実存主義に基づいた百姓映画の傑作!
1998年。ジョン・ラセター監督。アニメーション作品。
アント・アイランドのアリたちは、凶暴なホッパー率いるバッタ軍団に貢物を納めるため重労働を強いられていた。ある日、発明好きな働きアリ、フリックの失敗が原因で、苦労して収穫した貢物が台無しになってしまう。責任を感じたフリックは、激怒するバッタたちから仲間を守るため用心棒を探しに出かけるが、街で出会ったサーカスの一団をヒーローと勘違いして連れ帰ってしまう。(映画.comより)
迷いましたよ、『バグズ・ライフ』は。
日常生活では衛生害虫をぶち殺しまくり、小学生の時分にはダンゴムシを指で弾きまくっていた私が昆虫映画の評論などしていいのだろうか…という葛藤。
昆虫博士に合わせる顔がない。生きとし生ける総ての虫に謝罪。
あ、でもカマキリは好きですよ。意外とかわいいから。シャーッと威嚇したポーズが妙に愛くるしいのです。「ぜんぜんこわないねん」と言ってるのに、執拗にシャーのポーズ。「いや、だから怖くないから…」と言っても、「あわよくばビビれ」と言わんばかりにシャーをやめない。そこが可愛いわけです。
あとカマキリって、どこかしら宇宙人めいた気配も湛えているよね。
というわけで本日は『バグズ・ライフ』について語り散らします。思った以上にカロリーたっぷりの文章になりました。
◆『バグズ・ライフ』のこと、思い出したげてよ!◆
蟻コンテンツの風土を持った蟻大好き国家といえば、そう、アメリカ。なんてったって国名の中に「ア」と「リ」が入っているのだから、これはもう蟻好きと踏んでよいのではないか。
実際、『黒い絨毯』(54年)、『フェイズIV 戦慄!昆虫パニック』(74年)、『アンツ』(98年)、そして『アントマン』(15年)など、コンスタントに蟻コンテンツを発信し続けているのだ。
そんな中から本日取り上げるのは『バグズ・ライフ』。
ピクサーの長編2作目だが、ピクサー史上最もパッとしない作品なので見逃している人も存外多いのではないか。
あまつさえ公開時期が『トイ・ストーリー』(96年)と『トイ・ストーリー2』(99年)に挟まれた不遇の作品で、その後も『モンスターズ・インク』(01年)や『ファインディング・ニモ』(03年)といったキラータイトルが続々と作られたこともあり、今やすっかり埋もれてしまった感アリ。蟻だけに。
だがな!
当時、小学校の学芸会で『バグズ・ライフ』を演った私からすれば、世の中に対して「みんな『バグズ・ライフ』のこと、思い出したげてよ!」と半泣きで主張したいわけです。ちなみに学芸会でどの役を演じたかは失念。
そんなわけで『バグズ・ライフ』再評価キャンペーンを勝手に一人でおこないます。
多彩な蟻コンテンツ。
◆キッズに嫌われた映画◆
今回、約15年ぶりぐらいに観返して、改めて本作の素晴らしさにいたく感動した。
諸説あろうが、日本でピクサーがまじめに評価されたのは『ウォーリー』(08年)あたりからだ。
映画評論家の町山智浩やライムスター 宇多丸がさまざまなメディアを通じて「ピクサーはなぜ凄いのか?」という論理的なプレゼンを繰り返しおこなったことで、映画好きの間で「ピクサーは観なければならない」という空気が浸透した。そうして『ウォーリー』以前の作品も遡及的に評価され、2008年ごろは「ピクサー最強! ついにディズニーを下す!」みたいなピクサー完全勝利のムードに世界中が浮かれていたのだ(まぁ、近年は形勢逆転してディズニーが王座奪還を果たしたものの)。
ところが『バグズ・ライフ』だけが世間の人々から軽く無視されていた。虫だけにね。
『トイ・ストーリー』シリーズに挟まれるというタイミングの悪さ。そして『トイ・ストーリー』の4倍の制作費をかけたにも関わらず興行収入は『トイ・ストーリー』とトントン。また『アンツ』ほどではないにせよキャラが若干キモい…など、たしかに無視される理由はいくらもあろう。
そもそも昆虫て。
クモやハエやイモムシがわんさか出てくる映画にキッズは飛びつかない。敵がバッタで、ゴ〇〇リだって出てくるのだ。
嫌われる要素しかねぇわ。
もちろんオモチャも売れない。ディズニー/ピクサーはグッズ展開による副次的利益を始めから視野に入れてキャラクターをデザインしていくので、きしょい虫ばかりモチーフにしている時点で負け確定なのである。
