お隣から音鳴りする生活音まる聞こえ型ロマンス。
2009年。熊澤尚人監督。岡田准一、麻生久美子、谷村美月、岡田義徳。
進むべき道に迷うカメラマンの聡と、フラワーデザイナーを目指しフランス留学を控える七緒は、都会の古アパートに暮らす隣人同士。お互いに顔を合わせたこともなかった2人だが、壁越しに聞こえる生活音で次第に心を通わすようになる。(映画.comより)
おはよう、エブリバディ。昨日は皆さまにとってどんな一日だったでしょうか。
私の方は、いつも懇意にさせてもらっているスーパーのおばちゃんが道を全力疾走していて、応援するべきか心配するべきかで少し葛藤しました。
何があったんだろう。何があって道を全力疾走してたんだろう。20代後半の私でも道を全力疾走することなんてそうそうないのに、なぜおばちゃんがあんなにも走らなきゃならなかったのだろう。
もうなんか、乃木坂46ぐらい走ってましたよ。いや、知らないですけど。なんしか、プロモーションビデオの中でめっちゃ走ってるアイドルぐらい走ってたんです。スーパーのおばちゃんが。
そんな昨日でしたね。
というわけで、本日取り上げる映画は『おと・な・り』になるわけです。そりゃあやっぱり。どうしても。
◆もどかしキュンに満ちた志村後ろ系◆
顔も名前も知らない隣人同士が壁の向こうから漏れる互いの生活音を聴くうちに惹かれ合っていく…という激烈に洒落た映画である。
キャッチコピーは「初めて好きになったのは、あなたが生きている音でした。」
ほう、洒落とるやないか。こういう上品なコピーは大好きだよ。
ボロアパートの隣人同士を演じるのは、『図書館戦争』(13年)や『永遠の0』(13年)で大メジャーに吸収される前の岡田准一と、クソミーハー層よりも映画好きにこそファンが多い麻生久美子。清潔感のあるステキな取り合わせである。
二人は毎日互いの生活音を聴いているが顔を合わせたことは一度もなく、さんざんすれ違った果てにラストシーンでようやく巡り合う。
最後の最後でようやく会える系ロマンスといえば『めぐり逢えたら』(93年)や『ワンダーランド駅で』(98年)などがありますわな。ついさっき真後ろを横切ったのにどちらも気付かない…みたいな、観客からすれば非常にもどかしく、だがもどかしさゆえにキュンとする…というもどかしキュンを提供してくれるすてきな映画群である。
志村後ろ系ともいえるわな?
実際、「麻生、後ろ!」とか「「岡田、あと5分そこにいろ!」なんつって、会えそうで会えない二人に空間的/時間的な指示を出しながらもどかしキュンを楽しむのが本作の醍醐味なのである。
さらに洒落たことに『おと・な・り』というタイトルは「お隣」と「音鳴り」のダブルミーニングになっているのだが、監督の熊澤尚人いわく「大人になる=おとな(な)り」という意味も込めてのトリプルミーニングになっているんだそうな。
「3つ目はちょっと無理あるんちゃう?」とも思うが。
◆おとなりすぎ◆
生活音を主題にしたロマンスなので全編に心地よい音が響き渡る。
岡田の部屋から聴こえるコーヒー豆を挽く音やキーチェーンの揺れる音。麻生の部屋から聴こえる除湿機のアラーム音やフランス語の発音練習。
麻生が洗濯物を干しながら口ずさむはっぴいえんどの「風をあつめて」を聴いた岡田は、壁の向こうから麻生の泣き声が聴こえてきた夜にその曲を口ずさんで慰める。
ええやないの、ええやないのー。ロマンチシズムの発露やないのー。
