マッケナ見てほっこりする「ほっこりマッケナ映画」。
2017年。マーク・ウェブ監督。クリス・エヴァンス、マッケナ・グレイス、リンジー・ダンカン。
生まれて間もなく母親を亡くした7歳のメアリーは、独身の叔父フランクとフロリダの小さな町でささやかながら幸せな毎日を送っていた。しかし、メアリーに天才的な才能が明らかになることで、静かな日々が揺らぎ始める。メアリーの特別扱いを頑なに拒むフランクのもとに、フランクの母イブリンが現れ、孫のメアリーに英才教育を施すため2人を引き離そうとする。そんな母に抵抗し、養育権をめぐる裁判にのぞんだフランクには、亡き姉から託されたある秘密があった。(映画.com より)
子供映画はお好きですか。僕は嫌いなんですよ。なぜなら子供が嫌いだからです。
子供って論理が通じないじゃないですか。
たとえば子供と一緒に『フック』(91年)を観たとして、僕は映画を観終わったあと、その子供にこういうことを言いたいわけです(実際には言わないですよ)。
「この作品は『ピーター・パン』(53年)の構造的性格をリビルドしたスピルバーグなりの変奏だけど、世間的にはディズニークラシックの翻案にしてはややインセンティブでオリジナルの表象的主題が朧化されている、といって指弾されているらしいよ。まじやばくねー」とね。
でもそんなことを言ったところで、たぶんその子は唖然とするだけでしょう。
「なにいってるのお兄ちゃん。頭がヘンだよ!」と言い返されるかもしれない(そしてそれは正論だ)。
ましてや「僕はこの映画好きだな! だって面白かったから!」なんてそのガキ…子供が言おうもんなら、私は心の中でこう反論する(実際には言わないですよ)。
「キミがこの映画を好む理由が『面白かったから』…? いやいやいやいや、それはトートロジー(同語反復)といって、ただ同じ意味の言葉を繰り返してるだけで『だって』に続く論拠が破綻しています。キミがこの映画を好むことはよく分かったし、その感性は尊重するけど、『だって』という接続詞を使ってこの映画を好む理由を述べる以上は相手にも分かるようになるべくロジカルに説明してください」とね。
でもそれを口にしたところで死ぬほど嫌われるのは目に見えている。だから私は子供とコミュニケーションが取れない。
そして、この話の問題点は子供に限った話ではないということだ。
大抵の人は、今のような思弁めいたことを私が口にすると「面倒臭ぇな」と感じるだろうし、私だっていちいちこんなことを言ってくる奴がいたら「面倒臭ぇな」と感じると思う。
だから私は、今のような面倒臭い発言を日常会話の中でしたことはほとんどない。心の中で思惟するだけ。もし私が心の声を全部ぶちまけたら一夜にして破滅するだろう。
とはいえ、思ったことを我慢し続けても思考の糞詰まりになって死ぬだけだ。
だからこそ、私は無責任に自由なことが発言できるブログを通して、面倒臭い思惟や思考を吐き出しているのだ。まさに今この瞬間のように。
言わばあなたは私の文章の犠牲者だ!
べつに、今この文章を読んで下さっている読者様にどれだけ嫌われようが、私の実生活で不利益を被ることはほとんどない。逆に言えば、どれだけ好かれても利益にあずかることもない。
インターネットという匿名の言論空間において「好かれること」と「嫌われること」はまったくのイコールだ。
そういう考えに基づきながら、ただ言いたいことを言ってるだけなのがこのブログです。毎度アリス。
「子供嫌い」の話に始まったけど、完全に着地点を見失いました。
とりあえず、子供は死なないというハリウッド映画のお約束はもうそろそろいいんじゃない? って思ってます。
前置きが長くなって申し訳ない。そんなわけで『gifted/ギフテッド』だ。
どんなわけだ?
こんなわけだ。
もくじ
①キャプテン・アメリカが子育てする話。
まぁ、そういうことです。キャプテン・アメリカが子育てする話ですよ、『gifted/ギフテッド』は。
ヒーロー活動にうんざりしたクリス・エヴァンス(以下キャップ)が、S.H.I.E.L.D.から有休をもらって7歳の姪メアリーと平和な日々を過ごす…という内容なんですねぇ。
なのでこの作品、間接的にはアメコミ映画です!
