ジャッキー映画で泣く理由。
1985年。ジャッキー・チェン監督。ジャッキー・チェン、ブリジット・リン、マギー・チャン。
大規模な麻薬密輸を行うシンジケートの一網打尽を狙って、取り引き現場に張り込んだ香港国際警察のチェン刑事は、組織を牛耳るチュウの美人秘書を監視し、逃走を図った一味を執拗に追跡、何とか逮捕にこぎつけた。だが、証拠不十分で釈放されたチュウは手下として働いていた警察の内通者を殺害、チェン刑事にその容疑を着せてしまう…。(Amazonより)
私は保育園児から現在に至るまで、ジャッキー・チェンのビッグファンである。
木曜洋画劇場で『ドランクモンキー 酔拳』(78年)、『プロジェクトA』(83年)、『スパルタンX』(84年)を死ぬほど観て育ったし、世代的には90年代ハリウッド撤退後の『ツイン・ドラゴン』(92年)や『レッド・ブロンクス』(95年)には特別な思い入れがある。
まさに私の映画原体験にして、私が知り得る究極の霊長類こそがジャッキー・チェンなのだ。
ジャッキー・チェンと聞いて「うーん。カンフー映画には興味ないしなぁ…」と踵を返そうとするそこのアナタ。待たれよ小僧! 黙れ小僧!
カンフー映画だからといって敬遠するのは早計、性急、早合点!
たしかに大枠としてはカンフー映画だが、カンフーとは言ってもブルース・リー的な憎き宿敵をアチョーとか言って倒す、みたいなアチョー精神は皆無。
ジャッキー映画の場合はカンフーというより大道芸に近く、すごくポップなコメディとして楽しめるので、とても間口が広いのです。いわば笑いあり驚きありのサーカスなんだよ。
同じ人間とは思えないほど身軽で、フィルムを早回ししてるとしか思えない猿のごときアクロバティックな動き。
またはジャッキーの代名詞ともいえる、椅子や服や脚立など、身近な生活空間にある物を利用したコミカルな物アクション。
格闘というか、もはやある種のダンスになっている。
ダンスは大体みんな好きね? ミュージカル好きね? 『ラ・ラ・ランド』を観ましたね?
なのになぜジャッキー映画は観ないんですか?って話になってきますよね。こうなってくると。
コミカルというのがキモである。
早い話が、ジャッキー・チェンは香港のチャップリンなのだ。
ジャッキー映画を観ていると、チャップリン、ハロルド・ロイド、バスター・キートンら世界三大喜劇王の命脈を受け継いでいるのがよくわかる。
実際、『プロジェクトA』の伝説のスタントとしてあまりに有名な時計台落下シーン*1は、バスター・キートンの『要心無用』(23年)からヒントを得ている。
ジャッキー映画におけるアクションシーンの大部分はコメディである。
当人たちは大まじめに闘ってるのに、ジャッキーも敵役の皆さんも、やってることがあまりに凄すぎて思わず笑いがこみ上げてくるという。ある種のシリアスな笑いだ。
何が彼らをそこまでさせるのだろう?
そして笑いと同時に「人間ってここまで出来るんだ…」という謎の万感マインドで涙さえ流れるわけですよ。
人間離れしたジャッキー・アクション詰め合わせ。ジャッキーの超人的な身体能力と敵役の皆さんのさぞかし痛いやられっぷりには、もはや「すごい」とか「格好いい」ではなくただただ笑うのみ。
そして本作。
『ポリス・ストーリー/香港国際警察』は、香港のバラック密集地に車を突っ込ませて町全体を半壊させたり、猛スピードで走るバスに傘を引っかけてぶら下がるなど、有史以来だれも観たことがない衝撃映像が詰め込まれた作品としてジャッキー神話を象徴する傑作に位置づけられている。
だが幼少期にこの映画に大興奮した私も、20余年を経て世界中のいろんな映画を横断した現在、ただ手放しにアクションスター ジャッキー・チェンを称揚するのではなく、映画作家としてのジャッキー・チェンに目を向けてみたい。
傘は差すためにあるんじゃない、ぶら下がるためにあるのだ。
大人になってから『ポリス・ストーリー』を観てまず驚くことは、ジャッキー・チェン自身が監督しているという点。
本作のジャッキーは監督・脚本・主演の三足のわらじを履きこなしている。足は二本しかないというのに。
物語は、ジャッキー演じる一介の刑事が麻薬組織を追いながら証人を保護するという、まぁベタベタな刑事アクションだが、折を見て挟まれるコメディ要素がシリアスな本筋の緩和剤になっていて、よくバランスが取れている。
美人の重要証人ブリジット・リンとの已むに已まれぬ同居生活。それゆえに恋人マギー・チャンの嫉妬を買って弁解しようとするが、執拗にケーキを顔にぶつけられるジャッキーという…、刑事アクションにしてラブコメの定番を押さえる軽快な筋運びも好調。
中でも、警察署のオフィスに掛かってくる無数の電話をジャッキーひとりで対応するシーンの神がかったワンオペは全ブラック企業の従業員必見!
