キャスリン・ビグローは玉か石か?
2017年。キャスリン・ビグロー監督。ジョン・ボイエガ、ウィル・ポールター、アルジー・スミス。
67年、夏のミシガン州デトロイト。権力や社会に対する黒人たちの不満が噴出し、暴動が発生。3日目の夜、若い黒人客たちで賑わうアルジェ・モーテルの一室から銃声が響く。デトロイト市警やミシガン州警察、ミシガン陸軍州兵、地元の警備隊たちが、ピストルの捜索、押収のためモーテルに押しかけ、数人の白人警官が捜査手順を無視し、宿泊客たちを脅迫。誰彼構わずに自白を強要する不当な強制尋問を展開していく。(映画.com より)
さぁ今日は『デトロイト』だぜ、ヘイ。
デトロイトといえば、KISSのロックンロール・アンセム「Detroit Rock City」。
そして「Detroit Rock City」といえば『ハッチポッチステーション』でグッチ裕三が替え歌していた「指から血がデトロイト♪」というパワーワード。
私は 『ハッチポッチステーション』におけるグッチ裕三の替え歌に多大な影響を受けた人間の一人だ。当ブログではくだらない名前いじりをよくするが、そのルーツはグッチ裕三にあったのかもしれない…。
そんなわけで指から血が『デトロイト』の評です。
私に向かって「ふざけるな」と言っているようなジョン・ボイエガの睥睨。ちなみに『スター・ウォーズ』続三部作でレギュラーを勝ち取った子です。
◆「痛み」についての映画◆
ジェームズ・キャメロンの元嫁としてお馴染みのキャスリン・ビグローの最新作は、1967年のデトロイト暴動の最中に起きた「アルジェ・モーテル事件」の映画化だ(アルジェ・モーテル事件の詳細は面倒臭いので書かない)。
さて、この『デトロイト』だが、いま現在わりと大きな失意に暮れながら文章を書いており、のちに不満が噴出して後に引き返せなくなりそうなので、先に美点を挙げておく。
『タイタニック』(97年)製作中にジェームズ・キャメロンと離婚したキャスリン・ビグロー。沈没したのは夫婦生活の方だった。
キャスリン・ビグローといえば、イラク戦争における爆弾処理班を描いた『ハート・ロッカー』(08年)や、2011年に起きたアメリカ軍によるビンラディン殺害の経緯を描いた『ゼロ・ダーク・サーティ』(12年)など、タイムリーな社会派映画を手掛けてきたジャーナリズム派の監督だが、本作は「アルジェ・モーテル事件」の真相を世に広めることを目的としているわけではない。
『デトロイト』は「痛み」についての映画だ。
無抵抗な黒人に対する白人警官の暴行・殺人が容赦のない生々しさで描き込まれてゆく。「差別を受けることの心の痛み」よりも「物理的な暴力を受けることの肉体的な痛み」に重点を置くことで、デトロイト暴動がいかにフィジカルな出来事だったかを観る者の皮膚感覚に訴えかけている。
視覚的にも、黒人が壁に向かって横一列で並ばされ、その背後から白人警官たちの尋問や暴力を受けるという構図が中盤シーケンスの大部分を占める。これによって、キャスリン・ビグローは一点集中的に「恐怖」だけを描く。
社会派監督キャスリン・ビグローが、およそ社会派とは真逆の「個人の恐怖や痛み」を太筆で描き上げた力作に「へぇ」と呟きながらの祝福!
