シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ

「映画を見続けること」とは文化的浮気を繰り返すことかもしれない。

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2015年。レベッカ・ミラー監督。グレタ・ガーウィグイーサン・ホークジュリアン・ムーア

 

ニューヨークの大学で働くマギーは、妻子持ちの文化人類学者ジョンと恋に落ちる。仕事ひとすじで家庭を顧みない妻ジョーゼットに愛想を尽かしたジョンは離婚を決意し、マギーと再婚。数年後、ジョンとマギーは子どもにも恵まれ幸せな毎日を送っているかに見えたが、小説家になるため仕事を辞めたジョンとの生活にマギーは不安を感じていた。そんな中、多忙なジョーゼットの子どもたちの世話をするうちに、ジョーゼットとも親しくなったマギーは、ジョンはジョーゼットと一緒にいた方が幸せになれると気づき、夫を前妻に返すという突拍子もない計画を思いつく。(映画.com より)

 

ヘイみんな最近どう。本格的に蒸し暑くなってきましたね。

とりわけ京都は周りを山に囲まれたクソ盆地なので逃げ場なし。夏は暑く、冬は寒い。こんなのってない。どこにも救いがないじゃないか。

京都あらため京地獄である。特にこの時期なんて府全体がサウナ

夏になると、見すぼらしいTシャツを汗で湿らせた外国人観光客がムッとした表情で茹だりながらヨロヨロと歩いているのだけど、そうした風景にシリアスな笑いを感じてしまうんですよね。

わざわざこのクソ暑い時期を選んで京都に遊びにきて、Tシャツをぐしょぐしょにしながら不快げな顔して灼熱の街を観光するって…、飛んで火に入る夏のトラベラーだよ。

おのれで京都来て、おのれで茹だるって…。

とはいえ、いち京都市民としては申し訳ない気持ちにもなってしまいます。「気候がごめんね。ウチの気候がごめんね」って。

 

というわけで本日は『マギーズ・プラン 幸せのあとしまつ』です。

このブログ…、「というわけで」という接続詞が文法的に正しく使えたことってあったのかなぁ?

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男友達から精子をもらってシングルマザーになろうとしているグレタ・ガーウィグが、文化人類学者のイーサン・ホークと恋に落ちる。

しかしイーサンには大学教授を務める妻ジュリアン・ムーアがいる。ジュリアンと離婚したイーサンはグレタ姐さんと新たな家庭を築くが、次第にイーサンのどうしようもない性格が露呈。すっかり嫌気が差したグレタ姐さんは、イーサンを元妻のジュリアンにつき返そうと考えてある計画を立てる…。

まぁ、恋のクーリングオフを描いた作品です。

 

先に結論めいたことを述べておくな。

明らかにウディ・アレンを意識してますね。

これは女性版ウディ・アレン映画だ。とにかく登場人物全員が身勝手で面倒臭いニューヨーカーで、恋愛や結婚についてひたすら小言をまくし立てるという。

グレタ姐さんは小説家に転身しようとして夢を追い続けるイーサンに惚れたのに、いざ結婚してみると家事も育児も仕事もしなくて執筆活動だけに熱中するイーサンに嫌気が差す。それだけならまだしも、うっとうしくなったイーサンを元妻に返して丸く収めようと裏工作。

イーサンはと言えば、知的で理屈っぽいことをまくしたてて相手を煙に巻くようなインテリで、家事も仕事もしてくれるグレタ姐さんに依存している根っからの学者気質。

元妻のジュリアンもイーサンとまったく同じ性格をしたインテリ教授。

それだけにグレタ姐さんは「似た者同士がくっ付くべきなのよ」と結論してイーサン&ジュリアンを元の鞘におさめようとするが、そこにはイーサンを元妻に返すことで円満に離婚したいという手前勝手な下心が張りついていて。

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元妻ジュリアン・ムーアと今妻グレタ姐さんの会談。

 

