複雑な入れ子構造で観る者に逆襲する難解映画。
2003年。フランソワ・オゾン監督。シャーロット・ランプリング、リュディビーヌ・サニエ、チャールズ・ダンス。
新作の筆が振るわないイギリスの人気ミステリー作家、サラは、出版社の社長ジョンの勧めで、彼が所有する南仏の別荘にやってくる。静かな土地と自然に囲まれ、執筆活動を始めるサラだが、そこにジョンの娘と名乗るジュリーが突然現れる。夜な夜な違う男を連れ込むジュリーに当初は辟易したサラだったが、彼女の奔放な魅力に注目し、ジュリーを題材にした物語を書こうとするが…。(映画.com より)
「『スイミング・プール』が難解で意味分からないまま数十年が経っています。友人と二人で『意味が分からなかった!!どういうこと!?』て言い合ったんですが、本当に分からなかったです。私の数十年を取り戻してください」
以前、Gさんからリクエストを頂いたっきり「わぁ、くそ面倒臭せぇ!」としばらく放置していたフランソワ・オゾンの超難解映画『スイミング・プール』を取り上げるために、わざわざレンタルして観返しました。労ってください。胴上げしてください。
今回、私に求められてるのは「評論」ではなく「解説」だと思うので、絵解きに比重を置いた文章となります。
※この映画を知らない方は、先に映画.comからパクってきたあらすじを読んでくださいね。話はそれからだ!
ぅワオ!
◆映画の虚構化◆
さて、フランソワ・オゾンが手掛けた『スイミング・プール』は、公開から15年が経った今でも人々を困惑させ、その不可解な物語の解釈をめぐってさまざまな議論を巻き起こしている。
この映画に関しては、オゾン自身はもちろん、オゾンから固く口止めされたであろうシャーロット・ランプリングとリュディビーヌ・サニエもいっさいを語らず、真相は藪の中へとぶち込まれた。
不可思議なシーンは枚挙に暇がないが、とりわけ観客の間で争点になっているのは「別荘での出来事は事実なのか空想なのか?」ということ。
この作品はストーリーだけに注意を払って観ているとかなり難解だと思う。だけどフランソワ・オゾンという映画作家を知っていれば冒頭8分ですべてわかります。
オゾンの最新作『婚約者の友人』(16年)の評で、私はオゾン作品の特徴を「映画そのものが高度に虚構化された“嘘についての映画”」だと要約したので、まずはこの話から。
かなりトリッキーなミュージカル『8人の女たち』。
オゾンの作品には『8人の女たち』(02年)という奇妙なミュージカル映画がある。
通常、ミュージカル映画の中でおこなわれるミュージカルとは、キャラクターの感情や物語の状況をミュージカルという形に置き換えて観客に提示するための、いわば例えなので、物語世界においては存在しないものである。だから当然、劇中のキャラクターに「自分はいまミュージカルをしている」という意識はない。いわば観客だけに向けられたメタ的な比喩と言えるだろう。
ところが『8人の女たち』では、人物Aがミュージカルを披露すると、人物Bがそれを楽しそうに鑑賞している様子が映されるのだ。そして歌が終わると、人物Bが「とても素敵だった」と感想を述べ、人物Aが歌う前に床に脱ぎ捨てたコートを拾って着せてやるのだ。
つまり『8人の女たち』では物語世界とミュージカルが地続きで存在しており、劇中人物は「自分はいまミュージカルをしている」という意識をはっきりと持っている。
通常のミュージカル映画だと、キャラクターがいきなりハイテンションで歌と踊りを披露しても、劇中の人物にとっては今のミュージカルは「なかったこと」にされているからその後もスムーズに話が展開していくが、『8人の女たち』の世界観はわれわれ観客が生きる現実世界と地続きになっているため、歌が終わったあとの気まずさとか気恥ずかしさといった「ヘンな間」があるのだ。
極めつけは、キャラクターがカメラ目線でミュージカルを披露すること。
つまりどういうことかと言うと、この映画に出てくるキャラクターは、自分たちの前にカメラが置かれていることを知っていて、これが映画の撮影だということも知っていて、さらには言葉や身振りのいっさいが芝居であり、すべては作り物であるということすら認識している。
だから家や木や雪の美術がすべて作り物然としていて、2度に及ぶ拳銃の発砲さえもがわざとらしく、ごっこ遊びの範疇に留まっているのだ。
