ボウイが「それがモティベーション!」って叫びながらガキしばく映画。
1986年。ジュリアン・テンプル監督。エディ・オコーネル、パッツィ・ケンジット、デヴィッド・ボウイ。
50年代のロンドンでヤングたちが躍る映画。
おはようございます。ピンクのシャツが似合う男、ふかづめです。
まあ、一着も持ってないし着たことすらないけどな。
服にビタ一文たりとも金を使わない私だが、クローゼットの中の薄汚い服を見て「今日こそは何か買うぞ」と休日に街に繰り出してみたりもするのだが、洋服屋さんに入っても「選び方」がわからず、そんな私を餌食にしようと近寄ってきた店員に「何かお探しですか?」と訊かれても「何かは探してるのだけど、何を探してるのか自分でもわからない」などと中二病みたいなことを言い放ち、結句、冷やかすだけ冷やかして店を出てしまうという有様なのだ。
人の買い物に付き合って洋服屋さんに入ったときは、10分も経たぬ内にそわそわしてきて、しまいには「外で待ってる」などとデパートに付き合わされた日曜日のお父さんみたいな捨て台詞を吐いてすぐ店を出てしまう。
かくも服に無頓着な私だが、唯一少しだけ興味があるのはバンT、すなわちバンドTシャツである。ツェッペリン、AC/DC、ヴァン・ヘイレン、あとイエモンとかエレカシとか。
それに映画Tシャツな!
以前、知人と会う日に『エクソシスト』(73年)のシャツを着て行ったら「あ、コワッ。ふかづめさんってそっち系の人なのね…」と言われてしまった。
そっち系の人ってなんだよ。失礼ぶっこくんじゃない!
着心地はちょっと苦しいです。
今度Tシャツ紹介記事を書くのもいいな。ファッション好きのギャル層を取り込むために。服着て自撮りして「着心地はちょっと苦しいです」とか何とか書くだけで記事1本成立するならこんな楽なことはない。
まぁ、持ってるシャツが極端に少ないので一回ぽっきりの企画になるだろうが。
そんなわけで本日は『ビギナーズ』です。
◆オッドアイの美しき爬虫類◆
デヴィッド・ボウイほど映画との親和性が高いミュージシャンもまたといまい。
グラムロックの礎を築き、絶えず音楽ジャンルを変えながらも商業的成功を収めた「最もメジャーなカルトヒーロー」としてポップカルチャーの全域に影響を与え、ジョン・レノン、ミック・ジャガー、フレディ・マーキュリーらとのコラボ効果もありUKロックの頂点に君臨した時代のアイコン。
そんなボウイは多くの映画人からも愛された。
さまざまな楽曲がおびただしい数の映画で使用されている。やはり人気なのは「Space Oddity」、「Life On Mars?」、「Starman」、「Let's Dance」、「Modern Love」あたりのグラム期orディスコ期の華やかな楽曲群だし、これらグラム・ロックによる影響は『ベルベット・ゴールドマイン』(98年)や『ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ』(01年)にも顕著だが、とはいえボウイの本質は実験音楽なのでアンダーグラウンドな映画監督から愛されたインダストリアル路線の楽曲も大変よく、さまざまな映画とも相互作用している。
たとえば『セブン』(95年)、『ロスト・ハイウェイ』(97年)、『アメリカン・サイコ』(00年)、『メメント』(00年)などで使われたエンディングテーマが収録されたアルバム『アウトサイド』(96年)は、もはや音楽体験を超えた作品で、歌詞カードのライナーノーツには「ネイサン・アドラーの日記(ベビー・グレース・ブルーの儀祭殺人事件)」と題された猟奇殺人に関する難解なストーリーが小説さながらに綴られており、個々の楽曲を通してストーリーの背景が語られたり手がかりが仄めかされる…という珍しい構成のコンセプトアルバムだ。
限りなく推理小説に似た音楽体験というか、音楽を超えようとした音楽の創造主。それがオッドアイの美しき爬虫類、デヴィッド・ボウイだ。
また、音楽活動と並行しながら『地球に落ちて来た男』(76年)、『戦場のメリークリスマス』(83年)、『ラビリンス/魔王の迷宮』(86年)などで俳優業もこなしたが、この「演じる」という行為は音楽家としてのデヴィッド・ボウイにとって終生のテーマでもあった。
グラム・ロックの夜明けを告げた歴史的名盤『ジギー・スターダスト』(72年)は、ボウイ扮する異星からやってきたロックスター「ジギー・スターダスト」の栄光と没落を描いたコンセプトアルバムである。ジギーの異星人設定はコンサートやメディア露出時でも引き継がれ、やがて音楽を超えファッションアイコンにまで昇華。以降、デヴィッド・ボウイといえば「遠い星から来た両性具有の異星人」というパブリックイメージが浸透した。
