観る者に自己嫌悪を強いるワルハディ渾身の凡作。
2016年。アスガー・ファルハディ監督。シャハブ・ホセイニ、タラネ・アリシュスティ、ババク・カリミ。
小さな劇団に所属し、アーサー・ミラーの戯曲『セールスマンの死』の舞台に出演している役者の夫婦。ある日、引っ越したばかりの自宅で夫が不在中に、妻が何者かに襲われる。事件が表沙汰になることを嫌がり、警察へ通報しようとしない妻に業を煮やした夫は、独自に犯人を探し始めるが…。(映画.com より)
みんな、お疲れさん。
当ブログではそろそろ『映画男優十選』をアップしたいと思っているが、韓国映画特集もしたいと思っている。
やりたいことが多すぎるあまりひとつも実行できない、みたいなことってあるよねぇ。
HuluやNetflixで「何を観ようかな。アレもあるなぁ、コレもあるなぁ~。探す喜びに感謝」なんつって膨大な数の映画を漁れば漁るほど漁ること自体が目的化してしまって「探すことに疲れました」とか言って結局何も観ないとか。
あるいは無限の可能性に胸を躍らせるあまり、ただ麦茶だけ飲み続けて何もしないまま過ぎ去っていく夏休みとか。
ただ夢や希望を列挙するだけでは一生実現しない。
大事なのは順序化するということだ。
あと、「したい」という願望系ではなく「する!」と決意することが非常に重要だと私なんかは愚考します。
これまで様々なピープルに色んな映画を紹介してきたが、「へぇ、面白そう~。 機会があったらぜひ観てみたいです!」とか言う人に限ってなかなか観なかった。
「観たい」と思ってるうちは絶対に観ない。それが映画だ。本当に観る気があるのなら「観たい」ではなく「観よう」と思うはずだ。
だから私自身、「『映画男優十選』をアップしたい」とか「韓国映画特集もしたいと思っている」なんて夢見がちのユートピアボーイみたいなことをぬけぬけと言っているうちは絶対に実現しないだろう。反省してます。
そんなわけで『セールスマン』。
どんなわけで『セールスマン』?
こんなわけで『セールスマン』。
寡聞にして『別離』(11年)しか観れていないのだが、たぶん私はアスガー・ファルハディが苦手だと思う。
もう名前からしてイヤだ。ファルハディと打とうとしてハルファディと打ってしまったのだから。誤字しそうになる名前の人は全員嫌いだ。キーボードを打つ私の指を撹乱しやがって。
それでもファルハディの新作を観た理由は、この作品が去年のアカデミー賞外国語映画賞を取ったからではなくて、ハル…ファルハディがアカデミー賞をボイコットしたのが面白かったからだ。
平気で式をボイコットするような表現者の作品は観なければならない。
ボイコットは最高だ。
アスガー・ファルハディ
イラン出身の映画監督。
ヒゲの面積がすげえ。顔の4分の1ヒゲやんけ。
『彼女が消えた浜辺』(09年)、『別離』(11年)、『ある過去の行方』(13年)などでカンヌ映画祭やベルリン国際映画祭を荒らし回っている大注目の新鋭らしい。
夫の留守中に自宅に闖入した暴漢魔に妻が襲われる。
映画は、心身ともに憔悴した妻と、復讐心を燃やして犯人捜しをおこなう夫とのギクシャクした夫婦生活を描き、そこにイランにおける性差問題をセンシティブに塗してゆく…。
ファルハディ作品といえば『別離』もそうだったが、言外に匂わせた微妙な心理ドラマに重点が置かれていて、悪意なき罪とか行き違いの悲劇が重なって加速度的に物事が悪い方に転がっていく…というやるせない映画をよく撮るやるせな系監督だ。
だけど心理描写に長けた人というよりは、心理描写によって物語を突き動かす脚本優位のサスペンスを志向する監督なんだよね。
要するに「丁寧な心理描写」は「物語の展開力」をアシストするための補助輪に過ぎない。
