人間関係がこじれたときは小麦粉をかけ合え!
2000年。ダイアン・キートン監督。メグ・ライアン、ダイアン・キートン、リサ・クドロー、ウォルター・マッソー。
仕事と家庭の両立で多忙な日々を送るイブと、仕事人間の姉ジョージア、そして奔放な妹マディの3姉妹は父親ゆずりの電話中毒。姉と妹から痴呆気味の父親の世話を押しつけられてしまったイブは、度重なるトラブルにストレスを募らせていき…。(映画.com より)
ごめんなさいね。またまた悪評回ですよ。
でも悪評回の方が多いのは至って自然っていうか当然の帰結なんですよ、本来的に! 確率論的に考えて!
なぜなら、ダメな映画の数はいい映画の数を遥かに上回るからです。
たとえばレンタルビデオ店に行って無作為に映画100本を選んだとして、そのクオリティの内訳は駄作30本、凡作50本、佳作19本、傑作1本ですよ。
もちろん、この世の総ての映画の中でいちばん多いのは駄作だけど(世界の辺境で作られたようなわけのわからない自主映画も含むので)、レンタルビデオ店にはある程度メジャー=大手映画会社の作品ばかり並んでいる(わけのわからない辺境的駄作は、そもそも配給もされずDVDにすらならないからね)。
したがって、そもそも映画というのは駄作~凡作が大部分を占める。
でも、それだとあまりに世知辛いので、われわれ観客は、駄作→凡作に、凡作→佳作に、佳作→傑作に…というふうに、クオリティに妥協して一段階上の評価グレードで甘めに映画を観ているわけです。
映画評論家やレビュアーは傑作傑作とよく口にするけど、本当の傑作なんて100本に1本あるかないかの確率ですよ。
でもそんな現実に目を向けてしまうと映画を観るのが苦痛になるから、実はそれほど心に響いたわけでも身震いしたわけでもない作品に対して「超よかった! 超おすすめ!」と、あたかも途方もなく素晴らしい映画を観たようなフリをして評価にゲタを履かせて無理やり気持ちをアゲてるわけです、世の映画好きたちは。
そもそも、配給会社というのはどんなに馬鹿げた映画でも「最高の映画なので観てね!」と売り込むのが仕事ですし、多くの映画レビュアーも映画の魅力を広めたくて精一杯その映画の良いところを語る。
しかし、うっとこの『シネマ一刀両断』は違います。一刀両断、言うてますからね。
私は「映画の魅力」ではなく映画そのものを語りたくてレビューを書いているので、いわば、私が向き合っているのは「あなた」ではなく「映画」なのです。まぁ究極の自己満足というか、だから一段階上の評価グレードで甘めに映画を観る必要すらなくて。
で、そんなことをしてるから悪評回が立て続くわけです。
とは言え、たかが3連続ですからね。立て続いたうちにも入りませんよ。過去には14連続で悪評したときもありました(さすがにゲンナリした)。
まぁ、そんなわけで『電話で抱きしめて』です。
特に観るべき映画でもなければ為になることを書いたわけでもないので、べつに読む必要はありません。
長女ダイアン・キートンと三女リサ・クドローから父ウォルター・マッソーの介護を押しつけられた次女メグ・ライアンが、仕事と介護に追われまくってひっきりなしに電話をかけ続けるという中身である。
通話映画の金字塔と呼ぶほかあるまい。
『電話で抱きしめて』なんて邦題だから、てっきり遠距離恋愛のラブコメだと思っていたのだが、いざ観てみるとボケた父親がしょっちゅう電話してくる映画だった。
なんやこれ。
本作を手掛けたのは、長女を演じたダイアン・キートン。
『ゴッドファーザー』(72年)や『アニー・ホール』(77年)以降、72歳の現在まで年イチのペースで映画に出続けているニューヨーク派のベテラン女優であり、今なおニューヨーカーたちのファッションアイコンとして絶大な人気を誇っている。
本作はそんなダイアン・キートンが監督を務めた作品だが、彼女に入れ知恵してこの映画を陰で動かしていた黒幕がいる。
製作・脚本を務めた女流監督ノーラ・エフロンだ(実質的にはノーラ・エフロンの作品と言っていい)。
ノーラ・エフロンといえば、『恋人たちの予感』(89年)、『めぐり逢えたら』(93年)、『ユー・ガット・メール』(98年)など、隙あらばメグ・ライアンを起用することでお馴染みのメグ専属監督。ちなみにノーラ女史もニューヨーク出身です。
そんなノーラ女史とダイアン・キートンの接点はと言えば、双方とよく仕事をするメリル・ストリープだろう(彼女もまたゴリゴリのニューヨーカー)。
そして、ボケた父親役にウォルター・マッソー!
