シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

ドラゴン怒りの鉄拳

アクションをしない天才、ブルース・リー。

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1971年。ロー・ウェイ監督。ブルース・リー、ノラ・ミャオ、橋本力。

 

1900年代初頭、日本帝国主義が横行している上海を舞台に、道場をつぶされ恩師を殺された青年が単身日本人武術家一派に立ち向かう。ヌンチャクを駆使したアクション・シーンと時代背景を活かした痛烈なエンディングが印象的。N・ミヤオとのラブ・シーンも話題になった。(Yahoo!映画より)

 

おはチャアァ――ッ!

はい、本日はブルース・リーというわけでリー的挨拶をしてみました。お気に召しましたでしょうか。もういいでしょうか。はい。

そんなこって久々にブルース・リーを観ましたね。『ドラゴン怒りの鉄拳』です! うれしいです!

併せて告知を。本日からしばらくは旧作映画ばっかり取り上げて参ります。新しいもの好きのハイカラボーイやハイカラガールのみんな、ごめんね。投げキッスを贈るよ。

というか、何をもって旧作映画とするのかって話なんだけどね。

来週死んでしまう人にとっては昨日公開したばかりの映画だって既に旧作だろうし。

逆に、100年前に作られたサイレント映画を生まれて初めて観る人にとっては、それはもう新作なんですよ。サイレント映画なんて初めて観ただろ? 新しい体験したろ?

じゃあオマエにとっての新作じゃねえかコノヤロー!

つべこべ言うなっ。

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◆反日もヘチマもあるかい!◆

ブルース・リーの映画は年末年始の深夜によく放送していて、家族が寝静まったあとに一人コタツに入って観ていた思い出がある。なんて孤独な少年なのでしょう。

ああ、昔の記憶が甦ってくる…。ブルース・リー伝説の序章を告げる『ドラゴン危機一発』(71年)、日本人を思いきり悪役として描いた道場破り映画の決定版『ドラゴン怒りの鉄拳』(72年)、しばしばチャック・ノリスとのコロッセオでの死闘がベストファイトに選ばれる半コメディ作『ドラゴンへの道』(72年)、リーの名を世界に轟かせたキング・オブ・カンフー映画『燃えよドラゴン』(73年)、撮影中にリーが急逝したことで他作品からの映像をツギハギして代役を立てまくった世紀の迷作&未完作『死亡遊戯』(78年)

そんな中から、今回はブルース・リー全5作品のなかで最も観た回数が少ない『ドラゴン怒りの鉄拳』を取り上げることにしました。おめでとうございます。

 

映画は、精武館の道場主が謎の死を遂げ、そこで武術を磨いたリーが師匠の葬儀に現れるシーンに始まる。埋葬される棺桶にしがみついて「シーフォ――――(師匠)!」と号泣するリーの姿がなんともフレッシュ。なぜならブルース・リーは感情をあまり表に出さないクールガイ。それゆえに『北斗の拳』のケンシロウのモデルにもなっているのだが、この冒頭では師を失ったショックからヒステリーみたいに「シーフォー! 」を連呼する貴重な芝居をお楽しみ頂けるのだ。

そして、リーがあまりに泣き叫ぶものだから棺を埋葬していた精武館のおじさんがシャベルでリーの頭をぶっ叩き、リーは「りぃぃぃぃ!」と鳴いて気絶してしまう。

このおっさんが一番強い。

あのブルース・リーを気絶させるなんて…。

その後、ショックから立ち直れないリーは2日間も飲まず食わずでシーフォーの遺影の前でヘコみ続け、見かねた婚約者が食事を運んできて「少しでもいいから食べて」とリーの身体を気遣う。

何を隠そう、この婚約者がノラ・ミャオである!

懐かしすぎて泣くぅー。ブルース・リー映画3作品でヒロインを務め、リー亡きあとはジャッキー・チェン初期作で「ミャオー」などと言いながらその愛くるしさを遺憾なく発揮した猫娘。別名カンフー映画の女神。野良ミャオであります。

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美女が滅多に出てこないカンフー映画においてノラ・ミャオの存在はきわめて稀少だった。

 

その後の展開は至ってシンプル。

日本人柔道家を束ねる橋本力が館長を務める虹口道場の三下連中が精武館にやってきて「おまえのシーフォー出べそ」などと侮辱、激怒したリーが虹口道場に乗り込み「りぃぃぃぃ!」と鳴きながら門下生約30名をヌンチャクでシバき回して全滅させたので、これに怒った橋本館長が精武館に対して「3日以内にリーを差し出さないと精武館を潰す」と脅しをかけたのだ。

