いま画面の中で起きてることが必ずしも真実とは限らない系の嵐接近型ホームドラマ!
2011年。ジェフ・ニコルズ監督。マイケル・シャノン、ジェシカ・チャステイン、キャシー・ベイカー。
田舎町で妻と娘と幸せに暮らしていたカーティスは、異常気象に襲われる悪夢を見て以来、その恐怖にとりつかれてしまう。避難用のシェルター作りに没頭するカーティスに対し、家族や周囲の人々は次第に不信感を募らせていくが…。(映画.com より)
長らく無視していたのですよ。
「どうせ巨大嵐が襲ってくるディザスター・ムービーでしょ。お腹いっぱいだわ!」つって。
でも、ぜんぜん違った。
嵐が来るか来ないかについての映画だった。
統合失調症のマイケル・シャノンは、毎晩、巨大な嵐が町を襲う悪夢にうなされている。
日ごと憔悴するシャノンは、精神科医に通ったり抗精神病薬を飲み続けるが症状は一向におさまらず、妻のジェシカ・チャステインや聴覚障害を持つ娘との関係も悪化していく。
「嵐が来る」という強迫観念に取り憑かれたシャノンは、家族を守るためにローンを組んで自宅にシェルターを造設するが、家族や仕事仲間からは「いよいよヤベえぞ、あいつ」と冷たい目で見られ、キチガイ扱いされるのであった…。
「あっふー! 夢か!」
悪夢を見すぎて寝小便まで垂れるマイケル・シャノン。
ハッと起きると夢だった…というパターンが劇中で何度も繰り返される。
いわゆる夢オチというのはありふれた手法だが、本作ではその夢オチが間歇的に何度も何度もカマされ、しかもその夢が何かのメタファーだったり何かをミスリードするためのギミックとして重畳的に機能しているので、二重三重のおもしろさがある。
あまつさえ、シャノンが見るのは嵐の悪夢だけではない。
むしろ嵐はひとつの前兆で、そのあとに黄色いエンジンオイルが空から降ってきたり、人々が狂暴化したり、妻が自分に包丁を向けるといった夢の続きがある。
したがって、もしも本当に嵐が起きたとしてもそのあとの展開すら夢かもしれないという可能性が絶えず留保されているのだ。
しかも嫌らしいことに、あえて天気の悪い日ばっかり選んでロケーションをしてるんだよ、この映画。曇りだったり小雨だったり。だから余計に、いま観ているシーンが夢なのか現実なのかが判然としない。
夢と現実の境界線が滲んでいくという意味では、デヴィッド・リンチにも通じるシュルレアリスム映画だ。
子供との組み合わせがすこぶる悪いマイケル・シャノン。父親役、似合わねー。
だが本作は、現実と悪夢の狭間を去来して「何がどうなっているでしょう?」と問いかけるミステリー映画ではない。
根幹にあるのは家族についての物語だ。
統合失調症の夫の妄言や奇行を受け止める妻、娘に人工内耳手術を受けさせたいのに日ごと逼迫する家計、そして家族を守りたい一心でシェルターを造設する夫…。
こうした家族の物語が主軸を担いながら、不穏に進展していく作品なのである。
妻を演じるチャステインは、不安と恐怖でピリピリしている夫の八つ当たりに耐え、娘の人工内耳手術の費用を工面するために謎の編み物をバザーに出品して叩き売りするような努力も厭わない善き妻。
しかし、夫が勝手に大枚はたいてシェルターを造設した上に、会社の重機を無断使用してクビになったことで、夫の保険で娘の手術費をカバーすることができなくなり、いよいよ怒髪天を衝く。
いくら愚鈍とは言えさすがに妻の限界を感じ取ったシャノン、「出ていくのか…?」と訊ねると、チャステインは「私は仕事を見つける。あなたは治療に専念。家族旅行のために貯めておいたヘソクリを使って、友達からお金も借りれば、どうにか手術費は工面できるわ」と具体的な解決策を提示して夫に寄り添う。
