シネマ一刀両断

面白い映画は手放しに褒めちぎり、くだらない映画はメタメタにけなす! 歯に衣着せぬハートフル本音映画評!

蜜蜂と遠雷

天才が天才に出会う、才能・ミーツ・ガール。

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2019年。石川慶監督。松岡茉優、松坂桃李、森崎ウィン、鈴鹿央士。

 

優勝者が後に有名なコンクールで優勝するというジンクスで注目される芳ヶ江国際ピアノコンクールに挑む栄伝亜夜、高島明石、マサル・カルロス・レヴィ・アナトール、風間塵。長年ピアノから遠さがっていた亜夜、年齢制限ギリギリの明石、優勝候補のマサル、謎めいた少年・塵は、それぞれの思いを胸にステージに上がる。(Yahoo!映画より)

 

 

「目に入れても痛くない」という慣用句がある。子供とか孫のかわいさを表現するときに使うよね。

この慣用句さ……喩え、雑じゃない?

目に入れても痛くないって。何とでも言えるじゃないそれ。 「鼻から吸っても痛くない」とか。ていうか目に入れようとすなよ、まず。発想がグロいんだい。目の中に孫なんか入れたらどっちも死ぬぞ。

あと瞳の美しさを表現するときに「吸い込まれそうな目」と言うじゃない。どういうことやねん、それは。

これだけは本当に分からない。人の目をみて吸い込まれそうな感覚に陥ったことがないので全然ピンとこないというか、そもそも言ってる意味が分からない。そんなダイソンみたいな目ェあるんけ。

そんなわけで本日は『蜜蜂と遠雷』です。かなり真面目に書きました。

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◆この子ら、ずっとピアノ弾いてるわ◆

ここ数年、いくら何でもピアノを題材にした映画が作られすぎだが、「もう向こう10年はピアノ映画など作ってくれるな」と思わせるほど『蜜蜂と遠雷』は巷に溢れるピアノコンテンツの集大成たりうる力作だ。多くの美点があり、またそれと同じくらい瑕疵もあるのでトータルとしてはごく普通の出来栄えにおさまっているが、本作には「出来栄え」の一歩先で人を震わせる何かがある。

この作品が飽和化したピアノ映画を「はい、もう『蜜蜂と遠雷』で打ち止め。これ以上はしつこいよ」と決算してしまったのはピアノしか弾いてない映画に仕上げたみせたからだ。

物語が始まると、いきなり若き4人のピアニストが鎬を削るコンクールの予選が始まり、1次予選、2次予選と続いて本選を描ききったあとに潔くエンドロールに突入する。コンクール開催日を迎えるまでの各々のドラマやバックボーンは必要なときに必要なぶんだけ台詞や回想で補足される程度。『さよならドビュッシー』(13年)『四月は君の嘘』(16年)のようにピアノレッスンや他者との交流を通して心身ともに成長していく過程は物の見事にオミットされ、ただコンクールの模様だけが淡々と映し出されていく。

この大会に始まり大会に終わる形式で思い出されるのは無論『燃えよドラゴン』(73年)だ。ブルース・リーが「あたー」言いながら武術トーナメントを勝ちあがっていく…というだけの極限までミニマムな少年誌的プロット。その意味で本作は『蜜蜂と遠雷』というか…もはや『燃えよピアノ』なのである。まあ本当にピアノが燃えたら困るわけだが。

1次予選でピアノを弾き、勝ち残った奴だけが2次予選でピアノを弾き、さらに勝ち残った奴が本選でピアノを弾く。ただそれだけ。これが向こう10年はピアノ映画など作る必要がない理由だ。主要キャスト4人が優に10年分弾いてくれているのよね。

 

勝負の明暗を分けるのは悲しいほどの才能の差。冷酷な脚本によって「努力のプロセス」をみな等しくすっ飛ばされたピアニスト達には先天的な才能を見せつける場しか用意されていないのである。それがこの映画の“環境”。それはそれはシビアなもんだ。