精武館と虹口道場の全面戦争…かと思いきや、精武館の仲間たちは「武術は人と争うためではなく己を鍛えるためのもの」という故シーフォーの綺麗事みたいな教えに従って無抵抗を貫く。いわばリーだけが怒り狂い、たった一人で虹口道場を壊滅させるというメチャメチャな物語なのである。

 

なぜ日本人の橋本がそれほど強大な力を持っているのかというと、この映画は日露戦争後の日本租界地が舞台になっているからだ。劇中に出てくる日本人は中国人を虐げる横暴な民族として描かれている。

南京条約締結後、上海はアメリカ、イギリス、フランス、日本の租界都市となり、また香港はこの映画が作られた当時はイギリスの植民地支配をゴリクソに受けていた。そんな怒りを日本人にぶつけたのが本作なのである。公園のゲート脇に立つ日本人ガードマンは「犬と中国人お断り」の看板を掲げ、酒の席に芸者を呼んだ虹口道場の面々はお座敷ストリップを満喫する。

そんな彼らにリーが下した「怒りの鉄拳」は植民地支配を受けてきた中国人の怒りと悲しみそのものなのだ。

だからリーは敵を殴ったあとに行き過ぎた悲しみみたいな顔をする。

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行き過ぎた悲しみフェイス。

 

「それにしても、なんで日本人だけ悪者なのよ?」という疑問もあろうが、当時の香港映画には欧米列強を悪者にするような映画が作りにくかったんだと。

したがって本作はガチ反日映画。テレビ放送時は日本人が悪役であることを編集で上手くぼかしたらしいのだが、このあたりの感覚が私にはもうひとつ分からないのだな。日本人がヒールになっていることに嫌悪感を抱く国民感情というか。映画と政治は別でしょうが。

それに実際のところ、この映画に嫌悪感を抱いている日本人なんてほとんどいやしないのだ。そりゃそうでっせ。誰がカンフー映画なんかに「反日だー!上映禁止だーっ!」なんつって目くじら立てるんだよ、馬鹿馬鹿しい。それに日本人はブルース・リーのことが大好きだからね。恋しちゃってるんだ。

要するにメディアが神経質になって余計な配慮をしてるだけ。

お世話様だよ、バカ!

俺たち観客のことをもうちょっと信用してくれてもいいんじゃない? ええ? テレビ朝日さんよ。

 

◆アクションをしない天才◆

この章では私なりのブルース・リー論を炸裂させたいと思います。

やはり本作最大の見所はリーの道場破りシーンとは言えまいか。言える言える。ブルース・リーの代名詞である「ヌンチャク」と「怪鳥音(アチョー!っていう奇声)」が初めて登場した記念碑的名シーンである。

大勢の日本人柔道家を片っ端から張り倒していくこのシーンの技斗にこそこの映画の本質がある。ブルース・リーの技斗シーンはどこかダンスを思わせるのだ。

円型に立ち回るリーと円陣のようにそれを囲う敵。

それを天井から捉える俯瞰ショット。まるでミュージカル映画のバークレー・ショット(真上から撮影した群舞)のようである。

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完全にミュージカルの構図。

 

ブルース・リーは本物の格闘家ゆえにアクションシーンの迫力は折り紙付きだが、この「映画人」のすごさは技斗の速さや美しさではなく、むしろそれを静止する術を持っている点にこそある。

いわばアクションをしない天才なのだ。

たとえばジャッキー・チェンのように一連の技斗がすべて線になっているような流動的なアクション(どこで一時停止しても画面がブレてるほど常に動いている)ではなく、ブルース・リーは戦闘の狭間に呼吸を整えたり、間合いを取ったり、睨みながら相手を牽制するといった運動の余白を作る。ダイナミックな動的画面にわずかな小休止を挟むことでフィルムの緊張感を持続/増幅させるのである。アクションというよりサスペンスに近い。

したがってジャッキー映画に比べてカット数も非常に多い。カッティング・イン・アクション(アクションの途中でカットを割って次のショットからアクションの続きを見せる編集技法)によって実際には不可能な大技や、明らかに重力を無視した飛び蹴りも平気でやってのける。

生身のリアリティを追求するジャッキーとは対照的にブルース・リー作品は映画の嘘に満ちている(言うまでもないが至上の誉め言葉)。ジャッキーは「いかにアクションの限界に挑戦するか」ということを考え続けてきたが、リーは「いかに映画を面白くするか」ということを常日頃から考えていたという。

ちなみにそんなジャッキー。クライマックスでリーの飛び蹴りを受けた橋本が障子を突き破って庭に吹っ飛んでいくシーンで橋本のスタントマンを演じています(『燃えよドラゴン』でもリーに首をへし折られるエキストラ役として参加)。

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この「手の残像表現」はさまざまな映画だけでなく少年マンガにも影響を与えた。