ポップで小気味のよい映像とは裏腹に、観る側に一定の教養がなければまるで伝わらない台詞の掛け合い、間口の狭いユーモア、小ネタの数々など、積極的に見る人を選びにいってるような澄ました感じは、まぁ、ニューヨーク・インディーズらしくて微笑ましい(とはいえ、多くの観客からすれば鼻持ちならないタイプの映画かも)。

何より、主演のグレタ姐さんを極端に奇人でも凡人でもなく、まさに過不足なくこういう人ギリギリいそうな絶妙なキャラクターとしておさめたカメラとの間合いがすばらしい。

イーサン・ホークの文系ならではのダメ男っぷりとか、ジュリアン・ムーアの意思堅固で頭脳明晰ゆえの鬼嫁っぷりなどもタイプキャストとして完璧。

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非常に可愛らしいポップな色彩感覚。

 

ただ、そうした細部の魅力が際立つほどに、ますますウディ・アレン映画を観ているような気分になっちゃって。

とても知的で優雅な演奏なんだけどウディ・アレン、完コピしました!」という域を出てないだよね。

もしこれがコピーバンドだったら「すごいねぇ」と称揚することにやぶさかではないのだけど、もちろん監督のレベッカ・ミラーをはじめ、作り手たちは別にウディ・アレンの二番煎じをやろうなんて思ってないわけで。だとしたらこの映画のオリジナリティはどこにあるのか? と言われたら、ちょっと擁護しにくい部分はあります。

 

解決策は至ってシンプル。

舞台がニューヨークでさえなければいいんだよ

ウディ・アレンという人はこの世で最もニューヨークを撮り続けた映画作家(半世紀を超えるキャリアの中で「ニューヨークが舞台じゃない作品」を数える方が煩わしいぐらい50年以上もニューヨークを撮り続けている監督だ)。

ニューヨークが舞台で文化的に洗練されたニューヨーカーたちがニューヨーク的な会話やニューヨーカー的な思考をするさまをウザったいぐらい延々と見せ続けるオシャレ映画なんてウディ・アレンだけで充分!…というのが映画的民意として存在しています。この世には。

だったらニューヨーク以外を舞台にすればいい…と、こうなるわけです(同じ映画でも地域を変えるだけでまるっきり別の映画のように映ります)。

 

でもまぁ、無理でしょうね。

グレタ姐さんはマンブルコア映画(ニューヨーク・インディーズ)のミューズだし、イーサン・ホークジュリアン・ムーアはともにニューヨーク育ちの俳優。

明らかにニューヨークと所縁のある俳優だけで固めているし、そこにニューヨークへの想いをみとめることは出来るのだけど、だったらウディ・アレンをそっくりそのままなぞっちゃうのはどうなんでしょうねぇ…という感じで。

 

べつにウディ・アレンは、たとえば西部劇に対するクリント・イーストウッドのように「もう誰にもニューヨークは撮らせない」と言ってるような狂的なまでの独占欲を持った監督ではないし、そこには十人十色のニューヨークがあっていいんだよ。

実際、しょっちゅうアメリカ映画の舞台として出てくるニューヨークは、監督の毛色によってまるで違う表情を見せる都市なわけで。

いちばん自由が利く都市というか、いくらでも撮りようがある州なんだよ、ニューヨークって。

にも関わらず、本作は最初から最後までウディ・アレンのニューヨーク」の真似事を(今さら)見せられてる…という状態なので「だったらウディ・アレン観るよ!」と。

 

ちょちょちょ。タンマ、タンマ。

…さっきから話半分で聞いてませんか? あなたに言ってるんですよ? レベッカ・ミラー女史!

