地元という結界から出られない呪縛的青春映画。
1988年。ドナルド・ペトリ監督。ジュリア・ロバーツ、アナベス・ギッシュ、リリ・テイラー。
キットはもうじきエール大入学を控えアルバイトに余念がなく、ベビーシッターとして雇われた先の主人に次第に心魅かれていく。その姉デイジーはいい男を捕まえるのに夢中で、金持ちのボンボンと知り合う。ジョジョはビルとの結婚式の最中、迷いや緊張で気を失ってしまい、無期延期の状態。それぞれに人生を模索する3人をさわやかに甘く切なく描く。(Yahoo!映画より)
ちす、みんな。
今日はこれから大事な用事があるから前置きはテキトーに済ませるわ。
前置き、据え置き、横分け、クリーピー。
よし、終わり。9秒で終わった。
そんなわけで本日は『ミスティック・ピザ』です!
◆凡作の鑑◆
コネチカットの港町のピザ屋で働く女性3人の恋模様が描かれた漁村系 青春映画である。
駆け出しのジュリア・ロバーツ、アナベス・ギッシュ、リリ・テイラーが出演しているほか、当時18歳のマット・デイモンのデビュー作だったりもする。
監督は『デンジャラス・ビューティー』(00年)を唯一の代表作に持つ三流監督ドナルド・ペトリ。マジで三流なので覚える必要はありません。テストにも出ません。
金持ち大学生をものにしようと奮闘するジュリロバ、子持ちの年上男性に惹かれるアナベス、恋人との結婚をドタキャンしたリリ・テイラー。三者の果てしなくどうでもよい恋の行方が果てしなくどうでもよいタッチで綴られた凡作の中の凡作である。
まさに凡作の鑑といえる。
だが決して茶化そうとして言っているのではない。映画の世界において「ごく平凡な作品」は一定数必要なのだ。平凡な映画があるからこそ優れた映画は精彩を放つし、劣った映画は存在感が際立つのだ。
実際、これまでにわれわれが観てきた映画はそのほとんどが凡作だし、幸いにもドナルド・ペトリは凡作を撮ることにかけては素晴らしい才能を持っている。
そしてドナルド・ペトリの凡庸さが信頼に足る理由は、観た人間が間違っても傑作と思い込まないからだ。この世には『スタンド・バイ・ミー』(86年)や『ニュー・シネマ・パラダイス』(88年)といった傑作と思い込まれた凡作が数多く存在するが、そういう映画は要するに凡作として中途半端なのだ。
凡作たるもの、ペトリのようであれ。
そんなわけで『ミスティック・ピザ』は信頼できる凡作であるから、安心して身を委ねることができます。
ドナルド・ペトリが手掛けた凡作群。左から順に『ラブリー・オールドメン』(93年)、『デンジャラス・ビューティー』(00年)、『10日間で男を上手にフル方法 』(03年)。
◆ややこ◆
『ミスティック・ピザ』は人物相関図が無駄にややこしいという、まさに凡作ならではのストレスを与えてくれる。
いつも3人一緒でピザ屋で働いているが、ジュリロバとアナベスは姉妹で、リリ・テイラーはその親友(どちらと親友=同学年なのかは分からない)。
そしてピザ屋の女店主は3人の母親ではなくアカの他人。だけど家族のように見えるし、まるでこのピザ屋が彼女たちの実家のように思えてならない。
要するにシナリオがややこしい上に、ややこしいシナリオをうまく視覚化できていないのだ。ちなみに本作の脚本家は4人。脚本家が4人もいれば、まぁこういうことになる。
とにかく、主要人物がたった3人のわりには人物相関図がひどくややこしい。いっそ「ピザ屋の三姉妹」という設定にしてくれた方がずいぶん話は早いのだが。鑑賞中、私は2度ほど「ややこ」と呟いた。
誰と誰が姉妹でどっちが姉でどっちが妹なのか、いまいち分かりません。
おまけに、3人のロマンス相手となる男性陣が揃いも揃ってスットコドッコイばかりとくる。
ジュリロバが惚れた金持ちのボンボンはバーで彼女にいいところを見せようと粋がって「ど真ん中いくぜ」と予告してダーツに挑戦するが思いっきり外す。
アナベスが恋した子持ち男は、彼女と一夜をともにした後にとっとと妻のもとに逃げるポイ捨て保身野郎。