幼い頃から神童として数多の賞レースを荒らしてきた松岡茉優は、ピアノ教師でもあった母の死のショックで7年前に音楽界から姿を消した才女。亡き母からの「宿題」を終わらせるべく最後のピアニスト生命を懸けてコンクールに出場したが、7年ものブランクは彼女の音色に“迷い”を生じさせた。かつて指揮者を恐れてコンクールをドタキャンした過去があるように、実力はピカイチだがメンタルが弱い。

なお本作ではモーニング娘を弾くことはない。

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松坂桃李は年齢制限ギリギリで出場したので今度のコンクールが最後となるが、専業者として身も心もピアノに捧げてきた…というタイプではなく妻子持ちのサラリーマンである。プロや批評家だけに分かる音楽ではなく、素人でも楽しめるような地に足がついた「生活者の音」を探求し続ける庶民派ピアニストだ。がんばれ父ちゃん。

そんな松坂を密着取材しているのがブルゾンちえみ扮する音楽ジャーナリスト。まさにキャリアウーマン。

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名門音楽院で技術を磨き上げた森崎ウィンは完璧主義の技巧派だが、かつては幼馴染みの松岡茉優の背中を追っていた泣き虫小僧でもあった。松岡と十数年ぶりに再会した今回のコンクールでは切磋琢磨しながら予選を勝ち上がる順風満帆ボーイで、優勝候補としても注目されている。

なお予選でスピルバーグが応援に駆けつけるといったサプライズはないし「俺はガンダムで行く」と言い出したりもしない。今回彼が操縦するのは鍵盤なのだ。

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今年亡くなったユウジ・フォン・ホフマンなる伝説的なピアニストから推薦状付きで送られてきたフランスからの刺客・鈴鹿央士は、既存の音楽観では捉えきれない天才的な演奏をする麒麟児。彼を「ギフト」と取るか「劇薬」と取るかは審査員の耳に掛かっているというホフマンの手紙には、審査員長の斉藤由貴も思わずパンティーを被ってしまう。

ちなみに今回が映画初出演となる鈴鹿央士を発掘したのは広瀬すずらしく、彼女にちなんで「鈴」という芸名を付けたようだ。

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他にも『ウルヴァリン: SAMURAI』(13年)福島リラをはじめ多くの出場者が鎬を削り合うが、まあ全員噛ませ犬です。

あくまでメインはこの4人の頂上決戦。そこで露呈する「才能の差」が時に清々しく、時に切なく…といった『蜜蜂と遠雷』

私のようにギターの音しか聞き分けられないクラシック素人にも易しい作りですぞ。

 

◆天才頂上決戦◆

それぞれが異なる出自、環境、音楽性を1曲の演奏に託して一次予選に残った4人。彼らを待ち構えるのは、二次予選での課題曲「春と修羅」(映画オリジナル楽曲)。この曲は後半にカデンツァ(即興パート)が用意されており、演奏者が自由に解釈して弾かねばならない。

もはやクラシックよりもジャズやロックで耳にすることが多い即興演奏の難しさは歴史を背負うことの重圧がのしかかることだと思う。歴史が要請する「ある範囲のコード進行」から逸脱することなく、唯一無二の音を連ね、そこからイメージされる世界を「音楽史に沿った形で」生み出さねばならないのだ。

だが本作で奏でられる即興シーンには音楽史的というよりは個人史的な演奏が心地よくフィルムに浸透していた。

ピアノのことなんて一個もわからない私が威勢よく知った風なことを書いてます。

たとえば技巧派の森崎ウィンは、曲全体の印象が崩れるほど強引な速弾きをしながらも剛腕だけで即興パートを成立させるし、「生活者の音」で挑む松坂桃李は音の立ち方にこだわった穏やかなカデンツァで聴衆を魅了する。そして松岡茉優は亡き母との連弾をひとりで再現したような思い出の演奏を…という風に、それぞれの性格や生い立ちが「音」に乗せられてゆく個人史的な即興。

このシーンで特筆すべきは、松岡のピアノの屋根に亡き母が映り込む心霊ショットでもなければ、会場やモニター越しにカデンツァを聴いている他の三者のリアクション・ショットの(演奏シーンを邪魔せぬ程度の)挿入のタイミングでもなく、それぞれのカデンツァがその後の本選出場に耐えうるものかどうかという「実力の程度」が感覚的に伝わる点なんである。