それにしてもこのアパートの壁は推定3ミリほどの薄さで、些細な音までおとなりに聴こえてしまうだ。
おとなりすぎ。
したがってオナラやゲップようなバッドサウンドまですべて筒抜けなので、かなり慎重に生活せねばならないのである。神経が参りそうだ。
もっと言えば、このお隣同士がたまたま岡田准一と麻生久美子のような美男美女だからよかったものの、もし隣人が禿げ散らかしたメタボ親父とか独り言の多いババアだったりしたら目も当てられない。ロマンスどころか「やかましいんじゃ、コラァ!」と怒鳴って壁ドンものである。その場合、キャッチコピーは「初めてブチ切れたのは、あなたが生きている音でした。」になるのだろうか。
岡田の生活音を聴く久美ちゃん。見ようによっちゃ怖ぇーわ。
◆ 生活 ◆
映画は静謐で品のよいタッチで綴られてゆく。
特筆したいのは、これが恋愛映画ではなく生活映画になっている点だ。
生活の基盤は「衣食住」と「仕事」。衣食住に関してはさまざまな生活音を通じて描かれているが、『おと・な・り』は仕事にも向き合った作品である。
カメラマンの岡田はカナダ行きを決意し、花屋の麻生はフラワーデザイナーの資格を取ってフランス留学に備える。二人は互いに惹かれ合いながらも、仕事の疲れを癒してくれる善き隣人として、もっぱら生活音だけを通して無言の交流に安らぎを見出す。
本作が純日本映画たりうる理由は、荒唐無稽な「恋愛ごっこ」と戯れることなく生活に根差した作品だからである。
小津安二郎や成瀬巳喜男を例に出すまでもなく、元来、日本映画は人々の生活を描くことに関しては欧米映画より遥かに秀でているし、その理由はもともと日本文化の多くが「生活の文化」に端を発しているからだ(衣装、食事、住宅、礼儀や習慣など)。
日本映画を観ていて食事や入浴のシーンに生々しさを感じた人は多いだろう。その生々しい営みこそが生活なのだ。
恋愛も恋愛で結構なことだが、まずは生活基盤がないことには恋愛もヘッタクレもない。明日のデートより今日のメシだ。
ダメな恋愛映画を観ていると「この主人公は何の仕事をしていて、いつ寝て、いつご飯を食べて、いつ風呂に入ってるの? 恋愛以外に考えることや悩むことはないの?」と疑問に思ってしまう。すぐれた恋愛映画はたとえ恋愛に90%の比重を置きながらも、残りの10%で主人公のバックグラウンド、つまり生活を描いている。生活の延長線上にしか人生は存在しえないのだから。
◆テーマ代弁すんなって◆
事程左様に慎ましく穏やかな生活型ロマンス映画なのだが、惜しい点もチラホラ。
第一に、テーマを露骨に打ち出しすぎ問題というのがある。
麻生の花屋で働く見習い小僧(清水優)は、見ず知らずのメル友の女性に片想いしており、「顔や名前が分からなくても本気で好きになることもあるんです!」と熱弁する。このセリフは見事なまでに岡田と麻生の奇妙な関係性を擁護したものだ。
映画のテーマを代弁すんなよ。
また、麻生に惚れこんだファミリーマートの店員・岡田義徳は麻生を公園に誘い、出し抜けに「基調音って知ってます?」と語りかける。
「基調音というのは風の音や木々のざわめきとか、ふだんは意識してないんだけど、すぐそばにあって、それがなくなるとなんとなく寂しくなる音…っていうのかな(はにかむ)。でもその音はなかなか見つからない。その音を感じても気のせいだと思って通り過ぎてしまう。人は時々そういうのを『運命』って呼ぶんだと思うんです…」
あ、そう。麻生だけに。
だからテーマ代弁すんなって!