つまり『8人の女たち』はメタ視点で作られた作品であり、映画の中で映画を演じるという入れ子構造になっている。これがオゾン必殺の「映画の虚構化」である。
◆現実と妄想の線引きは「雨の降る窓際のショット」によって引かれる◆
こうしたオゾンの手つきを踏まえて『スイミング・プール』を観ると、サラが不倫している出版社の社長ジョンの別荘で休暇を過ごすシーケンスがまるごとサラの妄想(というより創作)であることは明らか。
オゾンに対して「この映画は、事実と虚構の線引きがとても曖昧ですね」などとバカなことを言ったインタビュアーがいたが、映画を観ていればこれは明白。
事実と虚構の線引きがなされるのは、ジョンにバカンスを提案されたサラが、帰宅して雨の降る窓際で思案しながら一服するショットだ。次のカットではフランス行きの列車の中でタバコをくゆらせるサラのショットに繋がるので、ここから空想シーケンスが始まっている。
実際、雨の降る窓辺で一服するサラを、カメラは少しずつズームインしている。これはディゾルブやフラッシュバックといった場面転換を表現するための映像技法。つまり「ハイ、ここから先はべつの時間・空間のお話が始まりますよ」の合図だ。
オゾンはなんだかんだで親切なので、列車内のショットと同時にサラの妄想=創作が始まったことを観客が気付けるように、大きなヒントを出している。
ファーストシーンではツッケンドンな口調で人当たりの悪かったサラが、フランスの別荘に着いた途端に地元民とにこやかに交流するのだ。「別人格か?」と思うぐらいに。
そう、実際に別人格なのだ。
新作小説の執筆に行き詰ったサラが「フランスの別荘でジュリーという若い女と共同生活しながら新作小説を執筆するサラ」についての小説を書いているのだから。
フランスの別荘で執筆するサラ(演:シャーロット・ランプリング)。
◆映画であり劇中小説でもある『スイミング・プール』◆
サラが自身を主人公にして書いた「フランスの別荘を舞台にしたバカンス小説」は、自分自身を内省的に見つめ直すための自伝小説である。
ジョン(サラの浮気相手である出版社社長)の娘といって別荘にやってきた若く美しいジュリーは「サラが失ったもの」の象徴だ。強烈なセックスアピールと、自信に満ち溢れた野放図な若さ。そして未来…。
プールサイドで寝そべるジュリーとサラがまったく同じ構図で繰り返されるし、二人が手を振り合うラストシーンも、まるで鏡で映したように寸分違わず同じ動きをしている。
夜な夜な違う男を連れ込んではセックスに耽るジュリーをサラは憎悪するが、やがて憎悪は嫉妬へと姿を変える。自分にないものをすべて持っているジュリーに創作のインスピレーションを得たサラは、執筆中の小説にジュリーを登場させるのだ(このシーン自体が現実のサラが書いてる小説の内容なので、小説の中の小説ということになる)。
共同生活の中で何度もいがみ合う二人だが、ジュリーがジョンと正妻の間にできた娘ではないことを知ったことで、サラはジュリーに対して母性にも似た愛情を見出す。徐々に二人の関係も良好に…。
ジュリー「あなた、物書きなんでしょう。どんな小説を書いてるの?」
サラ「血とセックスと殺人が出てくるミステリー小説よ」
ある日、ジュリーはサラの部屋に忍び込んで執筆中の原稿用紙を盗み読みする。そこには、自分たちが登場する別荘での出来事が現在進行形で書かれていたのだ。
そのあと、ジュリーがカフェ店員を別荘に連れ込んで唐突に殺害するのだが、サラに「なぜ殺したの?」と訊かれたジュリーはこう答える。
「あなたのため…。本のためよ」
ジュリーはサラの小説をより面白くするために殺人を犯した。
ジュリーにインスピレーションを得て「起きた出来事を書く」というサラの行為は、逆にジュリーにインスピレーションを与えて「書くために事件を起こす」行為へと先後関係が逆転し、ジュリーの狂気に呑まれたサラはカフェ店員の死体を隠して完全犯罪を成し遂げる…。
念のために言っておくが、私がいま書いてることは「サラの創作=妄想」である。
実際にこんなことは起きていないし、ましてやサラはフランスの別荘にも行っていない。現実のサラは雨の降る窓際で一服したあとに机に向かってこの話を書き続けているのだ。
ぅワオ!