そして香港映画史を塗り替えたデパートでのクライマックス。
重要証人のブリジット・リンを襲う麻薬組織の手下たちをジャッキーひとりで返り討ちにする怒涛のスタントだが、このシーケンスのポイントはガラス。
「アクションシーンにガラスを取り入れたら面白いんじゃないか」というジャッキーのトチ狂ったアイデアによって、このシーンではジャッキーも敵役スタントマンもガラス張りのショーウインドーに突っ込みまくって大怪我を負うというマゾの極致みたいなガラス・フィーバーが炸裂する。
バイクで敵を轢いたままショーウインドーに突っ込むとか、敵に殴られた拍子に頭でガラスを割ってしまうとか。もうガラスも粉々、骨も粉々という粉々祭りだよねぇ。
もはや暴力ですらない。ある種のスキンシップだよ。
そして3階にいるジャッキーが1階の敵を追いつめるべく、デパートの吹き抜けに立てられたポールに飛びついて1階まで滑り落ちていく名シーン。
そのポールには無数の電飾が撒きついてるので、3階から1階までバチバチ感電しながら下りていくという大怪我前提のスタントである。
もうね、アホかと。
ジャッキーはこのシーンの撮影で、ポールの摩擦で掌が大火傷、全身打撲、骨盤脱臼を味わった。それでも「モウマンタイ、モウマンタイ!」と言って撮影を続けた。
モウマンタイではねえだろ。
通常、ハリウッドのようにシステマティックな現場であればあるほど安全第一で撮影はおこなわれるものだが、ジャッキー映画に関しては「安全」と「退屈」は同義語なんですね。大怪我なんて織込み済み。一歩間違えたら死亡者が出るかもしれない。
普段われわれは「命懸け」という言葉を比喩として安易に使っているが、本当に「命を懸ける」とはどういうことかを、ジャッキー・チェンは身をもって提示してみせる。
しかも、そうまでして作った命懸けのジャッキー映画は、何の重みも教訓もないポップコーン・ムービー(ポップコーン片手に楽しめる娯楽映画)なのだ。「命懸けで作った映画だから、心して観ろ!」みたいなドヤ感や押しつけがましさが一切ないんですね。
この、死と隣り合わせの超絶スタントをあくまで飄然とこなす…というあたりが、まさにチャップリン。ヒトラーが第二次大戦でバリバリ独裁している最中にファシズムを徹底的に冷やかした『チャップリンの独裁者』(40年)ですよ(処刑されててもおかしくない)。
とどのつまり私は、「ただのエンターテイメントの為にそこまでやるか」というところで、ジャッキー映画を観るたびに万感の涙がこぼれるのだ。
人々を楽しませるために、死ぬかもしれない映画を毎年のように作る…。
もう究極の道化だよ。
また、私が本作を絶賛する理由は、ただ単に「身体を張ってるから凄い」とかいう根性論ではない。
本作がきわめて純映画的だからである。
ポールやエスカレーターを使った落下と上昇、あるいは序盤の傘バス・スタントといった横移動のように、垂直と水平のパースペクティブに富んだアクションシーンで画面を活性化することで映像の快楽原則を満たしているからだ(現代映画でこれが出来ているのはディズニー/ピクサーの諸作品、あと近年では『キャプテン・アメリカ/ウィンター・ソルジャー』といったほんの一部の作品だけ)。
警察内部の醜い実態や香港司法機構の瑕疵を鋭く告発し、最後は権力者に怒りの鉄拳制裁を加えるという下剋上的な爽快さも含めて、まさに一級のエンターテイメント。
俳優だけで語るにはあまりに勿体ない、映画作家ジャッキー・チェン畢生の監督主演作である。
追記
本作はアジア圏のみならず、欧米でも「ヤバい中国人がいる」と話題になり、クリント・イーストウッド、バート・レイノルズ、シルベスター・スタローンも熱狂させた。
イーストウッドの『ダーティハリー5』や、スタローンの『デッドフォール』では本作をオマージュしたシーンまで作られている。