ハッタリ不発のダイジェスト版『聖書』。
2017年。ダーレン・アロノフスキー監督。ジェニファー・ローレンス、ハビエル・バルデム、エド・ハリス、ミシェル・ファイファー。
郊外の一軒家に暮らす一組の夫婦のもとに、ある夜、不審な訪問者が現れたことから、夫婦の穏やかな生活は一変。翌日以降も次々と謎の訪問者が現れるが、夫は招かれざる客たちを拒む素振りも見せず、受け入れていく。そんな夫の行動に妻は不安と恐怖を募らせていき、やがてエスカレートしていく訪問者たちの行動によって事件が相次ぐ。そんな中でも妊娠し、やがて出産して母親になった妻だったが、そんな彼女を想像もしない出来事が待ち受ける。(映画.com より)
「衝撃の問題作」とか「全世界騒然」と言われている『マザー!』だけど、まあ実際はそれほど大したことはない。韓国映画の『哭声/コクソン』(16年)が好きな人にはすすめられる、ちょっとアレな作品です。
『哭声/コクソン』も近々レビューしますね。需要は限りなくゼロに近いでしょうが。ていうかゼロ? ゼロソン?
需要ゼロソンで、ぼく哭声(コクソン)。
ハイ。くだらないこと言ってないで『マザー!』のお話をしましょうね。
レッツ、マザー!
もくじ
①ネタバレ全開予告
ダーレン・アロノフスキーの新作『マザー!』は日本公開が中止になった。本国アメリカでは批評家の間で賛否両論が割れている一方、多くの人民は怒り狂って酷評した。
人民が怒り狂った理由は、日本公開が中止になった理由とも重なる。
過激な暴力描写、不快な展開、女性蔑視、そして何より宗教まる出しのメタファーを多分に含んでいるため、世界中の人民は「胸糞悪い上に、わけわかんなーい!」と怒り狂い、日本公開は見送られたのだ。
まずはあらすじ紹介からいってみましょうか。
全部ネタバレしてるので、「これから観るよー」という方、「『マザー!』を楽しみにしているんだよー」という方はご注意あそばせね。
後になって「オマエが全部言ってくれたお陰で面白さが半減したぜえ。マザーファッカー!」と言われても、僕にはどうしてあげることもできないんだ。
②5行ぐらいで粗筋紹介するつもりが1000字近くなった。すまん、すまん。
ある日、詩人のハビエル・バルデムと妻ジェニファー・ローレンスの家にハゲた男がやって来る。素性の知れない男エド・ハリスを自宅に泊めようとするハビエルに苛立ちながらも、どうにか我慢してアカの他人を家に迎え入れるジェニファー。
翌日、エド・ハリスの妻ミシェル・ファイファーが家にやって来た。我が物顔で家の中を物色したり、洗濯機の中から勝手にジェニファーの下着を取り出して「もっと色気のあるパンツを履かなきゃダメよ」とパンツ批評までするという無遠慮ぶり。子供がいないジェニファーに対して「今すぐ子作りするべきよ。それにはまずパンツを変えなきゃ」と子作り批評までする始末。大きなお世話だよバカヤロー。
さらには、ハビエルが大事にしている水晶石を勝手に触って壊してしまうエド夫妻。
エド夫妻のあまりに非常識で厚かましい態度に業を煮やすジェニファーだが、何より腹立たしいのはアカの他人をホイホイと家に迎え入れるハビエルだった。
さらに翌日、エド夫妻の息子たちまでやって来て、どうでもいいことで喧嘩して兄が弟を殺害してしまうという大事件発生。兄は逃亡し、エド夫妻は悲嘆に暮れた。ジェニファーは「マジで何なの、この状況?」と戦慄した。ここでもハビエルが「俺の家を使ってくれ」と言ってしまったことで、エド夫妻の親族や知人たちがわらわらと家に押し寄せ、しんみりしながら弟の死をみんなで悼むというシュールな状況にジェニファー唖然。
「誰なのよあの人たち、追い出してよ!」
ようやく不思議な居候・エド夫妻が帰ったあと、久々にハビエルと抱き合ったジェニファーは一発合格で子供を授かり、妻の妊娠にインスピレーションを得て書きあげたハビエルの詩はスマッシュヒット。一躍時の人に。やがて臨月を迎えたジェニファーは、ようやく訪れた幸せを噛みしめるが、またしてもそこへ来訪者が現れた…。
詩人として大成したハビエル目当てで家に押しかけたマスコミや熱狂的ファンが次々と家の中に入ってきて乱痴気騒ぎ。やがて暴徒と化したファンたちは略奪や破壊の限りを尽くし、そんな騒動の最中にジェニファーが産んだ赤ちゃんを惨殺して食べてしまう。慟哭したジェニファーは家に火を放ち、ハビエルや暴徒もろとも全てを焼き尽くす。
なぜか無傷のハビエルが、ジェニファーの焼死体から心臓を取り出すと、その心臓は水晶石へと姿を変え、全焼した家はたちまち元通りになる…。
…というのが大体のあらましである。大体のあらましっていうか、ほとんど最後まで喋っちゃってるけど。
それにしても、何なんでしょうねぇ、この映画。
民泊でもないのに、来訪者が次々現れてはジェニファー夫妻の家に上がり込んで随意にくつろいでゆく。プライバシーもヘチマもないよ。
③絵解き
あい。もう面倒臭いので先に答えを出してしまうと、この物語はすべて聖書の寓喩になってますね。
すでに本作をご覧になった映画好きの方々は「うん、知ってる知ってる」と思いながらビャーッと読み流してね。
