海に出るとだいたい死ぬけど奇跡的に死者ゼロの映画。
20016年。ジョン・マスカー、ロン・クレメンツ監督。アニメーション作品。
かつて世界を生んだ命の女神テ・フィティの心が、伝説の英雄マウイによって盗まれ、世界に闇が訪れた。それから1000年にわたり、モアナの生まれ育ったモトゥヌイ島では、外洋に出ることが禁じられていた。そんなある時、島で作物や魚たちに異変が発生。海の不思議な力に選ばれた少女モアナは、いまもどこかで生きているマウイを探し出し、テ・フィティの心を元あった場所に戻すことができれば世界を救えると知り、父親の反対を押し切り大海原に旅立つ。(映画.com より)
『ズートピア』からわずか8ヶ月という短期スパンを経て公開されたディズニーの新作は、ジブリ的スピリチュアル冒険譚に満ちたポリネシアン海洋活劇である!
海に出るとだいたい死ぬという一般常識を教えてくれたのは『ジョーズ』や『ポセイドン・アドベンチャー』といった教育的映画群だ。
実際、モアナの父親も「海は危険な所やさかい、海には出たらあかんで。だいたい死ぬから」と再三に渡って釘を刺す。
だが、テレビも無ぇ、ラジオも無ぇ、車もそれほど走って無ぇモトゥヌイ島での安住を良しとしないモアナは、父親の忠告をドン無視して「あたしゃ海さ出るだ」と息巻いて船旅に出発する。
(当初、モアナの同伴者はブタだったが大波事件で殺しかけたので、一度島に戻って死んでもあまり差し支えないようなアホのニワトリを一羽連れていく)
幽閉されたお姫様が外界を越境するという、昨今のディズニーが『塔の上のラプンツェル』や『アナと雪の女王』などで繰り返しテーマにしてきたディズニープリンセスの否定は、モアナの「私はプリンセスじゃないわ」という台詞によって二重否定される。
実際、プリンセス・モアナは海に選ばれた少女を豪語しており、ナウシカの真似をして動物一匹と冒険をするのだ(従来のディズニープリンセスは白馬の王子様が現れるのをまんじりともせずただ待っているという完全無欠の受け身)。
途中で男性キャラクターと巡り合うが、それは王子様と呼ぶには決定的にロマンチシズムが欠如した一騎当千のファイターだ(サミー・ヘイガー*1みたいなパーマ頭の巨漢!)。
モアナと共に旅をするサミー・ヘイガー(元ヴァン・ヘイレンのボーカル)。
女傑モアナと豪傑サミーの最強バディは、行く先々でイウォーク風の海賊やニューロマンティック中毒のヤシガニを討伐する。
ココナッツ海賊のカカモラ。元ネタは『マッドマックス 怒りのデス・ロード』のヒャッハー族らしいが、『スター・ウォーズ エピソード6/ジェダイの帰還』のイウォークにも見える。某麦わらの一味では歯が立たないほど残虐な戦闘民族である。
宝石大好きなヤシガニ、タマトア。
彼が歌う「Shiny」はデヴィッド・ボウイの音楽性に着想を得て作られたものらしいが、どちらかといえばロキシー・ミュージックやデュラン・デュランなどニューロマンティックの影響が窺える。80年代に囚われた哀れなヤシガニである。ヴァン・ヘイレン聴けよ!
モアナとサミーが旅をする理由。それは、地獄みたいな溶岩怪獣テ・カァにかつてサミーがノリでパクってしまったテ・カァの心を返却して謝罪するためである。
溶岩怪獣テ・カァは、サミーに心を盗まれたことにぶち切れて世界を闇に変えたのだ。
つまりこちらに義はない。完全にサミーが悪い。
パクった心を返そうとしてテ・カァに接近する二人だが、領海侵犯した途端にヒステリーを起こし「こっち来やんといてええ!」とばかりに火の玉をバンバンぶつけてくるテ・カァの怒りの沸点の低さに、モアナ&サミーはたじたじ!
しかも、テ・カァに火の玉をぶつけられ、命よりも大事なギター…武器を壊されたサミー、ヘコみまくった挙句「なんか…テンション下がった。もうええわ。帰るわ…」と言ってモアナを残して自分だけ先に帰ってしまう。
おまえはYOSHIKIか!
とてもディズニー映画を観ているとは思えないようなハードコア海洋活劇だ。
しかし繊細な演出はなかなか奥が深い。
ピクサーの『ファインディング・ドリー』に対抗するかのような水面描写の豊かな質感。CGアニメーションを作るうえで最も難しいのが水の表現だが、ディズニー/ピクサーは当たり前のように楽々クリアしている。
また、海が舞台の映像作品ではいかにして単調な水平運動にメリハリをつけるかという点がキモ。だいたいの映画は大波に襲われたり海に潜水するシーンを設けることで縦のパースを導入しているが、本作ではゴジラ級の巨体を誇るテ・カァや、鷹に変身できるサミーなど、キャラクターのデザインそのものが上昇と落下の装置になっている。アニメーションの特性を最大限に活かした見事な発想。こういうところがディズニーは巧い。
サミーの操縦によって生き物のように動く帆曳船の躍動感もすばらしいし、激おこテ・カァがモーセみたいに海を割って陸を爆走するシーンでの赤と青の色彩対比、そして心を取り戻した悪魔テ・カァが女神テ・フィティに変身した途端に発色のいい緑が画面の全域を覆い、青と緑の調和が平和の表象として物語的な大団円に結びつく。
キャラクターの言葉や運動がなくても、色使いだけで物語がだいたい理解できるほど色彩によるストーリーテリングが際立っている。
心を取り戻した悪魔テ・カァは、クリスタル ケイ…女神テ・フィティになる。
そして彼女に「心パクってすみませんでした」と土下座するサミー。その情けなさ。
左から右へ、という冒険活劇における進行方向の原則もとても印象的で、色彩設計にしてもそうだが、感覚的な映像快楽によって観る者の意識下にダイレクトに訴えかけた分かりやすさこそが本作の、ひいてはディズニーの魅力なのだろう。
画面の情報量は多いが不思議と抜けのいいビジュアルばかりでミニマムなスペクタクルを感じさせる。
擬人化された海やタトゥーも非常に愛らしく、波萌えまたはタトゥー萌えという新たな萌え文化を切り拓くことにも成功している。