モーテルの中で白人警官による恐喝・暴行、そして殺人がおこなわれる地獄の一夜。胃が弱い人は鑑賞注意。キリキリします。
◆キャスリン・ビグ論◆
社会派映画というのは往々にしてテーマ主義だけで語られがちだが、それは「映画の話」ではなく「映画の中で扱われていた題材についての話」なので、そういうのは問題意識の高いレビュアーや高名な社会学者にお任せするとして、ひとまず映画として『デトロイト』を観た場合、「んんんんーッ。これはちょっとどうなんでしょう! これはちょっとどうなんでしょう!」と大騒ぎしながら首を傾げざるを得ない。
映画にまつわる言論空間において、「キャスリン・ビグローは玉か石か?」という議論はほとんどされてこなかった。
先述した通り、テーマ主義によって「映画の是非」が「テーマの是非」にすり替えられてきた人だし、女性初のアカデミー監督賞受賞者という箔も相俟って、キャスリン・ビグローはなんとなく評価が保留されたままになっている映画作家の一人だ(もちろん眼識ある映画好きは「毎回手持ちカメラの揺れがウザい」というところを的確に突いているのだけど)。
そんなキャスリン・ビグローがずるっと一皮剥けたのが、2012年の『ゼロ・ダーク・サーティ』だ。これは素晴らしかったし、世間的にも「ビグロー、やるじゃん」という空気が広まった。これまで彼女が玉か石か判然としなかったが、ひとまず玉として認定されたのだ。
そして『デトロイト』を観て、私…
「石っぽくない?」
再びわからなくなりました。
◆石としてのビグロー◆
『ゼロ・ダーク・サーティ』に比べると退行もいいところである。
当時のデトロイトの風俗を映したファーストシーンは良好。「ビグロー、やるじゃん」と思っていたが、映画が進むにつれて「ビグロー、だめじゃん」が二連、三連…とコンボを繋ぎ、ラストシーンに至って「ビグロー、石じゃん」と結論した次第。
たとえば、暴動によって初公演が中止になった「ドラマティクス」のボーカルが無人となった舞台で一人熱唱する…というクサすぎる劇映画っぷりが、本作の基本的な指針であるドキュメンタリータッチと乖離していること。
たとえば、中盤の主舞台となるアルジェ・モーテルの間取りがやけに把握しづらく、「どこにどの部屋があって誰がどの部屋に入っていったのか?」という空間設計や人物の出し入れがマイケル・ベイ並みに破綻していること。
また、本作最大の売りでもあるアルジェ・モーテルでの40分に及ぶ尋問・暴行シーケンスは「衝撃の40分!」という惹句で騒がれているが、こういう長尺化にこそ映画監督の思い上がりがある。
黒人たちが味わった地獄を追体験させるためには上映時間を延ばせばいい…という短絡的な発想は、空間表現(≒映像表現)のできない監督の逃げ口上だ。
映画を「空間」で見せられない監督は「時間」に逃げる。無駄に時間を引き延ばして、黒人たちが味わった地獄の一夜を観客に追体験させ、それを「臨場感」などという言葉で自讃するのだ。任務終了までの38日間をスピーディに追った『ハート・ロッカー』と同じ監督とは到底思えない。
このシーンが長いのなんのって。
そして、事件後の取調べ~裁判までを描いた第三幕。物語的には非常に重要なシーケンスなのだろうが、なにしろこの時点で「キャスリン・ビグローがやりたかったこと」はすでに終わっているので、ものすごい勢いで失速している。
第一幕であれだけ意匠を凝らした演出や、第二幕で持ちうるエネルギーをすべて投入した緊迫のサスペンスはここにはない。芝居も照明も構図取りもテキトーそのもので「まぁ、こんなもんでしょう」という具合に手癖だけで撮っている。
最大の山場を過ぎたことですっかり興味をなくして疲れきっているのがありありと感じられて少し微笑ましくはあるが、ここにキャスリン・ビグローの「疲れ萌え」を感じ取るほど私はビグローに萌えていない!
悪徳警官を演じたウィル・ポールターが絶賛されているが、…どうなんでしょう。
ウィル・ポールターは子役の頃から好きだし、今回にしても「いい顔になったなぁ~」と親戚のおっさんみたいな感慨に耽ったのだけど、反面、ショーン・ペンやマーク・ウォールバーグのメソッドをそのままなぞってるようにも見えて…、勉強してきました感が芝居に出ちゃってるような。
なにより恰幅が足りない。あの顔であの役をやるなら最低でも10キロは増量せねば。
15歳のときに『リトル・ランボーズ』(08年)でデビューしたウィル・ポールター。虐めっ子をさせてよし、意気地なしをさせてよしの万能サル顔俳優。この微妙なブサイク感がやみつきになる。
そろそろ疲れてきたので終わるが、今回のキャスリン・ビグローは死に時間が多くて緊張の糸が何度もちぎれてしまっている。引っ張りすぎだよ。糸を引っ張りすぎ。時間も引っ張りすぎ。
ひとまず本作では「ビグロー石説」を提唱したものの、絶えず玉と石を往還する人なので、次作では「ビグロー、やっぱり玉じゃん!」と我々を興奮させるようなソリッドな作品を突きだしてくる可能性は高い。 指から血がデトロイト♪