余談だが、幼き日の私は「アクションだけでなく笑いもある」ということと「単純に運動量が多い」というアホみたいな理由からジャッキー映画を好み、ブルース・リーの良さをいまいち分かっていなかった。

そして私が中学生のころに隆盛を極めていた某ネット掲示板において「ブルース・リーよりジャッキーの方がすごい」という挑発的なスレッドを立てたところ「おまえは何も分かっちゃいない」、「ブルース・リーなめんな」、「小学生からコツコツやり直せ」など総スカン。思わず「アチャー!」と怪鳥音を漏らす私。まさに道場破りシーンで一対多に置かれたリーの立場(だが怒りの鉄拳を浴びたのは私の方だった)。

当時の私はムキになって反論していたが、今にして思えば浅慮も甚だしい考えだったと思う。馬鹿げたスレだったと思う。

もちろん両者にはそれぞれの素晴らしさがある。ジャッキー・チェンの本質を捉えるには「総ての映画は好むと好まざるとに関わらずアクション映画である」ということを知らねばならず、ブルース・リーの本質を理解するには「アクションをしないというアクションもまた映画である」ということを知らねばならないのだ。

…というようなことに思い至った今回の『ドラゴン怒りの鉄拳』。ようやくここまで理解するのに四半世紀もかかるとは…。バカだな俺は。

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アタァァァァ!あ痛ァァァァ。


◆ヘッポコ鬱映画◆

さて。とかく神話化されるブルース・リーではあるが、レビューサイトを閲すると『燃えよドラゴン』を除いては予想外といえるほど平均点が低い。

はっきり言ってブルース・リー作品にはヘッポコ映画が多いのだ。

本作もストーリー自体はビビるほどつまらない。「3日以内にリーを差し出さないと精武館を潰す」と脅された精武館は「リーは差し出さないし道場も潰させない!」と息巻くが、そのための解決策をなにひとつ提示できないままズルズルと話が延びていく。

そしてリーはシーフォー殺しの犯人を見つけて鉄拳殺害したあとに死体を街中の電柱に吊るすというサイコキラーのごとき奇行に出る(2回も)。ヒロイズムが聞いて呆れます。

また、出っ歯や腹巻きなど謎のステレオタイプで描かれる日本人描写はトコトン酷いし、人力車の車夫、新聞売りの老人、電気工事士などに変装して敵地を偵察するリーのコスプレ劇場も渇いた笑いを誘うのみ(用心深く偵察したわりには結局正面突破するという剛腕ぶり。何のために変装してまで偵察したんだよ!)。

そして衝撃のラストシーン。

ハイテンションで虹口道場に乗り込んだリーが橋本とその取り巻きを皆殺しにしたあとに日本憲兵の一斉掃射を浴びて殺害されるというバッドエンド!

銃を構える憲兵に向かって「りぃぃぃぃ!」と怪鳥音を発したリーが飛び蹴りを繰り出したところでストップモーションがかかって銃声のSE。『明日に向って撃て!』(69年)と寸分違わぬ破滅のラストである。

のちにジャッキー主演で作られた正統続編『レッド・ドラゴン/新・怒りの鉄拳』(76年)もこれとまったく同じラストで、敵を殲滅したあとに館を出たジャッキーが憲兵に撃たれて蜂の巣になるという鬱映画に仕上がっている。

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憲兵に向かって飛び蹴りした瞬間に画面が止まって銃声→惨殺エンド。えぇ…。


このようなヘッポコぶりを度外視しても、映画としてなお酷いのは全編スタジオ撮影がもたらした画のつまらなさである。

べつに『ドラゴン危機一発』の撮影地・タイ、それに『ドラゴンへの道』のイタリアロケのような異国情緒を求めるつもりはないが、それにしてもセットがショボすぎるうえに雨も陽光もあまりに汚いのでルックとして貧相です。

もっとも、この70年代カンフー映画の貧相なルックをあえて模倣した『キル・ビル』(03年)という奇天烈オモシロ映画も存在するのだが…。


ゆえにリーの技斗ぐらいしか売りがない作品なのだが、アクション以外に唯一の見所があるとすればノラ・ミャオとのロマンスだろうか。ブルース・リーが短い生涯の中でたった一度だけ演じたラブシーンである!

夜の墓場で背中合わせに座った二人が、夜の墓場で将来の夢を語り合い、夜の墓場で熱い接吻を何度も交わすのだ…。

なぜに墓場。

しかもそのシーンの直前に、リーは焚火で焼いた謎の巨大動物の肉を召し上がる。

なんだこの肉。気持ちが悪い。トカゲのようにも見えるし、犬のようにも見えるし…。

なお、これが何の動物だったかについては今なお映画マニアや生物学者の間で研究・議論がなされているらしい。世の中にはヒマな人間が多いのだ。

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リーは何を食べていたのでしょうか。