キュートな蜘蛛姐さんロージー(左)も、オモチャになった途端にこのざま(右)。
つけま、取れかかっとるやないか。
あるいはこのざま。
だからめくれ上がっとんねん、つけま。
トイレ行って直してこい。
◆実存主義に基づいた百姓映画◆
だが、映画としては申し分なく、以降のピクサー作品に通底する精神とかが確立されています。
『バグズ・ライフ』は、狂暴なバッタ軍団に搾取されているアリの国「アント・アイランド」のお話だ。
発明好きの鈍臭い主人公・フリックは、バッタへの貢物をダメにしてしまったことで「おまえ、マジでいらん事しかせえへんな」と同族たちから迷惑がられてしまう。こんなことでは男がすたる、先祖が悲しむ、というので、名誉挽回のために国を出る決意をしたフリック、「強い仲間を引き連れて戻ってくるね!」と言い残して大いなる旅に出るのだ。
この他力本願イズムからして、すでに最高だ。
さて、光り輝く昆虫都市で各地を巡業する貧乏底なしのサーカス団を見つけたフリックは、彼らを天下無双の昆虫ウォーリアーと勘違いして仲間に誘い、サーカス団を連れてアント・アイランドに凱旋。
この物語は『七人の侍』(54年)をベースにしている。
『七人の侍』をモチーフにした海外映画は数多く存在するが、とかくそれらの映画では「悪を挫く英雄」として侍が描かれる。
だが「勝ったのはあの百姓たちだ。ワシたちではない」という志村喬の名言にもあるように、真の主人公は侍に鼓舞されて「戦う」ことを選んだ百姓たちなのである。
バッタにおびえていたアリたちもまた、助っ人に現れたサーカス団を天下無双の昆虫ウォーリアーと勘違いしてすっかり安心していたが、その正体…すなわち戦闘経験ゼロのただの貧乏サーカス団ということが露見したときに「だったら自分たちで戦うしかない」と覚悟を決めてバッタ軍団に立ち向かうのである!
一方、いらんことしいのフリックはやることなすこと全てが空回りして、ついに自我の危機に立たされる。「僕は何のために生まれてきたのだろう…?」などと中二病みたいなことを言って、自らのレーゾンデートル(存在理由)を疑い始めるのだ。
蟻が…、蟻が哲学しとる。
だが周囲の仲間に励まされたフリックは「僕は…、居ていいんだ!」とゼロ年代以降のJ-POPの歌詞みたいに自己承認に達する。得意の発明で巨大な鳥の模型を作ってバッタ軍団をヒィヒィ言わせることで「僕が僕である理由」を見出すのである。
まさに実存主義に基づいた百姓映画とは言えまいかっ。
◆ピクサー制作陣は自分たちをキャラクターに投影している◆
だが、本当に深いのはサーカス団だと思います。
フリックをスカウトマンと間違えて「バッタ軍団をやってつけてほしい」という願いをサーカスのショーと思い込んだサーカス団の一味はアント・アイランドに行って大歓迎されるが、バッタ退治がショーではなくガチの戦争と知った途端に逃げ出そうとする。まさに蜘蛛の子を散らすように。
彼らは「英雄を演じるショーマン」であって「英雄」ではない。ある意味では、アリよりも非力なゴミ虫なのだ。
だがアント・アイランドの気のいい連中と交流を深めるうちに情が移ってしまい、ヤケクソ精神でバッタ軍団と対峙する。
別れのシーンではフリックから「助けてくれてアリス。アリだけに」といって感謝されるが、「こちらこそアリス。君は僕たちに生きる意味を教えてくれました」とカウンター感謝。
サーカス団にとっての生きる意味とは「人を喜ばせること」だ。
日頃やっているサーカスでも、バッタとの戦いでも、彼らは「個性」を武器にして誰かを喜ばせるために全身全霊をかけてきた。
個性に彩られたサーカス団の一味。左から順に、昆虫昆虫昆虫昆虫…。
サーカス団とはピクサー制作陣の分身なのだろう。
個性を武器にして人を喜ばせるために映画を作る。ウォルト・ディズニーのような英雄ではないからこそ知恵を結集してモノづくりに当たるのだ。
ピクサーの制作陣は、毎回必ずと言っていいほど映画のキャラクターに自分たちを投影させる。
『トイ・ストーリー』でアンディを楽しませるオモチャたちは、結婚して子供を持ち始めた30代のピクサー社員そのものだ。
