人をIDコールするんだって! 楽しそう~。

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ハイ。というわけで、さっさと映画評やっていきましょう。

本日は『マザーレス・ブルックリン』です!

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◆狂気派の草分け的俳優◆

ノートンについて語るのは当ブログでは初めてだ。

ノートンと言ってもウイルス対策用セキュリティソフトの方のノートンではなくて俳優の方のエドワード・ノートンなのだが、彼は90年代中期からゼロ年代初頭における「性格俳優」の代名詞的存在だった。

『真実の行方』(96年)で衝撃的なデビューを飾ってからは『アメリカン・ヒストリーX』(98年)『ファイト・クラブ』(99年)など、今でも語り継がれる作品ですさまじい怪演を見せ、30歳になる頃には超実力派スターの仲間入り。役のためなら肉体改造も厭わず、魂すら悪魔に売るといったタイプの芝居キチガイである。

ほらほら、近年多いでしょう。マシュー・マコノヒー、クリスチャン・ベール、ジェームズ・マカヴォイ、ジェイク・ギレンホール、トム・ハーディ、ジョセフ・ゴードン=レヴィットとか。あの辺にいる狂ったお兄さん達だよ。「演技派」という言葉は嫌いなので「狂気派」と私は呼んでいるのだけど。

簡単に言えばその走りです。

ノートン以降「役者たるもの狂気たれ」みたいなムードがハリウッドシーンを覆い尽くした。だって、マコちゃんやクリちゃんだって元は肉体改造するようなタイプじゃなかったからね。きっとノートンに触発されたんだと思うよ。

f:id:hukadume7272:20200711013527j:plain強迫性障害の会社員からネオナチのプッツンまで。

 

そんな狂気派のパイオニアたるノートンだが、2000年に入った途端に勢いが衰えだす。

映画に対する志が高すぎたがゆえに製作・脚本に介入しようとし、『レッド・ドラゴン』(02年)『ミニミニ大作戦』(03年)では監督と衝突。「どうかわかってくれ、エドワード。イエスと言ってくれ」と頼まれても「ノートン」と口ごたえするなどした。そのうち「あいつと仕事すると面倒臭いぞ」という噂が業界内に広まり問題児扱いされてしまったのだ。

また、アメコミ主演作『インクレディブル・ハルク』(08年)では脚本の出来を批判。マーベル側から「アベンジャーズに出てくれる…?」と訊かれて「ノートン」と拒否した経験を持つ。

「僕はああいった種類の映画に出演することに時間を費やしたいとは思わない」とか「最近の映画業界は中規模で大人向けの思慮深い作品を作りたがらない」と発言しアメコミ映画を暗に批判したが、自身はその後『ソーセージ・パーティー』(16年)という下ネタアニメや『アリータ: バトル・エンジェル』(19年)などというアメコミとそう大差ない映画に出演しているので、まさに「目くそ鼻くそを笑う」を地でいくことに成功したといえる。

そんなわけで近年めっきり威光が衰えてしまったノートンが、ついに「映画スタジオが大人向けの作品を作らないなら僕が作ってやるぞ!」と発奮し、自ら監督/脚本/主演を兼任した『マザーレス・ブルックリン』を発表した。イエス!

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◆ほんわかノワールの草分け的作品◆

1957年のニューヨークを舞台に、ノートン演じる私立探偵がボスの死を調べるうちに都市開発の裏に潜む政治的陰謀に巻き込まれていく…というハードボイルド小説を思わせる内容で、まあ一言でいえばフィルム・ノワールにオマージュを捧げた作品である。

冒頭で死ぬボス役にブルース・ウィリス、物語の鍵を握るヒロインに『女神の見えざる手』(16年)ググ・バサ=ロー、街を牛耳る都市計画家がお腹ぶるぶるのアレック・ボールドウィン、素性不明の乞食をウィレム・デフォーが演じる。

エドワード・ノートンが構想に20年費やした私的ノワール『マザーレス・ブルックリン』は、NY都市開発の裏に蠢く巨大な闇に迫りながらも、どちらかといえば再開発区から追い出される貧困層の生活にスポットを当てた都市論的な内容だった。

というのも、エドワート・ノートンの祖父ジェームズ・ラウスはワシントンD.C.の郊外にコロンビアという人工都市を作った都市プランナーであり、そこで育ったノートンも大学卒業後に祖父の手伝いをしていたという都市計画家の卵(ちなみに祖父ラウスはショッピングモールを考案した人物でもある)。また、父エドワード・モーア・ノートンJr.は環境問題に取り組む弁護士だ。