妻のジェニファー・ローレンスは地球。
夫のハビエル・バルデムは神=創造主。
彼らが授かった赤ちゃんはイエス=キリスト。
最初の来訪者エド・ハリスはアダム。
その妻ミシェル・ファイファーはイブ。
エド夫妻の息子二人はカインとアベル(人類最初の殺人の加害者と被害者)。
家に押し寄せる群衆はキリスト教信者。
ハリスとファイファーがブッ壊したハビエルの水晶石は禁断の果実。
また、ハリスの脇腹についている傷は神がアダムの肋骨を抜き取ってイブを創ったという旧約聖書のエピソードだし、家の中で暴れ狂う群衆が台所を壊して水浸しになるのはノアの箱舟を意味している。
神に創られた人間が羞恥心に目覚め、殺人を犯し、文明が発達して、宗教が生まれ、エゴを覚え、環境破壊をして、ハルマゲドンが訪れる。
つまり本作はダイジェスト版の聖書。
何の予備知識も持たないまま観た私は、最初「ホームインベージョンものかな?」とアホみたいなことを思っていたが、中盤あたりから「あれ? 聖書っぽいんですけど…」と逆算的に辻褄を合わせていって「宗教かい」とズッコケた次第。
ただでさえ、ジェニファーを追いつめる無神経な来訪者の言動は不愉快だし、終盤の暴力描写もなかなか酷い。それに宗教的メタファーに気付かない観客の目には女性蔑視にも映るだろう。
まぁ、日本公開も中止になるわけだ。
④クローズアップと露出アンダーに疑問をぶっ込む。
さて、ここからが本題。
先述した宗教的メタファーについては、すでに見識あるレビュアーやブロガーの皆さんが指摘しているし、何より監督のアロノフスキー自身が「これはそういう映画だ」とはっきり公言している。
この映画の正体を詳しく知りたい方は「マザー 映画 解説」と検索して調べてみて頂戴ね。
ただ、そうした宗教的メタファーの絵解きはなされていても、意外と評論はなされていない。
『マザー!』の「解説」をしている人は大勢いても、「映画評論」をしているレビュアーがほとんどいないのだ。
したがって本稿では、寓話としての『マザー!』の解釈をめぐる更なる絵解きは見識ある方々にお任せするとして、ひとまず映画として『マザー!』を論じてみたい。そんな風に思っておるわけです。
本作は『レクイエム・フォー・ドリーム』(00年)、『レスラー』(08年)、『ブラック・スワン』(10年)などを手掛けてきたダーレン・アロノフスキーの最新作だ。
この人はハッタリの達人であり、同じくハッタリをよく使う同世代のクリストファー・ノーランに比べれば幾らかタフな監督だが、今回の『マザー!』にはちょっぴり失望してしまった。
寓喩と戯れすぎたのだ。
メタファーという仕掛けごっこに興じるあまり映画を見失ってしまうという、難解映画がハマりがちな落とし穴にズルズル…ズルリーニと落ちてしまっている。
たとえばクローズアップの使い方。
カメラは終始ジェニファーをクローズアップで捉え続ける。いつ何時でもカメラは彼女の貌に密着しているので、基本的に彼女がいない場所で起きた出来事については描かれない。
それは、彼女の不安感や恐怖心をカメラが定点観測することで、この映画が非常識な来訪者に戸惑い苛立つ妻の精神的負荷を描いた一人称の映画であることをフェイクとして主観化するため。つまり観客をジェニファーに感情移入させるためのミスリードとしてクローズアップを使っているわけだ(この映画の正体=聖書の寓喩を悟られないための隠蔽工作)。
この手法はロマン・ポランスキーの『ローズマリーの赤ちゃん』(68年)の模倣。
他のアロノフスキー作品にも『ローズマリーの赤ちゃん』だけでなく『反撥』(65年)や『テナント/恐怖を借りた男』(76年)などの影響がモロに見られるように、彼の創作の源流には常にポランスキーがいる。
いわばギミック(=ハッタリ)としてクローズアップが使われているわけだが、多くのレビュアーも指摘している通り、この映画に聖書の暗喩を読み込むのは比較的容易(聖書なんて一行も読んだことのない無教養な私でも途中で気付いたぐらいだからね!)。つまりハッタリとして弱いのだ。
「ミスリードの為だけに2時間まるまるクローズアップで撮ったのかよ」と。
また、クローズアップを濫用しすぎると画面が窮屈で息苦しくなり、芝居依存の自閉した世界に矮小化されてしまうという欠点もある。グザヴィエ・ドランの『たかが世界の終わり』(16年)のように。
そんな映像的貧困に拍車をかけるのが露出アンダーの画面。
とにかく明度が低すぎて、電気をつけた部屋で鑑賞するとほぼ真っ黒で何も見えないぐらい映像が暗い。
これもクローズアップの用法と同じく、不条理な来訪劇に神経をすり減らしていくジェニファーの心身の疲弊を表現するためにあえて露出アンダーを選んだハッタリなのだろうが、これも上手くない。
露出アンダーの弱点は画面の濃淡を潰してしまうことだ。
猪口才なアロノフスキーのことだから「暗い雰囲気を表現するために、あえて露出アンダーで撮ったんですよーぅだ!」なんて言い返してきそうだが、黙れ小僧! お前にサンが救えるか!
