シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

牯嶺街少年殺人事件

エドワード・ヤンを観ると他の映画が観れなくなる。だが観なければならない作品。

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1991年。エドワード・ヤン監督。チャン・チェン、リサ・ヤン、ワン・チーザン。

 

61年夏、14歳の少年が同い年のガールフレンドを殺害するという、台湾で初の未成年による殺人事件が起こる。不良少年同士の抗争、プレスリーに憧れる少年の夢、大陸に帰りたいと願う少年の親世代の焦りと不安を描きながら、当時の台湾の社会的・精神的背景を浮き彫りにしていく。(映画.comより)

 

著名人が死んだときにファンでもないのにさも「ファンでした」みたいなスタンスで追悼ツイートをする奴を追討したい。死んだときだけ都合よくファンになるな!

哀悼の意を表す「R.I.P.」という言葉に漂うお手軽感もなんか嫌いです。三文字で済ますん? みたいな。おまえの悲しみは三文字で済むん? 安っ。および、軽っ。

ていうか、死んだ人って評価爆上がりしますよね。特にTwitterで強く感じます。

まぁ、死者の悪口を言うのはナシにしよーぜみたいな不文律があるので必然的に生前の活躍を讃えるツイートばかりになるんでしょうけど。それは人々のやさしみなんでしょうけど。

それにしてもだいぶ死に補正がかかってますよね。まぁいいんだけどさ。

でも、死んだ人が俳優とかミュージシャンみたいな「表現者」の場合は脳死で全肯定するのではなく、むしろ真剣に評価したいと私なんかは愚考するものです。真剣勝負してきた表現者の生きざまを軽々しく全肯定するのは却って失礼だと思うので。

あと、超大物が死んだときに、まるで遠い目をするみたいな憂いを滲ませつつ「またひとつの時代が終わった…」って呟く奴。

ええ加減にせえよ。何回終わんねん。

あといくつ時代が残ってるのか教えてくれ。おまえが言うたびにカウントしていくから。

そんなわけで追悼ツイートが嫌いですって話でした。ちなみに私は原理主義無神論者なので好きな著名人が死んでもご冥福をお祈りしません。「祈り」というのは宗教儀式ですからね。ただ想いを馳せて一縷の涙をピュッと流すのみザッツオールです。

 

さて本日は『牯嶺街少年殺人事件』をピックアップ。

ゴミ拾い俳優としてのお馴染みの斎藤工が好むような、ガチのシネフィルしか観ないような映画です。

どうせこんな映画をポップに語ったところで「あ、おもしろそうだな。じゃあ観よう!」とはならないだろうし、今回は真面目に論じてみようと思います。

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認識不能の映画体験

たとえば何かとてつもない作品を目にしたとき、われわれは巨大な困惑の前に佇みながら「果たして今見たものは何だったのか」という認識論と闘うはめになるし、その時点ですでに失語状態にも陥っているため「とにかくすごかった」などと何の意味もなさない言説を痴呆のように繰り返してしまう。

「理解ができない」のではなく、そもそも「認識すらできない」ほどのとてつもない映画はいくつか存在する。まるで座標を奪われたように、テメェの中の感じ方や考え方や捉え方がことごとく間違っているのではないかと自己不信になるような認識不能の映画体験だ。

一般的にはゴダール勝手にしやがれ(59年)キューブリック2001年宇宙の旅(68年)がその筆頭だが、『牯嶺街少年殺人事件』もまた人々を大いに困惑させ、まるで容易く認識されてなるものかとばかりに我々の瞳を撹乱した困った傑作である。


『恐怖分子』(86年)という映画で初めてエドワード・ヤンを観たとき、半笑いで「おいおい、待ってくれよ」と思ったことを覚えている。こんな映画を撮るバケモノが台湾にいるなんて聞いてないぞ。誰か教えてくれよ。こんな男がのさばっている以上アジア映画はこの男のモノじゃないか。

恐怖分子はこいつだよ!

だがそのあと、彼が2007年に59歳の若さでこの世を去っていたことを知った。

そして『牯嶺街少年殺人事件』が20年以上もソフト化されず、コアな映画ファンの間で幻の傑作になっていたことも…。


『恐怖分子』は「観た」という記憶すら吹っ飛ぶほどの傑作だったが、もうあんな思いをするのは御免だ。なんというか…、エドワード・ヤンを観ると他の映画が観れなくなってしまうのだ。ヤンに比べると他の映画が稚拙で馬鹿馬鹿しく思えてくる。だからエドワード・ヤンは10年に一回観るぐらいが丁度いいと思います。

そう思いながらも『牯嶺街少年殺人事件』を観てしまった。というか観なければならないのだ。これを観ると他の映画が観れなくなってしまうが、エドワード・ヤンは観なければならない。この世にはどんなに観たくなくても観なければならない映画というのがある。こちらの意思の問題ではないから駄々をこねてもムダだ。

おまけに本作の上映時間は236分

ほぼ4時間ね。

…よろしい。観ようじゃないか。

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この上なく殺傷力の高い傑作、『恐怖分子』


◆殺意のゆらめきと青春のきらめき◆

なんの変哲もない緑道を真正面から捉えた長回しのファーストシーン。何人かのレビュアーだけがこのショットに反応していたが、早くもここで「おいおい、待ってくれよ」である。半笑いで。

これほどの密度を湛えた映像が今から4時間続くのかと思うと脳出血しそうになる。

1959年の台北。建国中学昼間部の受験合格者を読み上げるラジオから自分の名前が流れてこなかったことでしぶしぶ夜間部に入学した小四(シャオスー)は、戦前に日本人が住んでいた日本家屋で6人の家族と暮らす外省人の子である。

