1968年。ジャン・エルマン監督。アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソン、ブリジット・フォッセー。
アルジェリアの外人部隊から帰還した軍医ドロンは、広告会社に勤める女から奇妙な依頼を受ける。彼女が黙って持ち出した債券を会社の金庫に戻して欲しいというのだ。ドロンと同じく戦争帰りのブロンソンは、ドロンの仕事に興味を持ち、二人は金庫に潜入する事となった。こうなれば債券を持ち出す代わりに金庫の金を奪い取ろうという魂胆だ。だが、ようやく開いた金庫の中には金はなく、そのうえ二人は金庫に閉じ込められてしまった…。 (Yahoo!映画より)
ホモ映画の金字塔。しかし早合点してはならぬ。
ホモといってもホモセクシュアル(同性愛)ではなくホモソーシャル(擬似同性愛的友情)だ。
こうしてキチッと前置きしたにも関わらず、二次元という森に繁茂している腐女子と呼ばれし邪悪なキノコたちによって、いとも容易くホモソーシャルはホモセクシュアルへと曲解されてしまう。
男同士がちょっと仲良くしてるだけですぐ「アーッ!」とか言われてしまう時代だからね。くっだらねぇ。
男同士の美しい友情を自らの性的嗜好を満たすための道具にすることが現代日本の文化ならば、いいでしょう、一人でも多くの人にこの映画を観てもらうために、あえて腐女子の皆さんを喜ばせるための文章を綴ってやるからエンジョイするがよい!
本作の概要を一言でまとめると、アラン・ドロンとチャールズ・ブロンソンが会社の金庫の中に閉じ込められる。以上!
腐女子のために説明を加えておくと、アラン・ドロンというのは生きとし生ける総ての女性を虜にした銀河系最強クラスのハンサム俳優で、チャールズ・ブロンソンというのは「う~ん、マンダム」のCMで一世風靡した男性フェロモンだだ洩れ俳優である。
とにかくその二人が会社の金庫に閉じ込められるってわけ。
あとは推して知るべし…。
アラン・ドロン(右)とマンダムおじさん(左)。
さて、BL的予兆を大いに孕んだ密閉空間。
暗くて何も見えないので松明の炎で金庫内を照らす二人。炎の熱気が暑さに拍車をかける。汗だくになるイイ男二名。いつしか二人とも服を脱く。湿った吐息。汗でテカテカの上半身。モリモリの筋肉…。
しかしこのままでは一酸化炭素中毒で死ぬる。金庫から脱出すべく壁の破壊を目論み、通気口の蓋を代わりばんこで壁に打ち付ける。
がつーん! がつーん!
がつーん! がつーん!
鍛え抜かれたホモコードと研ぎ澄まされたBLリテラシーを持つ高度な腐女子であれば、無論これがピストン運動を連想させることも、そして行為の暗喩であることも簡単に見抜くだろう。
なんてったって、壁を突きまくって穴を掘ってるわけだからな。
ワォ!
ワォ!
いま私は、最初に宣言した通り、一人でも多くの腐女子に本作を観てもらいたい一心であえてホモっぽい映画としての紹介文を書いているわけだが、実はこの映画の本質はまさにここにある…というか、ホモセクシュアルとホモソーシャルの境界線が非常に曖昧な作品なのである。
あくまでこの二人は男同士の友情によって結びついているし、「俺はゲイだ」とか「やらないか」なんて台詞も当然存在しないが、その見せ方が徹底的にホモセクシュアルなので、「え、どっち!? 」と困惑するのだ。
ちなみに、本作の8年前に作られたアラン・ドロンの代表作『太陽がいっぱい』(60年)で彼が演じた役は同性愛者だった(日本で初めてそれを指摘したのは映画評論家の淀川長治さん。彼もまた同性愛者として有名)。
『太陽がいっぱい』のゲイ話は2分から。
とにかくこの『さらば友よ』、閉鎖された建物の中で徐々に体力を消耗させてゆく二人の男が妙にエロティックに撮られている。
端正な顔立ちのアラン・ドロンとむさ苦しいブロンソンに、誰もがミスマッチの共演だと思うだろうが、それは腐女子の視点に立って言えばむしろギミックなのだろう。
より男性的なブロンソンが「攻め」と思いきや意外と「受け」だったり、中性的な美しさを誇るアラン・ドロンの逞しい肉体とその毛穴から噴き出る汗がブロンソン以上に性的な刺激を煽ったりと、目くるめく男性フェロモンの世界に観る者は次第に茹蛸のようにのぼせること必死。鼻血プーだ。
ただの友情を超えた同性愛としての裏テーマが決して邪推ではないことは、ビリジット・フォッセーとオルガ・ジョルジュ・ピコが実はレズビアンカップルだったという事実がはっきりと明示されるシーンが裏付けている。
この映画で有名なのは、なみなみ注がれたウイスキーをこぼさないよう、グラスにコインを一枚ずつ落としていくという賭けを好むブロンソンが、最後の一枚を落としきって「イェー」と喜ぶシーン。
このシーンに何らかの性的暗喩を読み取るほど私の頭はイカれちゃあいない。
だが、ことによると淀川長治さんであれば高度な読みをしてみせたのかもしれないし(淀川さんの頭がイカれてると言っているわけではない)、腐女子たちの妄想材料としてもお使い頂けるので、やはり名シーンなのだろう。
表面張力はいつの時代でもドキドキ。
しかし本当に素晴らしいのは、二人が別れるラストシーンだ。
警察に連行されるブロンソンの煙草にアラン・ドロンが無言で火をつけてやるというだけのシーンなのだが、この二人の仕草、そして無言が醸成する空気感だけで男同士の渇いた友情というものを克明に描ききっている。
ホモだのBLだのと好き放題言ってすみませんでしたと自己嫌悪するほどに、潔く、また、美しいシーンである。
ホモセクシュアルとホモソーシャルを一緒くたにする風潮には腹が立つが、本作に限ってはどちらで解釈しても楽しめるので、腐女子およびイケメン好きならびに金庫マニアには強く推したい名作。
追記
アラン・ドロンの『冒険者たち』(67年)はホモセクシュアル成分ゼロの純粋ホモソーシャル映画なので、そちらをまず先に観た方が精神にとっては健全なのかもしれない。
もっとも、健全な精神にいかほどの値打ちがあるのかは甚だ疑問だが。