テーマというのは物語を通じて人々に届くものであって、脇役にべらべらと代弁させるなど愚の骨頂、野暮のお歳暮、下劣のカーニバルである。
そもそもテーマを言葉で語れてしまうぐらいならわざわざ映画など作る必要はなく、Twitterを通して「僕はこういうことを伝えたいのです」と言えばいいわけで。
日本映画の説明過剰病がモロに出てしまった、なんとも残念なシーンだ。
だいたい麻生の本命が岡田准一なのに、その噛ませ犬に岡田義徳って。なんだこの岡田ダブり。偶然か? 必然か? それとも神の悪戯とでもおまえは言うのか。ファミマ店員が映画のテーマをべらべら喋りやがって。
テーマ&ファミマって呼ぶことにするからな。
基調音について講釈を垂れるテーマ&ファミマ。
私がもうひとつ頭に来たのは、花屋の麻生がダメになった花をゴミ箱に捨てるシーンだ。枯れかかった花を麻生がゴミ箱に捨てるシーンが何度も繰り返されるのだが、それがいけないこととして描写されているのである。
花屋の見習い小僧は、枯れかかった花を手際よくゴミ箱に捨てていく麻生に「うわぁ…」とドン引きして、麻生が捨てた花をゴミ箱から拾って「もったいないので持って帰ります!」と言うし、ゲス男としての本性を現したテーマ&ファミマは「君さぁ、フラワーデザイナーになるために今まで何本の花を犠牲にしてきたわけ?」と麻生を非難する。
あ?
枯れかかって売り物にならない花を捨てた麻生がなぜこんなに冷淡な女として扱われているのか。
麻生が見習い小僧に対して「ダメになった花を捨てるのは心苦しいけど、だからといってダメな花をお客さんに売っちゃうとその人を悲しませることになるでしょ?」といった言葉はまさに正論で、ダメになった花を捨てることだって花屋の立派な仕事じゃねえかよ。
フランス行きの前日に麻生が花屋の仲間に別れを告げるシーンで、見習い小僧はへらへら笑いながら「俺もフラワーデザイナーの資格取れますかねぇ?」などとふざけたことを言う。
取れるわけねぇだろ!
いちいち花捨てるたびに良心の呵責に苛まれるような繊細ハーツのイガグリ坊主にフラワーデザイナーなんか務まるか! 造花いじっとけ。
でもその優しい心は忘れんなよ…!
売り物にならない花は捨てる。それがプロです。えらいぞ久美ちゃん!
◆同一人物に心移り◆
岡田と麻生が実は中学の同級生だったという展開はさすがに虫がよすぎるが、謝恩会でようやく出会った二人は、しかし自分たちがアパートの隣人同士であることを知らない。
謝恩会の席で、岡田は麻生を「いいな」と思って盗撮しまくり、麻生も岡田を「いいな」と思って気がある素振りを見せる。
これ、心移りでは?
たしかに隣人同士の二人は最初から両想いだったが、当の本人たちにしてみればまさかいま目の前にいる相手がその隣人だとは夢にも思っていないわけで。つまり岡田は隣人(実は麻生)のことを想いながら麻生(実は隣人)のことも想っている。麻生も同じ。
これ、事実上は心移りじゃん。
二人にとって「顔も知らない隣人」と「その正体」がたまたま同一人物だったから良かったけど、もしこの謝恩会で別の人間に「いいな」と思ってたらえらいことである。それこそただの心移りではないか。
クライマックスで「あなたが隣人だったのか!」と互いの正体を知った二人はようやく結ばれるわけだが、これは結果論的ハッピーエンドに過ぎない。僕の言ってることがわかりますか。うまく伝わってますか。
とはいえ、それも含めて大人のロマンスなのだ。
岡田と麻生がカメラ(撮るもの)と花(撮られるもの)の関係におさまっているように、結ばれるべくして結ばれたファンタジーなのだろう。
2009年の映画にしては珍しく16mmフィルムで撮影されている。また、さりげなくアウトフォーカスで背景をボカすという小技もちょいちょい放り込んでくるので、より16mmの温かさが出た映像が楽しめます。
追記
テーマ&ファミマこと岡田義徳は『最高の離婚』でも恋の噛ませ犬を演じていたので不憫だなって思った。
まぁ、あの岡田准一から麻生を奪うには圧倒的に岡田度が足りないのだが。
もうそのままデジカメのCMに出られそう。