そのあと、同級生の小馬(シャオマー)や小猫王(リトル・プレスリー)との交流や、小明(シャオミン)という女の子との出会いが描かれることになるのだが、これを青春映画と呼ぶにはいささか躊躇われる理由が3つほどあるので申し上げます。


(1)画面が不穏すぎ。

(2)「小公園」と「217」という二大グループに属する若者たちが熾烈な縄張り争いをしている。

(3)本作は1961年に男子学生がガールフレンドを刺殺した実際の事件をモチーフにしたもの。


『牯嶺街少年殺人事件』は、ある少年の青春期を描いたパーソナルな作品ではなく、ある少年の青春期を通して戦後台湾に漂う倦怠感を一大叙情詩として描き上げた作品である。

何度も登場するエルヴィス・プレスリーの曲や写真は「自由の国」への憧憬であり、のちに殺戮の道具に使われる日本刀は日本植民地支配の歴史を繰り返す。帰り道に立ち話をするシャオスーとシャオミンの顔を戦車の車列が遮り、シャオスーの父は秘密警察に捕まって家庭崩壊の危機を迎える。

そして小公園と217の全面戦争は多数の死者を出すほど激化し、シャオスーは淡い恋心を寄せていたシャオミンが小公園のリーダーの女であることを知ってしまう。そればかりか彼女はさまざまな男と関係を重ねるファム・ファタールだった。

かくしてボーイ・ミーツ・ガールは暗黒台湾史と血の抗争によって蹂躙され、やがて暴力に取り込まれて終わりなき闇へと突き進むことになる。

『牯嶺街少年殺人事件』なんて聞くとミステリー仕立てのサスペンスのように思うだろうが、さにあらず。あるいは私のヘタな解説を受けて鬱々とした陰惨な映画をイメージしたかもしれないが、さにあらず。

たしかにエピソード自体は暗く湿っているものの、ぎりぎり青春映画と言えなくもない…という絶妙なバランスで友との夢のようなひと時や初恋の甘酸っぱさが描出されていて、なにより全編通して途方もなく美しいのだ。それを実現せしめたのがエドワード・ヤンの映像魔術。

というわけで、次の章ではコテコテの技術論に移る。

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◆懐中電灯で闇を掻きわけろ◆

ポジティブ思考の人には申し訳ないが、しょせんこの世は闇である。

われわれの生活は「愛」とか「希望」とか「光」といったポジティブワードで埋めつくされているが、それは苛烈な現実から目を背けさせるための政府による粋な計らいだ。コンゴエボラ出血熱が広がって200人以上死んだというニュースのあとに楽しい楽しいバラエティ番組が流れ、人はスタジオで騒ぐお笑い芸人を見ながらエボラのことなど忘れていく。そういうことだ。

 

少なくともシャオスー少年にとっては世界は闇である。彼は目が悪くて「光輝く世界」とやらを鮮明に見ることができないし、夜の生活者として夜間部の中学に通っているのだ。

エドワード・ヤンは暗闇をどこまでも深く撮る。

シャオスーたちを待ち伏せしていた何者かが暗闇からバスケットボールを投げるショットや、街灯のひとつもない夜の公園、そして来るべき全面戦争も全き暗闇のなかで密やかにおこなわれる。

よもや「暗闇なんて誰が撮っても同じじゃないか」などと言う読者はすでに遥か手前でリタイアしているだろうが、あえて言います。十人の監督がいればそこには十通りの暗闇があり、わけてもエドワード・ヤンが撮る暗闇は寒気がするほど恐ろしい。

おまえがヤンの撮る暗闇を覗くとき、ヤンもまた暗闇からおまえを覗いているのだ。

そういうことです。

だからシャオスーは盗んだ懐中電灯を常時携帯しており、自宅の押入れ(彼の部屋)のなかで明滅させるのである。懐中電灯は闇を掻きわける一筋の光芒。シャオスーはその光を拠りどころにして世界と折り合いをつけていた。

だから決定的な悲劇がもたらされるラストシーンの手前で、彼はついに懐中電灯を手放すことになる。闇に呑まれてしまった彼は懐中電灯ではなくナイフを手にしたのだ。悲劇はいつも暗闇の中で起こる。


同一画面による高低差を用いたロングショットや、構図=逆構図のタイミングをずらせることでサスペンスを醸成するという小津文法の活用形。シャオスーがシャオミンに愛の告白をする瞬間に音楽はふっと鳴りやみ、道行く人々はシャオスーが人を殺めてしまったことに少しずつ気づき始める。

そして1年が経って再びラジオから合格者の名前が淡々と読み上げられ、決してシャオスーの名が読まれることはないままエンドロール(暗闇)が静かに訪れる…。


もはや「巧い」という言葉すら出てこないほどの衝撃と疲労に、映画を観たあとしばしのグロッキー状態が続いた。まるでダイコンで頭を殴られたような感覚だ。とりあえず足元がフラフラしてうまく歩けないのがむかつく。

俺はいま何を観たのだ? ていうか殴られたのか?

なにかとてつもない映像をずーっと観続けた気もするし、ヤンにしこたま殴られ続けた気もする。いったい何が起こったのかさっぱり分からない。

やはりこうなってしまった。『恐怖分子』を観たときとまったく同じだ。

冒頭で「何かとてつもない作品を目にしたとき、われわれは巨大な困惑の前に佇みながら『果たして今見たものは何だったのか』という認識論と闘うはめになる」と言ったのは、つまりこういうことだ。こうしていま文章を書いているときでさえ、未だに私はこの怪物的な傑作をほとんど認識できずにいる。

『牯嶺街少年殺人事件』とは何だったのか?

なにこれ?

その答えは未来の私が見つけ出してくれることに期待する。未来に向かっていま丸投げするよ。しゅ。

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美声を響かせるリトル・プレスリー