『Mr.インクレディブル』(04年)では仕事のストレスや家庭のトラブルで自信を失っていく主人公のパパを通して、アニメオタクが揃うピクサー社員の「一家の大黒柱になったというのに、未だに社会と折り合いがつけられない」というパーソナルな悩みが描かれている。
『トイ・ストーリー3』(10年)は自立して親元を離れていく我が子に対する複雑な親心がウッディたちを通して描かれているし、『カーズ』シリーズは引き抜き、賞レース、世代交代といった映画業界のシビアな内幕とレース業界を重ねながら、作り手たちが主人公のマックイーン越しに「アニメーターとしてどうあるべきか?」という立ち位置を模索する作品に仕上がっている。
その時々の「社会」を描き続けるディズニーに対して、ピクサーは「個人(作り手自身)」についての物語が多い。
だからピクサー作品は、たとえ虫や魚や車しか出てこない世界でも、どうも他人事とは思えないのだ。キャラクターの内的な葛藤に観客一人ひとりが自己投影する…という普遍的な物語になっているからです。
「フリックは俺!」、「マックイーンは俺!」ですよ。
◆高度な物語論◆
ここからはもう一歩踏み込んだ話をしていこっかな。当初はもっとライトな評を書くつもりだったけど、やっぱ無理っす。ピクサーだから。
『バグズ・ライフ』は物語についての物語である。
バッタ軍団を率いる暴虐非道のホッパーは、クライマックスでむごい死に方をする。子供向けアニメとは思えないほど描写が残酷なのだ(もっとも、大前提としてピクサー作品はすべて大人向けなのだが)。
だが本作のエンドロールにはNGシーン集が付けられており、そこにはホッパーがセリフをトチって赤面したり、フリックたちと楽しそうにじゃれ合っている姿が!
つまり『バグズ・ライフ』の本編は劇中劇ということになる。
『シベリア超特急』(96年)同様に映画の中の映画というメタ構造を有している。フリックもホッパーもサーカス団も、これが映画撮影であるという前提の上で紡がれる物語、それが『バグズ・ライフ』なのだ。
まぁ、小難しい話を抜きにしても、このNG集によって「すべてはお芝居でした♪」というオチがつくわけなので、ホッパーの悲惨な末路にショックを受けたキッズもNG集を見ればきっと笑顔を取り戻すだろう。再び輝くだろう。それほど幸福感に満ちたNG集なのである。
本編ではこんなに怖かったホッパーが、エンドロールのNG集ではお人好し!
だが、残酷描写がもうひとつある…。
アント・アイランドで歓迎を受けるサーカス団に、アリの子供らが「演劇」を披露するシーンがある。
その演劇は、バッタ軍団を倒すために遠路はるばるやって来たサーカス団を讃えた内容で、それぞれサーカス団とバッタ軍団に扮したアリの子供らが戦争シーンを演じるというものなのだが、それが引くぐらい凄惨な暴力描写に満ちているのである。
サーカス団に成敗されたバッタ軍団は、腕を斬られてのたうち回り、腹を刺されて内臓をぶちまけ、「グエエエエ」と叫んで死んでいく。まさに阿鼻叫喚の地獄絵図。
よく見ると、サーカス団の一員であるイモムシも頭を切断されて血を噴いている。
「なるべくドラマチックにやれって言われたからリアルにやったのー」とアリの子供ら。
そんな演劇を見せられたイモムシは気を失ってぶっ倒れる。
むごい死に方をしたホッパーは、NG集によって実は生きていたことが明かされるので「芝居だから怖くない」わけだが、アリの子供たちが披露した演劇は「芝居だからこそ怖い」という…。
ピクサーは、絶えず「虚構」と「現実」の両面から物語を紡ぐことで「アニメは教育的で安全なものだ」という一元的な解釈を否定する。
実際、ピクサー作品を観ていると、こちらがアニメに対してつい抱いてしまう先入観が脅かされる瞬間がいくつもある。物語を通して「しょせん子供向けアニメでしょ」という観客サイドのナメを逆手を取り、強烈なカウンターパンチを放ってくるのだ。しゅ。しゅ。
ちなみにNG集という演出は、その後『トイ・ストーリー2』や『モンスターズ・インク』へと受け継がれることになります。
そんなわけで、笑いあり、涙あり、アリもあり、スプラッターもあり、でもよく考えたらちょっぴり深い『バグズ・ライフ』。
今一度あなたも再評価してみてはいかがでしょうか。
腹立つわー、このイモムシ。
潰したろか、このイモムシ!