ボウイはジギーの他にも、宇宙飛行士のトム少佐、顔にナショナル炊飯器の稲妻マークを入れたロックスター(レディ・ガガからきゃりーぱみゅぱみゅまで皆マネした)、危険できらきらのピエロ、薬物中毒のシン・ホワイト・デューク、未来を予言する半人半獣…など、時代ごとに架空のキャラクター(ペルソナ)を自作自演し、それを「自己表現」と「パフォーマンス」に変えてきたのである。
そして「Lazarus」のMVで死期を悟ったパイナップルマンを演じたボウイは、その収録アルバム『★』(16年)がリリースされた2日後にこの世を去り、星に帰って行った。
自らの死すら演出した、不世出の“アーティスト”だった。
ボウイのペルソナ一覧。
◆フェイム求めすぎ男女のムチャムチャどうでもいい色恋沙汰◆
そんなデヴィッド・ボウイが出演した作品が『ビギナーズ』なのだが、先に謝っておく。
今回はボウイの話がしたかっただけなので、ここからはぜんぶ余熱で書いてます。
当時、洋楽リスナーの間でちょっとばかり話題になった『ビギナーズ』は、華のスウィンギング・ロンドンを目前に控えた1950年代イギリスを舞台に、夢を追いかけるカップルがショービズの悪意によって引き裂かれ、栄光と挫折の果てに再び結ばれる…みたいなミュージカル映画である。
主演は80年代のボウイと顔が似ているエディ・オコーネル。まったくの無名俳優で、本作の出演後にすぐ低迷した。ヒロインを務めたのは当時日本でもアイドル的な人気を得ていたエイス・ワンダーのボーカル パッツィ・ケンジット。女優としても『リーサル・ウェポン2 炎の約束』(89年)で注目を集めたがすぐ低迷した。
デヴィッド・ボウイが演じたのは写真家志望のエディをショービジネスの世界に引きずり込む広告業界の大物だ。本作が作られたのは1986年だが、ちょうどこの時期は『レッツ・ダンス』の世界的ヒットからすっかりディナーショー歌手になり果て、『ネヴァー・レット・ミー・ダウン』なんて酷いアルバムを発表したり、ヤケを起こしてティン・マシーンなる不思議なバンドを組んでいた、ぐっずぐずの低迷期だ。
全員低迷しとるやないか。
出演ミュージシャンの中にはキンクスのボーカルレイ・デイヴィスや、シャーデーのボーカルシャーデー・アデュも参加している(キンクスねえ…。嬉しい人は嬉しいだろうな)。
監督はミュージックビデオや音楽ドキュメンタリーばかり手掛ける音楽ありき野郎のジュリアン・テンプル。これまでMVを手掛けたミュージシャンは、ニール・ヤング、ローリング・ストーンズ、キンクス、トム・ペティ、セックス・ピストルズ、ポール・マッカートニー、ジューダス・プリースト、デュランデュラン、ホイットニー・ヒューストン…などタッキタキの多岐に及ぶ。ボウイの「Blue Jean」もこの人ね。
さて。映画が始まるとボウイによる主題歌「Absolute Beginners」が流れる。キーボードがイエスのリック・ウェイクマンという以外は特筆すべき点のない曲だ。むしろ最低とさえ言える。
夜のソーホーに繰り出したエディが仲間たちを紹介しながら乱痴気騒ぎの街をすり抜けるファーストシーンでは気合いの入った5分強の長回しが見所となるが、画面の汚さには早くもうんざりさせられた。まだファーストシーンなのにこれは辛い。「こんな映像感覚しか持ってない奴が作った画面にあと100分強も付き合わなきゃならんのか」と思うと白目剥いて虚脱しそうになる。
ドギツい照明とチープなセット撮影、あちこちで焚かれる色つきのスモークに、これ見よがしな仰角。あーはいはい。『フラッシュダンス』(83年)や『ストリート・オブ・ファイヤー』(84年)をとことん駄目にして『ウエスト・サイド物語』(61年)で割ったようなヘドも出ないMTV映像に酔うべくしての悪酔いです。
主演のエディ・オコーネルはすばらしい面構えの美青年だが、ヒロインのパッツィ・ケンジットは少々まずい。歌にも顔にも品がないし、ダンスも下手、バーで歌いながらエディを振るシーンのガングロメイクなど泥人形のようだった。エイス・ワンダーで歌ってたときはフツーに可愛らしかったのに、本作では私がこの地球上で最も薄汚いミュージカル映画と断罪してやまない『マンマ・ミーア! 』(08年)のアマンダ・サイフリッドに比肩しうる汚さにおさまっていて逆に見上げた。それこそマンマ・ミーア(なんてこった!)だった。