先に暴露しておくと、この二次予選では松坂桃李が落選する。

穏やかで優しい「生活者の音」は他三名の超絶技巧の前に儚くも砕け散ったのだ。だが、スクリーンから発される音を決して聞き逃さぬわれわれは、ドキュメンタリー風に撮られたインタビュー映像の中で松坂が涙を堪えながら落選を伝える遥か手前…まさに二次予選のカデンツァを奏で始めたと同時に「すてきな演奏だけど多分これダメよ通用しないよ桃李くぅぅぅぅん!」と、彼の敗北を半ば確信するのである。

こんな私でさえアホみたいな顔して演奏を聴いてるだけでコンクールの結果が手に取るように分かるのだから、どれだけ「音情報の質」が純度の高いものであるかは推して知るべしのレッヴェールと言っえーる。

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だが松坂の出番はここで終わりではない。

松岡、森崎、鈴鹿の天才3人が、砂浜につけた音符を模した足跡から曲を当て合うさまを見て「あっち側の世界はすごいなー…」と漏らすように、予選敗退後は凡人の世界から天才たちの群雄割拠を見守る役に回る。芝居の手数も見せ場も少ない松坂は一見すると損な役回りのように見えて、じつは主演・松岡茉優や主人公・鈴鹿央士よりも遥かに説話的触媒の機能を担った本作最大のキーマンなのだ。凡人たる彼の眼(=観客の眼)を通してビビッドに立ち現れる「天才だけの世界」の上にこそ、この限りなく綱渡りに近い音の拮抗がクラシック素人の目耳にもありありと感じられるのだから。

松坂桃李の眼に庇護されたフィルムを心地よく滑空するような三人の熾烈な優勝争いは、かつて私が『響 -HIBIKI-』(18年)評で綴った天才論とはまったく違う形の才能についての一大論考を本選という場で展開していたわ。

松坂に続いて森崎ウィンが本選で落ちる「予感」は、オーケストラを指揮するマエストロ(鹿賀丈史)との打ち合わせの不調に漂っている。「フルートと音が合わない」と不満を漏らす森崎と「私のオーケストラに問題はないが?」と言う鹿賀。

その後、スランプに陥った森崎は松岡に救われて本番で演奏を成功させる。いわば落選フラグを回避したわけだが、作劇的に結果オーライでも映画的には一度歪んだモノは二度と元には戻らないのだ。

 

そして残ったのは7年前の天才と現在進行形の天才。

松岡と鈴鹿は敵対するどころか月夜の連弾を通して魂を呼応させた者同士。ここでおもしろいのは、実力の面で松岡を上回っているであろう鈴鹿が演奏技術の差など気にせず彼女との連弾を楽しみ、森崎同様にその背中を追いかけているような憧憬の眼差しが月光の下に煌めく瞬間である。霊的なまでの情趣漂う名シーンだと思う。

無尽蔵に解き放たれた危ういまでの才能を持つ鈴鹿は「よきピアニストを見つけなさい」というホフマンの遺言にしたがい、自分を正しく導いてくれるピアニストを探し続けてきた。そして本選でついに開花した松岡の才能こそが探し物だったのだと気付くのだ。

この映画は、怪物的な天才少年が自らを触発しうる女性を見つけるまでの物語だったのである。まさに才能・ミーツ・ガール。

エンドロールの手前でそれとなく示される順位発表は大した意味を持たないようでいて、この「才能についての物語」を端的に総括した必然の列記だった。

f:id:hukadume7272:20200419040742j:plainベートーヴェンのピアノ・ソナタ14番「月光」に始まるムーンメドレーの連弾。

 

◆世界は鳴ってない◆

「最近の日本映画とは思えないほど」なんて言うと最近の日本映画に申し訳ないが、『蜜蜂と遠雷』はとてもリッチな映画である。

舞台や練習室の小窓から演奏者を見つめる人間の視線や、クロークルームの片桐はいりを随所に散りばめた妙なテンポ感はおもしろいし、なによりコンサート会場という限定空間で椅子におっちんした状態でピアノ演奏をおこなう…という静的な画面が続くにも関わらず全編活劇化されてる点には大いに感動した。