(黙れ何も言うな納得しろ納得しろ納得しろ)
メアリーには天才的な数学の才能があるが、キャップはなるべく普通の子供として育てたいと考えている。キャップの姉でありメアリーの母にあたる数学者ダイアンが志半ばに自殺してしまったからだ。
そんなわけでキャップは、メアリーが通う小学校の教師に「おたくのメアリーちゃんは、私どもには手にあまるほどの天才です。ウチみたいな普通の学校ではなく、天才キッズ専用の選民思想バリバリ学校に入学させたらどないです?」と強くすすめられても「ええねんここで。普通が一番やねん」といってこれを突っ撥ねる。
ところがどっこい、やおら現れたキャップの母親は、孫のメアリーを天才数学者にするためにキャップから養育権をふんだくろうとしてレッツ親権争い。
『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』(16年)でアイアンマンと争ったと思えば、今度は母親と争うキャップ。
毎年のように誰かと争っている、忙しい男である。
②マッケナちゃんに飛びつくな!
さて。『gifted/ギフテッド』では、7歳の天才少女メアリーを演じたマッケナ・グレイスちゃんが「ブレイク間違いなしの天才子役!」として持て囃されている。
たしかにマッケナちゃんの存在こそこの映画の求心力といってもいい。
正直なところ、べつに主演はキャップでなくともいいし、むしろミスキャストとさえ思うが、マッケナちゃんは代えが利かない。まさにマッケナありきのマッケナ映画なのである。
「測定不能級のIQを持つ数学の神童」であると同時に「数学以外に関してはごく普通の7歳の少女」でもあるというアンビバレントな役をうまく理解して芝居にフィードバックしているのだ。芦田愛菜ちゃんみたいにね。
マッケナちゃんが眉間にしわを寄せて黒板の数式に取り組むシーンでは、その子供離れした眼光の鋭さに、観る者はおもわずマッケナちゃんのアップショットに「カチャカチャカチャ…」という計算音を幻聴してしまう。
IQが高すぎる人って普段なにを考えてるのかまったく分からないし、同じ次元で意思疎通できなさそうな異様な雰囲気をまとっているけど、まさにそんな天才特有の取りつく島がない感じがよく出ている。
かと思えば、虐めっ子をぶん殴ったり、シェールとティナ・ターナーのデュエット曲「Shame, Shame, Shame」で踊ったり、買い与えられたパソコンに夢中になったり…など、頑是ない身振りでキャップとの日々を謳歌するごく普通の少女としての姿がなんとも愛くるしくてねぇ。
ダコタ・ファニング、クロエ・グレース・モレッツときて、おそらく次の子役スターはマッケナちゃんでしょう。
ただ、「ブレイク間違いなしの天才子役!」とかなんとか言って必要以上に持て囃したくはないんですよね。
ただでさえ天才子役という時点ですでにハリウッド・バビロンの生贄にされかかっているのに、我々さもしいパンピーどもがやれ天才だの可愛いだのと持て囃すことで子役たちの消費サイクルが加速してしまい、いまの日本の若手俳優のように3~4年で使い捨てにされてしまう。
彗星のごとく現れたマッケナちゃんに「わぁ可愛い、天才!」と飛びつきたくなる気持ちは俺の中にもあるが、飛びつけば飛びつくほどマッケナちゃんの女優生命は削られていきますよ。
マッケナちゃんに飛びつくな!
やめろ、離れろ!
ぜひとも映画関係者たちには、ハリウッドという名の死の荒野に咲いたマッケナちゃんという花を大事に育ててほしいもんです。
③オクタヴィア不敬罪。
さて、現時点ではマッケナちゃんについてしか褒めていません。
マッケナちゃんにだいぶ割かれた。
さすがマッケナちゃん、この割かせっぷり。
うーん、基本的にはほっこりマッケナ映画として心穏やかに楽しめるのだけど、気になる点がいくつかあるので弾丸列挙していきます。
まずはキャップことクリス・エヴァンスの起用。芝居が退屈すぎて感動大幅減。
事前に『クレイマー、クレイマー』(79年)のダスティン・ホフマンとか『パパが遺した物語』(15年)のラッセル・クロウとか観て予習してほしかったわー。
これならまだ『96時間』(08年)のリーアム・ニーソンの方がよっぽど「娘を想うパパ」してたよ!