読者に対して喋ってると思って油断していたでしょう。違いますよ。これは私からレベッカ女史への個人的な説教なんですよ。読者なんて関係あるか。いわば一対一の個人面談だよ、オレとレベッカの! だから話聞けっつーの。

では、説教を続けますね。

 

いち観客としては、数ある映画の中から『マギーズ・プラン』を選んで観てるのだから、そこにはこの映画なりの、もしくはこの監督なりの個性というか、「ここだけは譲れません!」というクリエイティビティがないと。

極論、これがなければ、この世のすべての映画を1位から100位まで厳正にランク付けして、われわれ観客はそのランク内の「文句なしに素晴らしい映画」とやらを一生見続けていた方が幸せ…ってことになるよね。

だが実際、そんなもんは幸せどころかむしろ地獄だ。

 

考えてみてください。

なぜ我々はマイケル・ベイジョエル・シュマッカーみたいな、どうしようもなく低知能で品性下劣な映画を、わざわざ金と時間と体力を使って観るんですか?

少なからずそこには個性独創性があるからでしょう?

マイケル・ベイ現象の真骨頂は、やはり本家本元の作品でしか味わえないわけですよ(味わうに値するかどうかは別として)。

いくらクソみたいな映画、カスみたいな監督でも、「その映画でしか見られないモノ」とか「その監督にしか撮れないモノ」という唯一性があるからこそ、人は色んな映画に手を出して冒険(一喜一憂)するんだよ。

冒険こそが映画の醍醐味であり、優位性だ。

もしこれが音楽であれば、気に入った音楽家を見つければその曲を一生聴き続けていればいい(ごく数人の作曲家の曲しか聴かない…というクラシックマニアは大勢いる)。読書にしても、自分の人生観を変えた作家と巡り会えたら、その作家の本を糧に一生を送ることはできる。

だが、映画だけは違う。映画というのは基本的に一回性のメディアなので、ひとつの映画を観たら次はべつの映画を観たくなるものだ。視覚情報による一期一会だ。

たった一本の映画やたった一人の映画作家の作品だけを死ぬまで何万回も観続ける映画ファンなどこの世に一人として存在しません(もしそんな奴がいるとすれば確実にコンピューター人間だから気をつけた方がいい)し、もはやそれは「映画ファン」ではなくパラノイアと呼びます。

 

人は、ひとつの映画ではなく、いろんな映画を観る。

映画を見続けることとは、いわば文化的浮気を繰り返すことかもしれない。

いろんな男を渡り歩く。

いろんな女と関係を結ぶ。

それが映画だ。一途な人間に映画など観れないし、映画は作れない。理想のタイプにこだわってストライクゾーンが狭くなっている人間には文化的浮気など到底できない。

 

たとえば10本の映画を観て、その10本全部が「クローンか?」っていうぐらい画一的で似たり寄ったりの映画だったら、まるで意味がないわけですよ。10股してる浮気相手が全員同じ顔、同じ性格、同じ感性、同じ思想、同じファッションだったら、そもそも浮気(映画鑑賞)する意味がないんだよ。

だからこそ、そこにはその映画ならではの個性や独創性がなければならない。

この世にウディ・アレンは2人もいらない2人いても意味がない。

どっちか消えろって話になりますよ。

そうした場合、消えるのは間違いなく『マギーズ・プラン』でしょうね。だから個性や独創性は大事なんですよ。「大事」という言葉を使うことがアホらしいぐらい、もはや大前提なんです。

 

今の話がほんの少しでもレベッカさんの心に届いてくれたら嬉しいのだけど。

あらあら、まーたそんな膨れっ面をしちゃってぇ。ヘソを曲げてもムダですよ。曲がったヘソは引っこ抜くタイプなので。

別にあなたの作品を全否定はしてないじゃない。褒めるところは褒めたじゃん(冒頭でサラッと)。それなのに、なんで拗ねんの。機嫌をお直しよ。フリスクを分けてあげるから。あ、でも俺フリスク持ってなかったわ。

それはそうと、ひっきりなしにフリスクばっかり食ってる人ってどういうつもりなんでしょうね。「それを食い続けることで一体あなたはどういう感じになりたいの?」っていうか「どういう自己実現に向かってるの?」と不思議に思います。

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グレタ姐さんは相変わらずキュート。


私の名誉のために言っておきますが、本稿では便宜上「映画を観ること」を浮気に喩えているけど、もちろん私はプライベートで浮気経験なんてないですよ。そもそも恋愛経験だって(以下略&お察し)