で、どうもこの心理描写と展開力の噛み合わせが上手くいってないなぁ…と『別離』を観たときにも感じたのだが、本作では輪をかけて噛み合ってない。
正直『セールスマン』より『別離』の方がおすすめです。
まず、カメラが役者に対して無関心なのだ。
夫婦を演じたシャハブ・ホセイニとタラネ・アリシュスティは物言わぬ佇まいで心のヒダを表現しているのに、カメラはストーリーを語ることに没頭しちゃってて、二人の表情や所作の微妙な変化をことごとく撮り逃している。役者とカメラの間に温度差があるというか、もうぜんぜん噛み合ってないのね。
あと、急なジャンプカットが多くて、いま画面に映っているショットがさっきのシーンから数時間後なのか数日後なのかがすげぇ曖昧で。「いつ? 今はいつなの!?」みたいな。時間処理が上手くないんですよねぇ。
サスペンスとして時制を入れ替えるという手法は確かに有効だが、本作に関してはべつに何らかの作劇的な効果を狙ったジャンプカットではない。
ただただ観づらい画面が俺にストレスを与えてやまないわー。
で、この作品が世界中のメディアから持ち上げられてるわりには観た人の反応がドライなのは、単純に物語として惹かれるところがないからだと思う。
妻を襲った犯人を夫が見つけて私的制裁を加えようとすると不慮の事故である人物が死んじゃって皆がガッカリする、っていうお話だけど…。
なんやそれ。
ただそれだけの出来事をやたらと重々しくて意味深なトーンでモッタラモッタラ語っているので、私なんかは途中でイライラしてきて「要領を得んのう!」といってハルファディ…ファルハディ?の頭をネギでシバきたくなっちゃいました。
もうファルハディでもハルファディでもどっちでもええわ。
最悪「ディ」だけ合ってりゃいいだろ!
夫が復讐に取り憑かれていくさまも、たとえば観る者に善悪の倫理について省察を促すような一歩深いところまで踏み込めてなくて上澄みだけをすくってる感じ。
介護、教育、離婚、宗教という普遍的な主題を用いて家族間のゴタゴタを描いた『別離』の方が幾らか見応えがあったよ。
なんか可愛いな、この二人。同じとこ見つめちゃって。
ただ、観る者がキャラクターに抱く感情の定位が少しずつズレされていく…というファルハディ節を唯一の美点としたい。
被害を受けた妻はたしかに気の毒だけど、すっかり自己憐憫モードで身勝手なことばかり言って夫を困らせるうちに、観客はだんだんこの妻に腹が立ってくる…という、かなり意地の悪いことをしている。
被害を受けた妻に腹を立ててしまった私は「俺ってヒドい奴だな…」と自己嫌悪したりもするわけだが、それこそがファルハディの狙い。
安全圏からのほほんと映画を観ている観客を劇中に引きずり込んで当事者に仕立て上げて自己嫌悪まで強いるという…。
要するに観客が抱きたくない感情を無理やり抱かせているわけだ。
悪いことしよるでぇ。ワルハディだわ。
たしかに感情の定位ずらしは秀逸だったが、やっぱり私はアスガー・ファルハディが苦手だと思う。悪いね、ファルハディ。そういう意味でもワルハディだね。
「話をどう展開させるか?」に気を取られて映画がおざなりになっている。
たしかにファルハディ作品は理知的っちゃあ理知的だし、時にスリリングでもあるが、映画本来の気持ちよさや美しさはない。エゴも色気も破壊力もない。
映画監督に対してこんなことを言うのは冒涜以外の何物でもないが、重苦しいミステリーを語らせたら一流なので映画監督よりも作家に向いてる気がする。
余談だが、イランってあれだけ女性が抑圧されているにも関わらず、イラン映画には女性監督がやけに多い。すてきなことだが「どないなっとんねん」とも思う。
イラン屈指の美人監督、ハナ・マフマルバフ。
「マフマルバフ」と言おうとして5回ぐらい挑戦したが1回も言えなかった。はらたつ。