全身を使ってピアノを弾き倒す松岡、ジョギングでコンサート会場に向かう森崎、潮風に乗っちゃう鈴鹿…(松坂だけが動かない理由はあまりに自明なので言わない)。日本映画から失われて久しい黒澤的動態の復権が今をときめく若手俳優たちによって達成されたという祝福すべき現実に「クラシック音楽の在り方を変えたい!」と野望する森崎ウィンの台詞がリフレインするわ。

 

反面、前章で書いた「才能についての物語」はもっぱら主要キャストの芝居の産物であり、カメラは深くて鮮やかな色味と重厚なローキーでヨーロピアンな映像を実現してはいるものの物語を伝える力は少々頼りない。

馬や遠雷や母との原風景といったさまざまな心象が「それっぽいイメージ」という抽象性から抜け出せずにただ漫然と提示されゆく退屈さ。本番直前にドタキャンした松岡が会場内を彷徨するさまと、彼女の順番が刻一刻と近づく本選の様子のクロスカッティングに豪雨の中を駆ける馬のスローモーションまで挟む傲慢さ。

また、4人がいささか不自然な親密さをまとったまま海辺を漫ろ歩くシーンには日本映画やたら海行きたがる問題が脳裏をよぎった。

フランス映画なんかも何かあるとすぐ海に行くが、日本映画は何もないのにすぐ海行く。潮の香りを感じて風に吹かれれば心がすっきりしてあらゆる問題が解決すると思っているのだ!

海を見つめていた鈴鹿が「何か聴こえる」と言って急に走り出し「世界が鳴ってる…」などと観念的なことを呟く場面はあまりに漫画的で気恥ずかしい。「世界が鳴ってる」じゃないんだよ。波の音だよバカ。

f:id:hukadume7272:20200419041354j:plain「世界が鳴ってる…」なんていかにも天才が口にしそうな抽象的なことを言う鈴鹿央士。

 

また、演奏シーンではボディダブルを使ってないことを証明するために顔と手を同一ショットにおさめるという流行りのカメラワークが演者の努力に報いるが、そんな物語とは一切関係のない“作り手の意図”を図々しく誇示するお節介なショットは大いに興趣を削ぐので有難迷惑だったな。

インタビューを当たってみると、案の定「今回映画で本人たちが弾いているように見えるカットは本当に彼らが弾いてます。CGで首だけすげ替えるようなことはしていません(監督談)」と、まったくもって無意味な言葉を並べていたので「その意地から脱却するところから始めなくてはね」と静かに思った。

本当は弾いてなくても弾いてるように見せるのが役者の仕事であり映画撮影の本分なので、このようなリアリズムに腐心するのは本末転倒と言えるし、時間の無駄とも言えすぎる。いわんや、そこまでしてるのに肝心の演奏はプロが弾いた音源を後から被せてるわけで。

どないやねん。

 

ケチョケチョに文句も書いたが、松坂桃李の寄る辺ない佇まい、森崎ウィンの人懐っこさ、鈴鹿央士の儚げで透徹した眼差しがスクリーンに心地よい風を送り込んでいて、「天才たちの頂上決戦」と聞いて人が想像する殺伐たるムードとは無縁のやさしい世界を築いていた。好きだな、この映画。

栄えあるMVPには松岡茉優を選ぶのが穏当だろうか。

『勝手にふるえてろ』(17年)『万引き家族』(18年)を遥かに凌ぐ技巧の極点と、本選のシーンで発せられる妖気は只事ではない。ただしそれは共演者三名が引きの芝居でお膳立てした“ソロパート”であることも忘れずにおきたい。

なお、名脇役賞は斉藤由貴と鹿賀丈史で迷うが…間を取ってブルゾンちえみ。

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いつもより目が開いてるブルゾン。

 

(C)2019 映画「蜜蜂と遠雷」製作委員会