だったらいっそモノクロにした方が良かったのでは?
ちなみに、ドゥニ・ヴィルヌーヴの『メッセージ』(16年)は露出アンダーを使った成功例で、限りなく白に近い灰色の基調色がきわめて格調高い画面を作ってます(にっこり)。
常に露出アンダー気味のクローズアップ連発なので、かなりストレスを感じる作品だ。
多くの観客がこの作品に対して「胸糞悪い!」という力強い感想を残しているが、その胸糞悪さは映画の内容(来訪者の非常識な振舞いやむごたらしい暴力描写)によるものというよりも、アロノフスキーの怠惰な映像処理によるものだろう。
とにかく暗い! ジェニファー・ローレンスの顔が『プロメテウス』(12年)の石像みたいになっとるやないか。
⑤聖書を知らなくても楽しめる。
美点をいくつか挙げておくならば、まずは何といってもジェニファー・ローレンスの芝居。
わけのわからない来訪者に家を占領されることへの困惑と苛立ちを抱える妻を演じているが、彼女の芝居のおもしろさは「いきなり他人が家に上がり込んできて大迷惑を被るヒロイン」を演じるのではなく、いきなり他人が家に上がり込んできてヒロインが大迷惑を被るシーンを観た「観客の反応」をそのまま演じているところだ。
つまり、劇中のジェニファーのリアクションとわれわれ観客のリアクションはほとんど完璧にシンクロする。
われわれが「え、どういうこと?」と困惑するシーンでは彼女も「え、どういうこと?」という芝居をするし、われわれが「そろそろ腹立ってきたなぁ」と思えば彼女も「そろそろ腹立ってきたなぁ」という芝居をしてくれるから、自ずとヒロインに感情移入してしまって彼女だけが唯一まともな人間なのだと確信し、この映画がジェニファーの一人称であることを信じ込んで彼女と同じ目線で映画を観てしまうってわけ。
そして先述の通り、それ自体が大いなるギミックなのだ(この映画の正体を悟られないための隠蔽工作)。
だって、唯一まともなキャラクターだと思っていたジェニファーの正体が地球なのだから。
もうひとつ面白いのは、あえて宗教的メタファーなど抜きにして観た場合、ルイス・ブニュエルやデヴィッド・リンチに勝らずとも劣らないシュルレアリスティックな不条理劇であること。
ハビエルに「触るな」と言われていた水晶石を触ってブッ壊してしまい、「この部屋から出ていってくれ!」と激怒されたハリス夫妻がしょんぼりしながら自分たちの部屋に帰って行き、しばらく経ってジェニファーが部屋のドアを開けたら思いきりイチャこいていた…というシーン。
反省の色がなさすぎて、思わず笑う。
まぁ、このシーンの意味をまじめに絵解きすれば「禁断の果実に手を出したことで楽園を追放されたアダムとイブが羞恥心に目覚める」という聖書のエピソードをそっくりそのままなぞってるだけだが、よくぞ聖書を笑いに変えたなというか。
お年を召しても変わらないエド・ハリス(67歳)と、相変わらずキュートなミシェル・ファイファー(59歳)。
こういうシリアスな笑いがそこら中に散りばめられているので、聖書のメタファーを度外視してもそれなりに楽しめるんじゃないかと思う。
ちなみに、監督のアロノフスキーと主演女優のジェニファーは撮影中に恋に落ちたそうだが、わずか1年足らずで破局している。
『マザー!』を逆から読んであげよう。
ざまァ!