『シャレード』(63年)、『突破口!』(73年)、『がんばれ!ベアーズ』(76年)など数々の有名映画を代表作に持つ、おじさん世代には懐かしい大ベテランだ。
で、この人もやっぱりニューヨーク出身なんだよ。
このように、本作に関わっているのは筋金入りのニューヨーカーばかり。
したがって本作の主演は、穴埋めクイズ的に考えてメグ・ライアンしかいないのだ(黒幕ノーラ女史に何度も起用されていて、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのニューヨーク派女優なので)。
ちなみにメグとマッソーおじさんは『星に願いを』(94年)で共演済。
わけのわからないことを喋り続けるマッソーおじさんと「何言ってるの父さん? バカなの?」と優しい言葉をかけるメグ。
要するにこの映画は、ノーラ女史の鶴の一声でニューヨーク派の仲間が集って「ニューヨーカーの底意地見せたるでー」なんつって作られた、まぁ悪い言い方をすれば楽屋オチ映画なのである。
身内だけで固めて「私たちは洗練された人種なのよ。歌声だってこんなに綺麗。らららー」とばかりにニューヨーカー選民思想を辺り構わずまき散らした生粋のニューヨーク映画だ!
そんなニューヨーク映画に出てくるニューヨーク女子の特徴といえば…
(1)主人公のキャリアウーマンはファッションor出版業界でばりばり働いている。
(2)とにかく仕事が忙しいので常に電話している(キャッチホンを駆使する)。
(3)歩行時にはスタバのチルドカップを手に持つことで忙殺されてますアピール。
(4)ペットの世話や親の介護はしない(意地でもしない)。
(5)子供は持たない(意地でも持たない)。
ちょうどアレだよアレ、『浴衣を着た悪魔』だか『プラグを抜く悪魔』みたいな映画があったっしょ。
暇さえあればスマホで友達のSNSを見てめったやたらにイイネをつけまくったり友達がカワイイと言ったものに「本当だ、カワイイ~」なんつって同じ価値観を共有することで上辺だけの友情を繋ぎ止めることに必死な実年齢は23歳だけど精神年齢は13歳のころからまったく成長してなくてファッションと恋愛と菓子食うことしか頭になく「ウケる」と「泣ける」しか語彙のない量産型スイーツ女子がだいたい好きなやつ。
まさにあの映画のアン・ハサウェイのイメージですよね、ニューヨーク女子って。
公私に渡るパートナーだったウディ・アレンの代表作『アニー・ホール』ではダイアン・キートンが劇中で着ているファッションを真似するニューヨーカーが続出。一躍ファッションアイコンに!
本作のメグ・ライアンは、父親や兄妹や取引先とひっきりなしに電話している。喋りまくってはイライラがピークに達して何度もブチ切れる。その繰り返しが描かれるのです。
物語の主軸や起伏など存在しない。ただただ「ニューヨーカーってお洒落で優雅なイメージがあるけど、実際はこんなに大変なのよ」って奮闘記という名の苦労自慢を94分ひたすらしてるだけ。
まぁ、そんなものを見せられても「電話代、馬鹿にならんやろなぁ」ぐらいにしか思わないわけです。
ダイアン・キートンの出演作には、この手の女たちがわちゃわちゃしてるだけ映画が多い。『ファースト・ワイフ・クラブ』(96年)とか『グリフィン家のウエディングノート』(13年)とかね。
こういう映画は、大勢の人たちがもがき苦しむ滑稽じみたドタバタ感こそ醍醐味だが、本作に関しては単にそれがストレスでしかなくて。
端的にうるせえんだよ。ずっと電話で不毛な会話をしてるだけなので。
片時も電話を離さないメグ。
物語はもっぱらメグが仕事と父親介護に忙殺される日常をナーバスに見せていて、そこに辛うじて親子愛をみとめることはできるけど、もうひとつのテーマである姉妹愛(家族愛)の方がねぇ。
2人の姉妹は終盤でチョロッと出てきて仲の悪かったメグとあっさり和解、これまでさんざん放ったらかしにしていた父親が死ぬと「マッソー父ちゃん!」なんつって白々しく泣く。そのあと三姉妹仲よく料理を作って、笑いながら小麦粉をかけ合って終わり。
何なのこれ。小麦粉映画なの?
この「仲の悪かった三姉妹が笑いながらふざけて小麦粉をかけ合う」っていうラストシーンは一見ハッピーエンドっぽく見えるけど、そこに何の説得力もないんだよ。
姉ダイアン・キートンと妹リサ・クドローの「メグとの確執」とか「父親の介護をメグに押しつける」といった問題がなんとなくウヤムヤにされたまま「家族って素晴らしいですね」っていう結論に飛躍しちゃってて。
いわば映画を終わらせるための強引な幕引きとしての「小麦粉かけ」なんですよ。「小麦粉かけときゃあ丸く収まるだろう」っていうさ。
小麦粉にそんな効能があるの? ねえわ。
そんなわけで、この映画から学べることは「人間関係がこじれたときは小麦粉をかけ合うべし」ということです。
なんやその学び。
ただしメグの髪型は相変わらず良い。