普通、「もう我慢の限界よ!」とぶち切れて妻子が逃げちゃうような定番コースだが、そうならないあたりが妙にリアルで。
しかし、そのあと家族で参加した町内の食事会で、仕事仲間がシャノンに突っかかって大喧嘩に発展。ぶち切れたシャノンが食卓をひっくり返し、「俺の話を聞けええええ!」とクレイジーケンバンドみたいなことを叫ぶ。
そして「お前ら、俺のことをイカれた奴だと思ってるんだろう? だがな…、もうじき嵐が来る。とんでもない大嵐がくるというのに、おまえらは何も備えちゃいない!」と災害時備蓄メソッドを演説。
みんなドン引き。娘もドン引き。
しかしチャステインだけはドン引きするどころか、泣きだす夫を「帰りましょう…」と言って優しく抱きしめるのだ(←ここ重要ですよ!)。
終盤では現実に嵐がやって来る(しかしシャノンが悪夢で見たような大嵐ではない)。
一家はシェルターに避難して夜を過ごし、無事に嵐をやり過ごしたが、夫は「まだ外は嵐だ…」といってシェルターの扉を開けることを躊躇する。妻は「嵐は去ったわ。私たちと一緒にいたいと思うなら、扉を開けて。お願い」と懇願し、ようやく夫がシェルターを開けると、すでに嵐が去った町には陽光が降り注いでいた。
すっかりハッピーエンドのつもりで家族旅行に出かけるラストシーン。シャノンと娘が浜辺で城を作っていると、急に娘が立ち上がって海の向こうを見つめる。それに気づいたシャノンとチャステインも同じ方角を見て戦慄する…。
巨大嵐がやって来たのだ。
黄色いエンジンオイルが降りかかった手を見つめながら、チャステインの「わかったわ…」という意味深な台詞で映画は終わる。
来るべき終末。
観客の間では、このラストをめぐって様々な推論が立てられている。
(1)シャノンの予知夢が現実のものとなった。
(2)シャノンの幻覚が家族に伝染した。
(3)すべてはシャノンが見ている夢。
私が「こうだ」と断言してこれから鑑賞する人の見方を狭めてしまうのもアレだけど、まぁ普通に考えれば(2)が妥当でしょうね。
最初に嵐に気付いたのは娘。統合失調症の遺伝率は10%ときわめて高く、中盤にはシャノンが見ている夢と見せかけて娘が夢を見ていることを仄めかすシーンがあったし、妻のチャステインは食事会のシーンで夫の妄言や奇行に徹底的に付き合うことを決めた。だから最後に、夫と娘が見ている嵐を幻視して「(あなたの苦しみが)わかったわ…」という一言を漏らしたのだ。
いずれにせよ、「夫(統合失調症患者)に合わせる」ことを選んだ一家の暗い未来を示唆する、やりきれないラストシーンだ。
精神不安定を演じさせたら右に出る者はいないマイケル・シャノンがよくハマっている(『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』や『狂気の行方』でも似たような男を好演)。
だがそれ以上に、型通りの芝居の一歩先に踏み込んだジェシカ・チャステインの巧さに舌を巻く。
『マン・オブ・スティール』(13年)ではシェルターなんて一撃で壊しそうなゾッド将軍を演じていたマイケル・シャノンだが…。
映画は終始ロートーンで、「かったるい」という感想を忌々しそうに吐いたレビュアーも目立つが、的確な画運びと役者陣の芝居が魅力的なので、長編小説を1ページずつじっくりと読んでいくような味わい深さがある。
元ネタはヒッチコックの『鳥』(63年)でしょうね。近年の映画だとシャマランの『ハプニング』(08年)や、スコセッシの『シャッター アイランド』(10年)にも近い。
いま画面の中で起きていることが必ずしも真実とは限らない系の嵐接近型ホームドラマの金字塔!
拾い物でした。
さて、レビューのストックが尽きてきたので、次回あたりから好きな女優ランキングでもやりますか。着々と準備を進めてます。アディオス。アディダス!