そんなわけで本作は「街ってなんだろう?」ということを考える地域密着型の都市開発ノワールという、なんだかよく分からないけど志だけは立派な感じがする作品に仕上がった。

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相変わらず腹をぶるぶるさせていたボールドウィン。

 

といっても堅苦しい内容ではない。何しろノートン演じる主人公がトゥレット症候群なのだ。

トゥレット症候群というのは、ビートたけしみたいに顔や肩をピクッと痙攣させたり、ぼんちおさむみたいに時おり奇声を発してしまうという神経疾患のひとつ。要するに“癖”だな。本人の意思に関わらず癖が出てしまうのである。

ノートンが頻繁に発する言葉は「もし(if)!」。突発的に「もし!」と言ってしまうのだ。

さらには、言葉遊びみたいな全く意味のないジョークも言ってしまう。たとえば、相手が「ところが―…」と言った瞬間「所かまわずトコロテン!」と叫んで「なんだお前それは」みたいな顔をされたり…といった具合だ。

よって発作的に意味のない言葉を叫んでは周囲の人に白い目で見られ、その都度「ごめん、こういう病気なんだ…」と釈明した直後に「もし!」って言っちゃう…みたいなくだりが最初から最後まで繰り返されるのでノワールとしてはどうも締まらない…、というか気が散ることおびただしい。その反面、癖が出るのを必死で抑えようとするノートンがぼんちおさむサスペンスを醸成してもいる…という風変わりなノワールなんである。

したがって観る者は、シリアスな場面で急にジョークが言いたくなって苦しみ出すノートンに「今は我慢して! すごい空気になるから今は我慢して!」とヒヤヒヤしながら癖が発動しないことを祈るが、その祈りも虚しく「トンチキ、トンカチ、頭でっかち!」。あー言っちゃった…。

「もし!」

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フザけまいとしてもフザけたことを言ってしまうノートン。

 

良くも悪くもゆったりとした映画だ。展開性に乏しく、待てど暮らせど核心に迫らぬまま過ぎ去る144分は人によっては耐えがたい睡魔となる可能性を秘めてもいる。

なにしろボスであるB・ウィリスの死から都市開発の闇に辿り着くまでの流れがハイパーまだるっこしい上、途中で出てくるググ・バサ=ローやウィレム・デフォーの正体も後出しジャンケン的に明かされ、黒幕のボールドウィンに至ってはべつにブルース殺害事件に関与してるわけでもなければ最終的に正義の鉄槌が下されるわけでもない…という非常にグレーな存在。まだるっこいな~。

そもそもノートンの行動原理はボスが殺された理由、および犯人の究明にあったわけだが、それもなんだか白黒はっきりしねえの。ファーストシーンではB・ウィリスが悪そうな男たちとの交渉中に撃たれて死んじゃうわけだが、結局「本当はこういう事情があって実はこの人物に殺されたんです!」みたいな衝撃の真相がまるで無くて、なんかフツーに悪い奴らと交渉してて揉めて撃たれて死んだっていう…見たまんまの出来事が真相だというんだよ。なんだそりゃ。

あと、撃たれたボスは「フォルモサ」という言葉を残して死んでしまったので、ノートンがその言葉の意味を調べ始めるところから物語は動いていく。まあ『市民ケーン』(41年)の「バラのつぼみ」をやってるわけです。

そして、のちに登場するボールドウィンの役名が「モーゼス」なのだが、実はボスは「フォルモサ」ではなくFor Mosesと言っていたことが発覚する。すべてはノートンの聞き間違いだったのだ!

空耳に基づいたミステリーやめろ。

f:id:hukadume7272:20200624080341j:plainついにダイするダイ・ハード。

 

全体的に何かやってるようだけど何をやってるのか分からないというタイプの話の輪郭ボケボケ映画で、まあノワールなんて大体そんなもんなのだが、私は嫌いじゃないねぇ、この感じ。デパルマの『ブラック・ダリア』(06年)や、フィンチャーの『ゾディアック』(07年)、ちょい昔でいえば『チャイナタウン』(74年)、最近では『アンダー・ザ・シルバーレイク』(18年)といった現代ノワール特有のわざと話を複雑にしてるとしか思えないまだるっこしさが炸裂していて「人によってはたまらなく苦痛だろうな」と思いながら楽しんだ俺がいました。

50年代のNYの美術衣装は郷愁と憧憬まるだしで、近年のウディ・アレン作品のように「リアルなNY」よりも「オレのNY」を全面に出している。都市計画家の卵エドワード・ノートンのアーバンデザインが光っております。