エディ・オコーネルとパッツィ・ケンジット。
そんな二人の恋を引き裂くのがフェイム(名声)だ。
カメラマンを目指すエディは、ボウイ演じる広告業界の大物に金で利用され、ファッションデザイナー志望のパッツィは富を求めて大物デザイナーと結婚してしまう。大物デザイナーがパッツィの目の前にチャンスをチラつかしたことで、欲に目がくらんだ彼女がエディの愛を拒絶してデザイナーと結婚してしまい、その傷心につけ込んだボウイがエディを懐柔したのである。
だが政界進出を目論むデザイナーは体面のために結婚しただけで、専業主婦に甘んじたパッツィは華々しいファッション業界から遠ざかり「フェイムを求めすぎたー」と後悔の日々を送っていた。ざまぁねえな。
一方、エディは不本意な仕事をこなしながらも広告業界で地位を築き、久しぶりに彼と再会したパッツィは「ごめんごめんごめーん」と猛省に次ぐ猛省。エディもアホなので平謝りする彼女を許して愛を取り戻した。葛藤も逡巡も衝突もなし。
くだらね。
だが映画はまだ70分。「あと30分も付き合わなきゃならんのか」と思い、遂にオレは白目を剥いて虚脱した。
ボウイによる「動機付けの歌」はよかった。
「自分に恋をしろ」と説いた直後にエディの後頭部をしばくボウイ。
◆いろいろ対立しすぎ◆
まぁ、ここまでの話は分かるのだが、やおら映画は50年代当時のイギリスの世相を反映させようとして性急な展開を迎えます。
ひとつはテッズとモッズの対立。
50~60年代のイギリスでは「テッズ」と呼ばれる50sロックンロールに熱狂するガキンチョと、R&Bやソウルやスカを偏愛する「モッズ」集団がファッションやライフワークを異にして対立していた。特にテッズは血の気が多く、モッズを見るなり「エルヴィスは最高なんじゃあ」とか没理論なことを言いながらシバきに掛かった。頭をシバかれたモッズは一旦スクーターで逃げ、後日、別のテッズを後ろから轢くなどした。
なんでそんなことするん。
こうして、どちらにも属さないエディたちはストリートの抗争に巻き込まれていくわけだが、だからと言って何が起きるでもなし。二人のロマンスと英国ユースカルチャーが全く融けあってない上に、テッズとモッズの対立も不鮮明な描写も留まっている。
一応ロック・ミュージカルなのでとりあえず扱ってはみましたという感じなのだが、無論この辺のユースカルチャーを仔細に描いた『さらば青春の光』(79年)とは比ぶべくもない。
テッズ(左)…テディ・ボーイズの略称。リーゼント頭、ドレイプジャケット、スリムパンツ、ラバーソールに身を包んでバイクを乗り回すイギリス労働階級のガキども。アメリカのロックンロールをこよなく愛します。モッズをよくシバく。
モッズ(右)…モダニズムの短縮形。細身のスーツの上からミリタリーパーカーを羽織ってスクーターを乗り回すイギリス中流階級の小僧ども。アメリカの黒人音楽をこよなく愛します。テッズをよく轢く。
しかも、奴らの対立が収束するまえに次なる対立が起きる。ノッティングヒルの再開発を企むファシストたちが黒人住民を追い出そうとして人種暴動にまで発展するのだ!
色々起こりすぎ。
若者たちの文化対立と大人たちの人種暴動が交差した混沌画面の中で、エディは物語の主人公としての目的や責務を見失ってただ右往左往するばかりで、どんどん映画の趣旨がボヤけていくんだよね。
最も違和感を覚えたのはストリートで黒人狩りがおこなわれるシーケンス。ここでは『ウエスト・サイド物語』のように暴力描写をミュージカル仕立てでマイルドに描く反面、大勢で黒人を囲って角材でリンチしたり民家に火炎瓶を投げ込んだりと、かなりドギツい描写もあるのだ。
露骨な暴力描写を避けるためのミュージカルなのに…両方やっちゃうの?
「マジで命取り合う暴動」と「踊りながらじゃれ合う暴動」の混在。映画のリアリティラインが分かんねぇ。
で、最終的には暴力でもって暴動を解決して「よかったー」とか「ハッピーな気持ちだぁ」なんて無意味なことを言いながら互いに肩を叩き合い、皆でワカチャカブンブンって感じで踊ります。楽しそうで何よりだな。
ミュージックビデオ業界ではプロとして鳴らしたジュリアン・テンプルも映画製作に関しては『ビギナーズ』だった、と。
追記
デヴィッド・ボウイが巨大タイプライターの上で踊りまくるミュージカルシーンだけを唯一の見所とする。
ちなみにこの後、あの事件が起きます。
ボウイ「それが動機付け(モティベーション)!!」
いいえ、それはただの暴力です。