当時のアメリカ社会を鋭く撃った反逆作。
1969年。デニス・ホッパー監督。ピーター・フォンダ、デニス・ホッパー、ジャック・ニコルソン。
二人のヒッピーがマリファナ密売で儲けた大金をタンクに隠し、真のアメリカを求めてオートバイで放浪の旅に出るが、そこで目にしたものはドラッグ・カルチャー、余所者への強烈な排他性、そして名ばかりの“自由”という現代のアメリカの姿であった。(映画.com より)
60年代アメリカ。
ベトナム戦争、公民権運動、ヒッピー・ムーブメントの前に、それ以前の夢を与えるハリウッド映画は完全に無力化し、映画スタジオは動脈硬化を起こしていた。
綺麗事みたいな甘ったるい映画など何の役にも立たないのだ。
当時、ヒッピー・ムーブメントのマストアイテムだったLSD(幻覚剤)を扱った映画を企画していたB級映画の帝王ことロジャー・コーマンは、主人公がひたすらLSDを服用してラリってるだけの奇跡のゴミ映画『白昼の幻想』(67年)のキャストに、ピーター・フォンダとデニス・ホッパーを起用した。二人ともLSDの常用者だからだ。そして脚本にジャック・ニコルソンを迎える。
このとき既に『イージー・ライダー』の立役者は揃っていたのだ。
ピーター・フォンダが企画、資金集め、主演を務め、デニス・ホッパーもまた監督、主演を務めた。二人の本業は役者であり、映画制作はズブの素人。
劇中では頻繁にハレーションが映り込み、人物が真っ黒に潰れるほどの逆光を作ってしまう。ニューオリンズでの謝肉祭のシーンは、ホッパーが即興で撮った粒子の粗い16ミリの映像が無反省に垂れ流される。映画理論もヘチマもない、やりたい放題の無手勝流・映画制作。
当然、メジャー映画でまかり通るような代物ではないが、あくまでメジャーに反抗する彼らは「まぁ…、逆にアリちゃう?」といって開き直った。
劇中でまともに芝居をしているのはジャック・ニコルソンだけだが、そのニコルソンも含めて、メイン3人が劇中で本物のマリファナを使用してハーレーダビッドソンを飛ばしまくった。映画史上はじめて本物のドラッグをスクリーンに映し、それを肯定した上に服用までしてしまったのだ。
『イージー・ライダー』は、各分野のプロフェッショナルが集う従来の映画制作(スタジオシステム)では考えられないほど、粗野で野蛮な仕上がりだったし、数々のタブーも侵した。
だが本作の狙い(およびニューシネマの基本理念)は、嘘の夢を人々に売りつける凝り固まったスタジオシステムを徹底的に破壊することであり、ゆえに本作はオールロケというアメリカ映画史上初の反抗を試みた。
そう、オールロケとは反抗である。
ニューシネマ以前のアメリカ映画は、スタジオ撮影が基本だった。
壮大なセットと綺麗な衣装に身を包んだゴージャスな俳優を美しい照明と映像で捉えて観客を夢見心地にしていたが、現実の世界に目を向ければ、そこにいるのは猜疑心と排他性にまみれて余所者に敵愾心を向けるレッドネック(貧乏白人)と、ヤク漬けの薄汚れたヒッピーと、何もしてないのに殺される黒人と、頭を撃たれて痙攣しながら血を噴き出して死んでいくベトコンの凄惨な姿。これが現実なのだ。
「絵空事の映画なんて観てられるか!」
政治不信に陥った60年代の若者たちは、鬱憤の捌け口としてロックンロール、東洋思想、前衛芸術、ドラッグなどに目覚めはじめる。これがヒッピー・ムーブメントである。
彼らにとってニューシネマとは、ロックンロールと同じく怒りの代弁者なのだ。
典型的なヒッピー。ラブ&ピースが合言葉。
結果的に『イージー・ライダー』が大当たりして、ニューシネマの影響が世界的に飛び火したことで、老いさらばえた映画会社の年寄りどもに全権が委ねられていた従来のハリウッド映画は崩壊を迎える。
具体的にはヘイズコード(検閲制度)の撤廃によって、セックス、ドラッグ、バイオレンスの描写が解禁され、スタジオシステムの終焉によって映画は映画会社の商品から映画監督の作品になり、アメリカ映画は自由を獲得した。
その代償として生贄に捧げられたのがニューシネマのキャラクター達である。だからラストシーンで、P・フォンダとD・ホッパーは貧乏白人によってむごたらしく射殺されるのだ(本作に限らず、ニューシネマの結末は底なしに暗い)。
はじめて僕がこの映画を観た十代の頃は、その猥雑な演出と無内容ぶりに「超つまんねえ! 中年がただバイク転がしてるだけじゃねえか!」と眉をひそめたものだが、改めて観返すとさまざまな発見がある。
墓地でマリファナをキメるシーンのサイケ映像など、いま観るとかなりシャープで感覚的なショットが印象的(撮影中にマジでラリって聖母像に抱きついたP・フォンダが、死んだ母親への想いを吐露して慟哭するシーンがあるが、これは芝居ではない。実際に彼の母親は自殺している)。
また、無茶苦茶なジャンプカットや無茶苦茶なフラッシュ・フォワードといった、素人ならではの怖いもの知らずの編集も作品の唯一性に寄与している。
二人がバイクを飛ばすシーンでは、ステッペンウルフ、ザ・バンド、バーズ、ジミ・ヘンドリックス・エクスペリエンス、ロジャー・マッギンなど当時流行していたロックンロールが鳴り響き、その歌詞が台詞の少ない本作の叫びを代弁する。
あ、そうそう。ロックファンなら、ビートルズ最後のアルバム『レット・イット・ビー』をプロデュースしたことで知られるフィル・スペクターが冒頭で出演しているあたりも必見です。
まぁ、現代の感覚からすれば「ンーフ~ン? 意味わかんない」で片づけられがちだが、ほんのわずかでも時代背景を押さえて観れば、この作品がただ野放図なだけの乱痴気ロードムービーではなく、当時のアメリカ社会を鋭く撃ったロックンロール映画だということがお分かり頂けるかもしれない(お分かり頂けないかもしれない)。
ニューシネマの反骨精神が最もダイレクトに叩きつけられた、デニス・ホッパー畢生の作品。
ワイルドでいこう!
永遠のロック・アンセム「Born To Be Wild」。
邦題は「ワイルドでいこう!」。
なんやそれ。