リリ・テイラーに結婚をドタキャンされた彼氏(漁師見習い)だけは誠実な男だが、見た目が暑苦しくてうっとうしい。
ダーツ外しの成金小僧、ロリ食いの不倫野郎、パッとしないマッチョ…。
なんやこのメンズのラインナップ。ちょうどええ奴おらんのか。
ポンコツ男たちと恋する女三人。
◆故郷の退屈さに折り合いをつける◆
とにかく男性陣が悲しいぐらい鈍臭い奴ばかりである。
だが、本作の舞台が人口の少ないコネチカットの港町という点と、ジュリロバ&アナベス姉妹がポルトガル移民系という点を考慮すれば、むしろこの男性キャストは現実味を帯びたキャラクター設定なのでは。
普通に考えて、年寄りとロブスターしかいないコネチカットの港町に王子様なんていやしないのだ。いるのは、いまいち格好がつかない金持ち息子と、退屈なセーターを着ている子持ち男と、タフネスだけはあり余っている漁師だけだ。
だからこそ、姉のジュリロバは「私はアンタたちとは違うのよ」とばかりにいつも娼婦寸前みたいなオシャレをして都会派ぶっているわけだが、却ってその虚栄心は、周囲から浮き、ピザ屋以外に居場所がなく、酒場の男たちからはいやらしい目で見られる…という皮肉な逆効果を生む。居た堪れない。
また、おもしろいのは誰ひとりとしてこの町を出ると言い出す者がいないことだ。
アナベスは同州のイェール大学に進学するし、ジュリロバは将来を考ることなくこの町でくすぶり続けることに甘んじている。リリ・テイラーもまた地元で結婚する道を選んだ。
80年代丸出しファッションで記念撮影。笑い方からして80年代的。
事程左様に、表面的には「港町での牧歌的な青春群像」を描いているように見えるが、どうも本作の裏テーマには故郷の退屈さに折り合いをつけて「今いる場所に留まる」という生き方を描いた地元映画としての倦怠感が横たわっているように思う(70~80年代に多かった保守的な青春映画の系譜)。
なので基本的にはカントリー・ミュージックのようにゆったりとした映画だが、そこには一抹の切なさや苦味も染みついている。彼女たちはこの町から出られない。というより出る気すらないのだ。
『アメリカン・グラフィティ』(73年)のリチャード・ドレイファスは街を出た。『セント・エルモス・ファイアー』(85年)のロブ・ロウも街を出た。『レディ・バード』(17年)のシアーシャ・ローナンだって故郷のサクラメントからニューヨークへと旅立った。
しかし、だからといって「地元を離れる人間は夢を持っている」などとやたらなことを言うつもりはない。『ギルバート・グレイプ』(93年)で知的障害の弟の面倒を見るために町を出られず鬱々としているジョニー・デップのように、好むと好まざるとに関わらず地元に留まってしまう人間というのは少なからずいるのだ。『ツイン・ピークス』の住人とかね。
あと、私のような京都民も大体そうだと思います。
本作の女3人組もまさにそうだ。夢がないから地元に居続けているわけではない。
では彼女たちが地元を離れない理由とは何なのか?
知らねえよ、そんなこと。
何も明示されないから分からないのだ。でもまぁ、分からないから想像する。彼女たちの決して語られない心情や背景を勝手にこっちで想像すればするほど、そこに一抹の苦みと切なさを感じて顔が引きつってくるのです。作り手の思う壺なのかしら。
『ミスティック・ピザ』は間違ってもお気楽な青春ガールズムービーなどではない。
なんか知らんけど地元から出られないという、結界の中に閉じ込められた呪縛的な青春映画なのだ。
そう考えると、ある意味ちょっと怖い映画である。
涙に滲んだ過去と未来。こういう画像に弱いです、わたくし。
◆楽しい追記◆
この頃のマット・デイモンはとてつもなくバカそうな顔をしていた。
まぁ、この映画の翌年にはハーバード大学に進学したのだけど。IQも160だし。
誰だ、マット・デイモンをバカとか言う奴は!
俺か! そうか!
デビュー作なのに口ポッカーンなってるマット・デイモン。
デビュー作ぐらいシャキッとせえよ。