クライマックスの抱擁も、キャップにもっと表現力があれば確実に落涙していたでしょう。
まぁ、もともとこの人って国旗背負って戦場で盾放り投げてる男だからね。
「国を守る」ことにかけては他の追随を許さないけど、「娘を守る」ことに関してはペーペーなんですよ。父親じゃなくてソルジャーだから。
あと俳優繋がりでいえば、キャップ家の隣人を演じたオクタヴィア・スペンサーの使い方。
オクタヴィア・スペンサーといえば、『ドリーム』(16年)で図書館から本パクって開き直ってる女性計算士ですよ!
相変わらずポケモンみたいにコロコロしていて、マッケナちゃんに負けず劣らず可愛らしいのだけど、本作ではこのキャラ、要る?っていうぐらい扱いが杜撰で。もう洗濯カゴ持ってブーブー言ってるだけ。
「マッケナちゃんの精神的な母」というポジションなのだが、そこに対する思いも描かれてなければ、キャップとの関係性も不明瞭。オクタヴィア不敬罪にあたります。
『ヘルプ 心がつなぐストーリー』(11年)や『シェイプ・オブ・ウォーター』(17年)など「隣人 オクタヴィア・スペンサー」を描くうえでのお手本は沢山あるのに、どうしてこれほど薄いキャラクターとして薄く処理してしまったのだろう。
④キャップと母ちゃんのシビル・ウォー。
また、娘には普通の子供として幸せな人生を歩ませようとするキャップと、天から授かった才能(ギフト)は世のために活かさねばならないとして数学者の道を歩ませようとする母親との対立は、才能の使い方という本作の主題を浮かび上がらせる。
どちらの意見にもそれぞれに正と誤があって、それゆえに観客にも「どうすることがマッケナちゃんにとっての幸せなのか?」という問題をシビアに突きつけている。
このように問題提起の方法としてはとてもいい形でまとまっているのだけど、肝心の問題解決が雑になっちゃってて。
いちばん大事な「マッケナちゃんの意思」がどこにあるのかよく分からない状態で、周囲の大人たちが自分にとって都合のいいようにマッケナちゃんの未来を「ああすべきだ」、「こうすべきだ」と決定するばかりで、そうこうするうちになし崩し的に母親が悪者にされちゃっておしまいっていう。
「天才少女は『天才』として育てるべきか、『一人の少女』として育てるべきか?」という単純な二元論では片づけられない問題に取り組んだ作品なのに、徐々に映画はマッケナちゃんと向き合うことをやめて、最終的には単純極まりない善悪二元論で片づけちゃってるので、鼻白むことおびただしい。
中盤以降なんて、マッケナ映画じゃなくてキャップと母ちゃんのシビル・ウォーになってるんだよ。
あれ…、これって『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』のスピンオフなのかな?って。そういう意味でも本作はアメコミ映画なんだよ、ある種ね。
マッケナちゃん然りオクタヴィア・スペンサー然り、「ないがしろになってない?」っていうキャラクターたちの彷徨える魂は、しかし辛うじて救済されています。
『(500)日のサマー』(09年)や『アメイジング・スパイダーマン』(12年)のマーク・ウェブならではの美点として、原色を使ったポップでカラフルな色彩感覚が映画の全域に気持ちよく跳ねていて、そんなビビッドな画作りは、この映画に対する私の眼差しをいくらか好意的なものにしてくれます。
七面倒臭い話もしたけれど、やっぱりこの映画はマッケナ見てほっこりするほっこりマッケナ映画だと思うので、マッケナ見てほっこりしちゃった時点でこの映画の勝ちなんでしょうね。「マッケナ使ってほっこりさす」という製作側の企みにまんまとヤられてしまいました。
よく「かわいいは正義」って言うじゃない。そういう物言いに対して私は「わけのわからないことを言って世界の秩序を歪めるなクソボケが」って思ってたけど、この映画を観たことで考えが少し変わったよ。かわいいは正義かもしれないよな、って。
次なる出演作にも期待してるよ。
マッケナ待ち!
かわええの~。