そしてラストシーン(ここは現実です)。
出版社に赴いたサラは、ジョンに「最高傑作ができたわ」といって新作小説を手渡す。
題名は『スイミング・プール』。
その小説の内容は、この映画を観た人ならすでに知っている。この映画で描かれた「別荘でのサラとジュリーの共同生活」がそっくりそのまま書かれているのだから。
原稿を読み終えたジョンは、眉を顰めてこう言った。
「正直、何を訴えたいのかまったくわからない。詩的すぎるし抽象的だ。殺人や捜査がキミの書くべきものだ」
このセリフは「本作を観た観客の気持ち」を代弁している。
実際、この映画は何を訴えたいのかまったくわからないうえに、詩的すぎるし抽象的だ。
だが、ジュリーはサラの小説を面白くしようとして殺人を犯した(小説の中で)。
「何を訴えたいのかまったくわからないですって? 血とセックスと殺人、みんなが大好きなものがこんなに詰まってるのに?」とでも言うように…。
◆これはオゾンから我々への逆襲だ◆
サラの新作小説『スイミング・プール』の内容をそっくりそのまま映像化したものが本作『スイミング・プール』だ。
この入れ子構造に気付かないと、本作の時間軸をこのように勘違いしてしまう。
①サラがジョンにバカンスを提案される。
②フランスの別荘でジュリーと共同生活を送りながら新作小説を書き上げる。
③イギリスに帰ってきたサラが完成した小説をジョンに渡す。
だが実際はこうだ。
①サラがジョンにバカンスを提案される
②結局バカンスには行かず「サラがフランスの別荘でジュリーと共同生活を送りながら新作小説を書き上げる」という新作小説を書き上げる。
③完成した小説をジョンに渡す。
オゾンは本作について「次々と多くの映画を作り続けて、その想像力の源を聞かれることが多かったので、それに答えるためにこの映画を作った」と語っている。
いわば『スイミング・プール』とは、創作に行き詰った表現者がスランプを打破して誰にも媚びない最高傑作を作りあげるまでを描いた「表現活動についての映画」だ。
したがってサラというミステリー作家はこの映画を撮ったオゾンの分身である。
変態性に満ちたブラック・コメディ『ホームドラマ』(98年)が物議を醸し、『まぼろし』(00年)では「詩的すぎるし抽象的だ」と言われ、ならばとオールスターを使った『8人の女たち』でコマーシャリズムに葛藤したオゾンが、ついにぶち切れて『スイミングプール』を撮った。
創作の初心に立ち返り、商業路線から逆行して、 血とセックスと殺人という「誰もが好きな題材」を詰め込みながらも「誰にもわからない難解映画」を撮ってみせたのだ。
低俗な映画を作れば「もっと高尚なものを作れ!」と言われ、高尚な映画を作れば「もっと分かりやすく作れ!」と言われる。ならばその両方をぶち込んで困惑する人々を嘲笑うのみ。これはオゾンから我々への逆襲だ。
まさに底意地の悪いオゾンの真骨頂が味わえる「最高傑作」だろう。
◆追記、箇条書き◆
●リュディビーヌ・サニエ(ジュリー役)のおっぱいが非常によい。
これは特筆大書に値する。類稀なるおっぱい映画としても後世に名を残す確率は高い。
●『スイミング・プール』というタイトルなのに、この映画のファーストショットは海の水面。この皮肉の意味は後々わかる。
●オゾンはゲイをカミングアウトしており同性愛を扱った映画も撮っているので、初めて本作を観たときは「サラはジュリーを愛しているのではないか?」などと頓珍漢な深読みしてしまった。
なまじオゾンを知っているだけに却ってありもしない謎に絡み取られて思い違いに翻弄される…という映画好きの因果か、はたまた私が阿呆なだけか!
●消えた十字架、ジュリーの過去、顔が入れ替わるなど、その他にもさまざまな謎があるが、いちいち触れてると果てしなく長くなるので端折りました。続きは是非あなたの目で!