それに錦上花を添えたのがジャズミュージシャンのウィントン・マルサリスが手掛けたスコア。ハーレムのジャズクラブでノートンが演奏に聞き惚れながら「もし!」を我慢し続ける…というJAZZぼんちサスペンスは一見の価値あり。

全体の印象としては微笑ましい作品です。ノワールに付き物の密謀とか悪徳といったモチーフを扱いながらも戦々恐々たる雰囲気はなく、監督ノートンの目から見た“やさしい世界”が瀰漫している。映画の調子がヤケにほんわかしているんである。そういえばトム・ハンクス×ポール・ニューマン×ジュード・ロウで『子連れ狼』をハリウッドリメイクした『ロード・トゥ・パーディション』(02年)なんてギャング映画があったが、あれよりも更にほんわかしているわ。

今後、ほんわかノワールというのが流行るかもしれない。

f:id:hukadume7272:20200624080927j:plain「オレのNY」を撮り散らかすノートン。

 

ケビン・コスナー症候群

一点だけ難癖をつけるとすれば、やはり監督業に手を出した俳優が発症しがちなケビン・コスナー症候群に思っくそ陥っている点である。

監督という立場を利用して『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(90年)『ポストマン』(97年)といったナルシスティック超大作でさんざっぱら英雄願望を叶え倒してきたケビン・コスナーの海より深い自己愛は、その後メル・ギブソンへと受け継がれて「自分で監督すればオレのかっこいいところ見せ放題じゃん!」と既得権益層が跋扈する呼び水となり、爾来ジョージ・クルーニーやベン・スティラーといった俳優勢にメガホンを握らせた。これをケビン・コスナー症候群という。

本作のエドワード・ノートンもまさにコスナーをこじらせてて「どう僕って演技うまいでしょ見てええええええええん」という自己顕示欲がそのままスクリーンに照射しとったわ。「そうです、僕こそが狂気系の走りです」と言わんばかりに意味もなく一人芝居しているシーンが長くて長くて…。いかにも俳優が撮った映画ですって感じ。

そもそもトゥレット症候群という設定自体が自己顕示を実現する装置なのよね。

そも、エドワード・ノートンという役者は『真実の行方』『ファイト・クラブ』に顕著なように二面性を持つ分裂症的な役を得意とするので、たとえば本作でもヒロインのググ・バサ=ローに向かって自分の病気を説明する際に「頭の中にもう一人の自分がいて、そいつが勝手に喋ってるような感覚なんだ」なんてことを言う。つまりトゥレット症候群を多重人格障害として故意に曲解、牽強付会、自分の得意なフィールドに役を寄せて芝居してるわけ。

そういう意味では、てめえの顔が最もよく映える角度を探してパシャパシャ自撮りしてるナルシストの自惚れ撮影会を見せつけられてるようで…共感性羞恥っていうのかな、それがすごい。これ見よがしにあからさまというか、あからさまなこれ見よがしというか…。本来「上手い芝居」ってさり気なく見せるから上手いと感じるものなんだけどね。

 

で、そういう「メガホン握った俳優のエゴ」が祟っての144分です。

見てほしい自分を存分に見てもらえる喜びから思わず撮ってしまった贅肉ショットとか、主人公が過去の出来事を思い出すたびにフィルムを安易に逆再生するみたいな監督として指揮が執れる喜びから思わずやっちゃう編集遊びの数々に「そうだね。気持ちいいね。観てるこっちは苦痛だけどね」ってひたすら付き合わされる長丁場のオナニーショー。144分。

たとえば、ファーストシーンで死んだB・ウィリスを精神世界の中で何度も登場させるあたりが「役者が撮った映画」なんですよ。これが職業監督なら、最初に撮ったフィルムを“主人公のフラッシュバック”という形で使い回すのが最も合理的だが、いかんせんノートンは役者監督=役者ファーストなので、すでに撮ったB・ウィリスのシーンを使い回すのではなく新たにシーンを用意してもう一度演じさせるんだよ。つまり彼の出番を増やしてあげてるわけ。

まあ、そっちの方が役者にとっては美味しいんだろうけど、観てる側にとっては非合理的でまだるっこしいだけなので、それはエゴ!

これは私から映画界へのお願いです。

役者が映画撮らないで。

ほぼ成功しないから。おねがい。ブラッド・ピットを見習って。

f:id:hukadume7272:20200624081131j:plainデフォーもいい味出してます。

 

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